私はたまに、増田に非論理的で心理的に尖った文章を書いたりする(2,3日前に書いたばかり)んだけど、これって、信仰している宗教のせいなんだろうなと思った。
宗教的実利はお布施の額に比して十分なのかはよくわからないけど、その宗教が教える非論理的で超越したロジック、
というか、超越した論法は、私が書きたいと思う文章に大きな影響を与えてくれている。
正直ちゃんと理解できないその論法が、私に(おそらく宗教的正しさとは解離した)私なりの解釈を産ませて、
それが現実の現象と絡み合って、私にそういう文章を書かせるのだと思う。
その、文章への湧き上がるモチベーションを感じられるのは、私のある種の特技とも言ってよく、
私自身も、最後までどう転がるのかわからないまま、そういう勢いで結論も見えず長々と文章を書くのは、本当に楽しい。
仕事で書く報告書とは全く違う。それは長くて、わけのわからないところに届きそうな文章ほど良い。
まあ、そんな文章は、この文章のように、とりとめのない勢いだけの意味不明なものになるのだから、
私の知りうるサービスのうち、匿名性が高いもの、そして、ある程度反応も感じられるものである増田に投げ入れるのは、私にとっては自然。
記名サービスでは、おそらく頭がおかしくなったか、とでも周りに思われてしまうだろう(ましてや、現実に対面して交わす会話では、こんなこと言えない)。
ともかく、私の場合、宗教自体というより、その宗教から誤って感じる副産物の哲学的イメージが、私に文章を書かせる駆動力となっている。
しかし、そんな妄想に囚われた姿は、客観的に見て幸せなことなんだろうか?
多量のお布施を払いながら、宗教的正しさに達していないわけで、それは宗教的には幸せでない状態と言える。
また、お布施を払ってる時点で、私は社会的に見ても、おそらく幸せな状態とは言えない。
それでも、宗教から来た曖昧なイメージが、現実のある側面に絡むと思えたとき、文章が自ら溢れ出てくる!
この感覚は本当に楽しい。自分で一番趣味だと言えるものだと思う。
だから、哲学系の難しい本も、どちらかというと、自らの誤解を育むように読んで、その幻想の資産としようとするわけだが、
そういう観点においては、宗教の伝える超越した、というか、ぶっちゃけ、私にはわけのわからん論法が、私のイメージを一番育ててくれるように感じる。
宗教的正しさを求めるためでなく、自分に産まれる誤解からの豊かなイメージを育むために、引き続きこの宗教を信じていきたいと思う。
(というか、過去の聖人だって、あんなわけのわからん宗教的論法を100%理解できたとは思えない。
そう考えると、その誤解によって何らかの行動が駆動する仕組み自体は、聖人でも同じなんじゃないかと思う。
まあ、それが人の役に立つか立たないかというだけであり。