身近で大切な人の言動が曖昧になっていく、そんな体験って自分だけなのだろうか。
すごく概念的な書き出しになってしまったけど、具体的に言うとすれば
この時の「身近で大切な人」っていうのはたぶん「自分」から見て「一定期間交流のある親しい人」のこと。
これを読む貴方にとって、それはもしかしたら幼稚園、保育園、小学校、中学校、高校、専門学校、大学のころからのあるいはまったく不思議な縁でできた友人かもしれない、父母かもしれない、祖父母かも、娘息子か、恋人か、妻か夫かもしれない。
要は自分にとって、大切な人。あなたにとって、自分をおぼえていてほしいと思う人。
何年もかけて蓄積してきたお互いの記憶が、だんだん曖昧になってきているのだ。
例えば、
ぼくの「この時〇〇だったよね」という回想に「そうだっけ」と返されることがある。
テレビをみて「あのときのあれ……あれだよ……」とその人が共通で認識できる思い出や名詞を思い出せないことがある。
こんな状況はぼくだけ?
そんなことはない。
世間一般的な言葉にあてはめてしまえば、それらは「わすれっぽい」とか、「ど忘れ」だとか「認知症」といった枠組みのなかでおさめることができてしまうかもしれないし、「そんなこと気にすることじゃない」と「もっと苦しい思いをしている人もいる」と思う人もいるだろう。
それはもちろんそうだ、この世に人はごまんといるし、似たような状況が身近に存在する人なんて日常茶飯事、こんなこと気に留めていたら……なんて人もいると思う。でもそれはそれ。ぼくはぼくなのだ。ぼくがその状況の当事者となった際の心境を記させてほしい。
では当事者となったぼくといえば、まだその状況を受け止めることができていない。
受け止めることができなくて、その人の言動に一喜一憂させられている(喜んでいるのかな?)
その人の言動が曖昧になる、自分との記憶が思い出せていない瞬間に立ち会うたびに、言いようのない、泣き叫びたくなる感情に襲われるのだ。
「そうだっけ?」「わからない」、何気ないひとことがすごくくるしい。
たとえばその人と過ごした時を同じくするのがぼくだけではない場合、第三者がいるとして、その人に対して「なんで覚えていないの?」「どうせ忘れてしまうもんね」「こう言ったじゃないか」と当たり散らしている。そういった負の連鎖が生まれてしまう状況もあった。
大切な思い出を忘れてしまう、その人が全面的に悪いわけではないと思う(もしかしたら記憶力を低下させてしまう程生活習慣が悪かったりするかもだけど)。でも、自分との思い出が失われることが悔しくて、意固地になってしまう。その人のせいじゃないのに強く当たってしまう。ついつい「わすれてしまったの?」と意地の悪いことを言ってしまう、非難して、ぼくが被害者面をしてしまう。
虐めたいわけではないのに、その人を追い込みたいわけじゃないのに、
ただただ、さみしい。
わすれないで、ぼくのことを。
こんな状況、自分だけなんだろうか。