長野ひろ子「衣料生産と日本女性――『富岡日記』を中心に」(『中央大学経済研究所年報』49号、2017年)を読んで気づいたことがあった。それは、なぜ自分がこの本が好きなのか、その理由の一端が分かったように思えた。
この長野さんの論文自体はそうたいしたことは言ってないが、印象に残ったのは英の「圧倒的な自己肯定感」である。
(以下引用)
「ここから伝わってくるのは、自らが娘時代に従事した製糸業への熱い思いとそのことへの圧倒的な自己肯定感である。英にとってそれは「一日も忘れたこと」のない記憶、おそらくは青春の輝かしい記憶・思い出であり、老境に入って「繰り返し繰り返し日々楽し」むほどのものだったのである。しかし、それゆえにこそ、自慢話ととられることを恐れ「だれにも一言も申」さず「二十九年」間「心に秘め」て過ごしてきたのであろう。
(引用終り)
圧倒的な自己肯定感の源となる思い出だからこそ、その後の人生の揺るぎない支えとなり、しかし普段決して他人には語らないという心境は俺にもよく分かる。他人からの評価は必要ないのよね。また英は違うだろうが俺の場合は、そもそも自分の大切な思い出を他人に物語として消費してほしくないしね。
最近杉本鉞子の『武士の娘』を読んだが、期待に反してつまらなかった。何故つまらないのかを考えたとき、自分は山川菊栄『武家の女性』と和田英『富岡日記』を無意識のうちに思い浮かべていた。菊栄や英に比べて、鉞子は「言いたいこと」がさして無いように思える。前二者は、「これだけは書かねば気が済まぬ」という切迫感・覚悟・執着のようなものを(方向性は違えど)感ずる。色の違う火花のよう(執着の炎は英の方が強い)。その切迫たる思いが、彼女らの筆鋒を時代のエートスまで届かせている。そこに面白さがある。
それに比べると鉞子は、悪い意味で「上品な文学少女」の域を脱していないと思う。当時のアメリカの読者に受けるように異国趣味を意識して書き、実際売れたのかもしれないが、時代を経た今となっては毒にも薬にもならない。あの時代に単身渡米して結婚した上級武家出身の娘、という触れ込みのわりには大したことを書いてない。現代では、櫻井よし子あたりが「日本女性が世界をアッと言わせた」とか持ち上げてるのを別にすれば、史料としても文学作品としてもあまり注目・評価されてないのはそのあたりに理由があるんだろうね。ジャポネズリには楽しいのかもしれんが、それでないと魅力に乏しい。
今晩は!マイケル富岡です!顔のせいで遊んでるように見られて損してます! ・・・まで読んだ。