仕事にかこつけて、若い女の子と軽井沢をドライブし、お土産屋に立ち寄る。別々の部屋をとってはいるものの、今夜は一緒のホテルに泊まる予定だ。
「これこれ、見て!」
お土産屋を見ながら彼女が差し出したジャムの瓶を手に取り、字が細かいので自然に眼鏡を少し持ち上げる。その様子を見て
「おじいちゃんだ!」
と言って彼女は天真爛漫な様子で笑う。
「そうなんだよ、老眼が進んでね」
二十歳の頃、2度目か3度目の恋をした時にはじめてわかったことを思い出す。
ちなみに初恋は小学生の頃、相手は手をつないで一緒に学校に行く近所の女の子だったから、右も左も分からない恋愛感情だった。その一方で、きょうだいが夢中になっていた歌謡曲や、手当たり次第読んでいた小説の中にもあった恋愛の話は、そのほとんどに共感できないし、興味もないと思っていた。むしろ世の中では、なぜこんなに恋の歌しか流行らないのだろう、と本気で疑問に思っていたくらいだ。
でも、その二十歳の恋を意識した瞬間、多くの歌や小説や、そのほかのスキャンダル、世界を動かす人々のモチベーションの半分か、いやそれ以上が、恋愛によってもたらされていることが手に取るようにわかった気がした。突然に、分かったと思った。
あの二十歳の恋以降、ずっと女性は自分にとって、多かれ少なかれ「狩りの獲物」だった。自分のものにできるか、できないか。それが価値基準だった。でも、この歳になって、そうでない女性の側面を見るようになった。男性とは少し違う存在として、自分の学歴やキャリアを築いていく不安、生活、結婚、病気などの不安、そういう女性たちの気持ちに多少なりとも共感できるようになった。二十歳の恋で、それまで見えなかった世界の半分が見えるようになったと思っていたが、残りの半分はいつの間にか見えにくくなっていたみたいだ。
自分にとって「狩り」に夢中になれる時代は終わりつつあるらしい。ときめくような感情は残っているものの、若い女の子を獲物としてではなく、一人の人間として感情移入し、また育てる対象として見る余裕が出てきたようだ。そういう自分に少し当惑しているが、でもこれも悪くないと思う。
デートの後、どうやって部屋へ誘おうかと悩む必要はもうないらしい。忘れかけていた世界の残り半分へ、自分がまた戻りつつある。
老いていくのも悪くない。