人とは仲良くしたい、嫌われたくない、良く思われたい。怒りや欲にとらわれたりして、苦しみたくない。
どこかでそう感じて、
怒りという苦しみから逃れるには怒らなければよい、そう考えて心を押さえて、無視をして、あるいはすでに麻痺してますね。
苦しみはから逃れよう、心頭滅却?心をしずめて?でもお前精神火ダルマじゃん?
麻痺して、自信も夢も好きなものもわからなくなって、色も味も失せて。
怒りも苦しみも悪もけっしてイコールじゃない、意味を辞書で調べるまでもないよな。
でもなんか=で結んでるものとかあるよな、例えばさ、
我思う故に我有り、私という自我、意識は、その意識をもって意識の側面から物.心の世界を情報として見渡している。
私があり、私以外がある。 私の外があるから、私は内側にある何かか? 違う。私は私としてここにある。
動物であり、生物であり、物体である、その側面としてのホログラムのような私。
物体としての私ではなく、化学的連鎖反応の生物としての私ではなく、電子パルスのネットワークとしての私でもない。
そして、ぐだぐだと考えている私でもない。
意識が認識する根源.原初としての私、その起点は私の内にあるのではない。私自身なのだ。
私の内面という表現として思考、感情、感じる何かとかを意味するのは変だよな、だって私の外側にあるもんな。
話がちょっと変な方向にそれたな。
たとえば、大騒音に一生懸命に熱心に聞き耳をたて、自分を直そう、治そうとしても、あるいは落ち着き払って無視しても、
耳は麻痺し壊れ、体調は崩れ、苦しみは増すばかり。
大騒音があったら、うるさいと思う自由と、耳を傾けない自由も、苦情を言うも言わぬも、歩いて離れる自由も、別の場所で好きな音をきく自由も、歌う自由もあるのと同じように、
自由に選択出来る中から心を苦しめずにいられる方法を“私“は選び取ることが出来る。
火の中にいては目を閉じ耳を塞ぎ、転げ回ろうと火ダルマである。火を避け、遠ざからなくては死んでしまう。逃げる方向を間違えても駄目だ。
あるいは火を消し、救出し、今水をぶっかけてくれる誰かが必要だ。それは自分であり、あるいは他人かもしれない。
手足を使い、火から身を守るすべを持つように、思考を自由に使うことで自由に自分の心を守って良い。
あなたは思考の不自由の縛りをほどき、守るすべを選び、心を自由に守ってよいのだ。
欲深いから、傷つけたくないと思い、傷つけられたくないと思い、人には出来るだけ優しくしたいと思い、穏やかでいたいと無茶をする。
武器を捨て、自身を守る行為もせずに、受け入れるがままつったっている、そりゃ針レベルですら驚異だろ、世界は針山。ウニになるつもりか。
自身を守らずに相手をすべて受け入れようなど自殺行為だ、そこまでお前は達人じゃねーよ、むしろそりゃ超人レベルだ。
刃を向けてくる相手に半歩どころか一歩譲っても百歩譲っても刺されるだけだ。かわすの下手なら、盾を前に構えとけ。
相手を思いやって、傷つけないようするのはいい、自分で自分を傷つけないようにするのもいい、だけどな、おまえもうボロボロでズタズタじゃねーか。
相手の刃から自身を守る術を持たなけりゃ、自業自得、自分に自分で刃を向けてんのと結果変わんねーよ。
おまえが思うほどおまえは全然悪くねーよ、全部自分のせいだととらえる必要なんてねーぞ。