10年ちかく前、私が学生だったころ、アルバイト先には必ず30代前半のロスジェネ世代がいた。
バイト先で仲良くなったAさんもそのうちの一人で、女性だったが国立大出身で、良い就職先が見つからずにフルタイムでアルバイトの身分だった。おとなしい人だったが身ぎれいで親切で博識で仕事もできた。そこの大卒数年目のイキり社員の男がめちゃくちゃ無能で意地悪だったのもあって、私はAさんのことをすごく尊敬していた。Aさんは新入りの私がミスをしても、頭ごなしに叱りつけることもなく、黙々とフォローをしてくれた。フォローしたあと、次からはこうするといいよ、とちゃんと指導もしてくれた。その経験は、私が就職して後輩を持つようになってからもすごく役になっている。
Aさんは「私は就職氷河期世代だから」と、口癖のように言っていた。
新卒入社で社員になれなかったこと、まだ結婚相手がいないこと、親元で暮らしていること。そういう話題が出ると、決まってそれを口にしていたと思う。でも、それ以外の時はわりと淡々としていて、ごくごく普通の暮らしを送っているようだった。
そんなAさんに、ある日、紹介したいものがあるので何かのサロン的なところへ行こうと誘われた。当時は時々バイト上がりに一緒にお茶するくらいの仲になっていたので、私は二つ返事でAさんについて行った。
到着した先は、(詳細は完全に伏せるが)いわゆるマルチ商法のアジトのようなところで、商品のショールームのような場所だった。自分たちを含めて、何組も来客があった。
Aさんはバイト先では見せたことのないような生き生きとした明るい表情で、フルタイムのアルバイト2~3月分のお値段の商品を色々と紹介し、実演してくれたりもした。私はずっと「えっすごいですね」みたいなことを言っていたと思う。
一通りの商品紹介が終わった後、Aさんは握りこぶしをふたつ、自分の胸の前で控えめにグッ!としながら力強くそう言ったのを覚えている。私の方はといえば、なんというかものすごく色々な気持ちが胸の中で沸き起こっていた。
どうして今まで気づかなかったのだろう。Aさんは自分の人生を変えたかったのだ。バイト先で愛想良く笑って仕事をこなしていたけれど、そんなの全然満足していなかった。Aさんが今の人生をどんなふうに変えたいと思っていたのかはわからないけれど、そうだよね。ずっと親元からバイト先に通うわけには行かないもんね…。
Aさんはいい人だったので、しつこい勧誘もなかったし、押し売りもなかった。ちょっと欲しいかもと思ってしまうくらい説明はうまかったけど。「学生さんだし、お金ないもんね。無理にローンもおすすめできないし、社会人になってからでも考えてみて」そう言ってその日はちょっとしたパンフレットだけくれて、帰らせてくれた。
その後はAさんとバイト後に一緒に遊びに行くことはなんとなくなくなり、さらに数年たって私は就職のため地元を離れることになった。4月を2週間ほど過ぎたころ、母から「Aさんからハガキが来てるよ」と連絡があった。「就職先でも頑張ってね!応援してるよ」とだけ書いてあった。
私はAさんに返事を書かなかった。
マルチ商法(multi-level marketing)は、 会員が新規会員を誘い、その新規会員が更に別の会員を勧誘する連鎖により、 階層組織を形成・拡大する販売形態である。正式名称は連鎖販売取引で...