「モンスターは奇形で、奇形は怖い」……これは生理的な感覚であり、本能に近い。
だとすれば当然「奇形の人間は怖い」……これも本能だということになる。
本能(生理的な感覚)を書き換えることは難しいし、それを万人に強要すべきでもない。(「お前の感性は誤りだ」と責める行為もまた差別的だから)
重要なのは、本能を書き換えることではなく、本能よりも上位に理性を置いて本能のままに行動しないよう抑制を利かすこと。
「怖い。だから忌避する(攻撃する)」……という短絡的な思考に至らないよう理性のリミッターを働かせることが、差別の是正のためには肝要である。
「怖い。けれど忌避(攻撃)してはいけない」……と考えられるようにならなければならない。
身体が欠損したり、変形したりすることを本能的に避けようとするメカニズムが、動物の生存に優位に働くのだろう。
モンスターを攻撃対象として肯定するゲームは、確かに「怖い。だから忌避する」という短絡的な思考回路を繰り返しなぞらせて強化する作用を持つかもしれない。
しかし奇形に対して「怖い。だから忌避する」という反応を示すこと自体は、生物にとって、むしろ真っ当な所作であると考えられる。
これがもっと直截的な(例えば四肢が欠損しただけの普通の人間を化け物と表現してモンスターと同等に扱うような)ケースであれば、確かに倫理的な問題を孕む可能性もあるが、問題を無節操に一般化して「怖い。だから忌避する」という思考を促す表現のすべてを「差別を助長する表現」と捉えるのは、上述の「お前の感性は誤りだ」と責める行為に類する別種の差別に繋がる思考であると考えるのが妥当だろう。
2、しかし奇形の人間に対しては、恐怖心を理性で押し殺して、他の人間と同等の関係を築くよう努めるべきである。
世の中にはこの2つの理屈を切り分けることができず「怖い→忌避する」「怖くない→忌避しない」という単純な原理でしか行動のできない者も存在していることは事実である。
そのような人々が、ゲームを通じて「怖いものは無条件で忌避(攻撃)しても良いのだ」と安易に誤認する可能性も否定はできない。
しかし、だからといって1の「奇形を恐怖しても良い」という前提をひっくり返して「奇形を恐怖してはいけない」と感性否定に走ることは避けるべきであり、時間は掛かっても2の理屈を啓蒙することで適切な差別の撤廃を推し進めていくことが本筋であろう。
その意見はわかる。 同性愛差別も同じだと思う。 同性愛というか、自分が自分と同姓と性交することへの嫌悪感というも、 自分の親との性交に嫌悪感を感じるのも、 繁殖のための異性...