労働階級に必要なのは批判力ではない、他者を批判することは、また内なる他者を批判することである。
自身のアイデンティティが批判のもつ分解力によって倒壊しかけているとき、私たちは外の真の他者に対して批判力を失ってしまう。
つまり、哲学的な問いが支配層にとって脅威であるなら、労働階級にとっても脅威なのである。
人は発した言葉の一貫性から逃れることはできず、支配層への批判の言葉は、そのまま労働層への批判の言葉へ容易に転化する。
これでは相手を批判しているのにかかわらず、味方のほうがダメージが大きいという勝負にならない戦いを強いられている。
支配層は社会を守るために批判をやめ、労働層は仲間を守るために批判をやめたのである。
一つ目は、どこの層にも属していない孤独の者たち。
メディアなどの自分たちが批判者であることが社会からの要請であると
この批判者たちは、批判することが自分のアイデンティティとなるため、この批判力が内部に行くことは無い。
労働層が批判の言葉を上げることもあるが、これは2つ目のマスコミによる批判の要請である。
政治家も本来は社会を守るために批判を捨てたはずの者たちであるが、
それは批判者たちがどれも自分の階層を守るために批判をしているわけではないということである。
一つ目は自分の層は何にも属していないため、批判に本気になることは無い。
変えることで自分の利益、損になる場合や、人間の本来的な所持を奪い取ろうとする者たちに対して批判を強めるだろう。
二つ目は、自己催眠によって批判することが可能になった者たちであるが、
まさにそのために、何のために批判をするのかという目的をあまりもてないでいる。
社会の要請などという全体としての理念を語ることはできるが、一つ一つの問題に対して
なぜ批判をするのかということが答えられない。
批判することが自身の証明であり、自己保全であるためであると言えるわけでもない。
何かしたの転化を経て答えが出る。しかしその答えは、転化をによる代償として矛盾をはらまざる終えない。
二つ目の批判者にとって幸いなことは、私たちは、ジレンマや自己保全のための矛盾に対しては寛容なことである。
三つ目は、自己催眠状態の者からの要請によって得た批判力であったが
往々にして責任(一つ目ほどではない)を持つことが難しい、彼らは依頼があってそれをしているわけであり、
依頼が無ければ批判しないという、不安定すぎる地盤で戦わなければならない。
一つ目は、まだ人間という最後のラインがあり、人間という最後の層を守るために
批判を団結させることができる。
しかし、二つ目の者たちによって分団されているため、それもできない。
私が言いたいことは、すべての人が哲学的な批判力を持つということがこれらの問題を発生させているということなのである。
私たちはある程度の批判に対しての線引きを欲しているのであり無自覚に批判だけをたたえることや、批判することが無条件に正しいことということは今や好ましくないのである。