たとえば唐突に「君はこれどう思う?」と聞かれたとする。
こういった時どの物差しで測ってから答えるべきかが分からなくなる事が多い。
つまりは、
こういった感じで一見すると分かりにくい選択肢が提示されていたりするわけだ。
これを瞬時に判断するのが苦手だ。
空気を読む、コミュニケーション能力、そういった曖昧な表現で誤魔化されがちだけど、これって何気に難しい(自分みたいな社会不適合者にだけ難しいのかもだけど)。
相手が本当に自分の意見を聞きたいなら1の自分の物差しで測って答えを言うのが正しい。
だけど相手が聞きたいのが、世間的にはこれがどうなるかを再確認したいという場合は自分の主観よりも客観的な視点で測った方が質問の意図にそう。
もしかしたら相手はこちらの意見なんて求めて無くてただ同意されたいだけなら、自分の物差しは捨てて相手の物差しで測ってしまった方が無難な事も多い。
場の空気や流れによっては、普段使っている物差しをそのまま使うのではなく補正した方がスムーズに話が進むこともある。
「君は」と言われているはずなのに、自分の物差しでそのまま測るとコミュニケーションエラーが起こるパターンがあるのが本当に難しい。
自分のような社会不適合者から見ると世の中のコミュニケーションは不確か過ぎる。
一見するとちゃんとコミュニケーションを取れる前提が揃っているように見えて、実際は落とし穴だらけの綱渡りの連続だ。
言語を使えば話がちゃんと伝わるはずだという根拠のない信頼感が、かえってコミュニケーションを難しくしている可能性すら感じてしまう。
いっその事全てをもっとファジーにして元々ファジーだから仕方ないよねと割り切れる世界にしたほうがいいのではないだろうか。
流石にそれは言い過ぎか。
となると人間の使う言葉がまだまだ不確かで改良の余地があることを皆が自覚すべきなんじゃなかろうか。
前例主義に囚われて揚げ足を繰り返せるレベルで言葉が完成されているという妄想を捨て去り、もっと流動的に積極的に言葉を成長、進歩、進化させていく意識を持つべきなのではないだろうか。
こんな事言っても社会不適合者の責任転嫁と思われるだろうけど、そうしていった方が結局は皆のためになる気がする。
気がするだけなのかな。