今朝、あるメールが届いていた。
そんなメールの冒頭を読んだだけで、そのメールをゴミ箱に捨てた。
俺はもうこの先一生を生きるのに十分な社会貢献度を稼いだ。働く必要はどこにもない。
それに、俺はもう働きたくはない。何故なら、俺の職業は『チャレンジド』だったからだ。
20xx年、日本の社会保障は破綻した。増え続ける社会保障費に対して財源を確保することが困難になり、抜本的な改革を求められた。その改革の結果が、社会貢献度制である。
社会貢献度制と聞くといったい何を指しているのかはよくわからないが、要約すると、命に価値をつける制度である。社会貢献度が高い人間にはその貢献度に応じて医療費扶助やベーシックインカムなどの社会保障を行うが、社会貢献度が低い人間にはそれらを行わない。
この制度の何より醜悪な点は、社会貢献度を計るのに、「投票」を導入した点にある。投票は国民の義務になった。投票対象は、すべての日本国籍を持つもの。
投票期間はひと月ごとに区切られ、一人が持つ票はひと月につき10票。この票を使い切らないと、使わなかった票の分だけ自分の社会貢献度が下がる。そして、投票結果に納税額(学生であれば学校の成績)をかけたものが社会貢献度になる。
この社会貢献度は積算され、例えば、人から認められつつ働いてきてある日ガンになり働けなくなった人には、今まで積算されてきた社会貢献度に応じて医療費扶助が受けられるようになっている。
しかしこの制度は当然、障害を持つ人など『社会的弱者』と呼ばれる人々に対して非常に厳しいものになっている。彼らは生き残り戦略として互いに票を入れ合うが、ただでさえ医療費が人より多くかかる彼らにとっては焼け石に水と言っていい。そして、彼らは自分の命にかかるコストを支払えずに死んでいく。
一方でこの制度は、豊かな早期リタイヤ者も生み出した。若い頃に社会貢献度を稼いでおけば、その後仕事をしなくてもベーシックインカムをはじめとした十分な社会保障を受けて生きていけるのだ。
俺は重度の身体障害者だ。同時に、早期リタイヤができるほど社会貢献度を稼いだ人間でもある。
俺の両親は障害を持つ俺が生まれた時にこう考えたという。この子を生かすにはアイドルにする他ない、と。
そうした考えを持った両親の元、俺は幼い頃から『障害を持っているけど頑張って生きている人』つまり、『チャレンジド』の役をテレビをはじめさまざまな舞台で演じることになった。
両親の考えは当たり、俺はこうして生きている。
だが、俺は俺の仕事が嫌だった。俺は俺にできる当たり前のことをやっているだけなのに、「そんな体なのにすごい!感動しました!」と賛辞が寄せられることも、いつまでたっても奇異な視線で見られることも、何もかもが嫌だった。
しかし、『チャレンジ』を止めるわけにはいかなかった。何もかもがお膳立てされた世界で、俺に振られた役割から外れることが怖かった。そして、両親の期待を裏切るのが怖かった。
そんな生活を続けて、この先一生を生きるのに十分な社会貢献度を稼いだ時、俺は躊躇なくリタイヤの道を選んだ。その時両親は、初めて俺に「すまなかった」と言ってくれた。
この奇妙な社会貢献制に今の俺は生かされている。だが、俺は社会の何に貢献したのだろう?社会の何が俺が生きることを許しているのだろう?
それを理解したくない。
なぜなら、俺の命と今日にも医療費を支払えずに死んでいく命と、両者には何の差もないはずだからだ。なのに、俺の方だけ生かしてくれる社会に巣食った何かがいる。
その正体は、間違いなく醜悪で、とんでもなく恐ろしいものだろう。
その正体を知った時、俺は自分の命を投げ出さずにいられるのか、自信がない。