数年前の自分の思考とかぶるところがあるので、それってこういうこと?と思い書いてみる。
ただ、元増田の方は僕より何倍も賢いようだし、当時の僕は中学生、今の僕もしがない大学生にすぎない。
元増田の方の苦労の1%も理解できていないと思うことは断っておきたい。
つまるところ元増田の方の悩みは(というより昔の僕とこの方の悩みの共通点は)、世界に対する感情的意味づけが欠如していることだと思う。
それができないのか、やるに足る動機がないからそうしないだけなのかは、僕ごときの頭ではわからないが。
その結果として、あらゆる行為や事物に意義や価値が感じられないのだと思う。
「涼宮ハルヒの憂鬱」シリーズでいう長門有希のような心理状態である。彼女は感情を持っているのにもかかわらず、ほとんど機械のように振る舞い、また自身を機械のように認識している。
(消失より後の巻でどうなったかは知らない)その結果ストレスを溜め込みすぎてしまい、耐えられなくなって、現実世界を超能力で自分の思い通りの世界に作り変えてしまうのである。
彼女のキャラソン「雪、無音、窓辺にて」の歌詞にこんな一節がある。
私にもただ一つの願望が持てるなら 記憶の中最初からを 本にして窓辺で読む
僕はこの歌詞を、「リアルの世界にいる自分は、感情を持っていない(と思い込んでいる)ため、あらゆる出来事に何の意味付けも感じられないが、
リアルでの出来事がすべて本の中の世界での出来事であったなら、小説に心理描写が入るのは当然のことなので、思う存分意味づけのある世界を生きられるのに」という意味と解釈している。
思うに元増田の方は、長門有希と同じで意味付けのない世界に苦しみを感じているのではないだろうか。
少なくとも昔の僕はそうだった。
自我の目覚めとアイデンティティクライシスが重なっていた時期に、ネットで読んだある情報に僕はショックを受けた。
「心とは、脳の神経細胞が作り出す電気信号にすぎない」という情報だ。もしそうだとすると、自分のあらゆる感情も認知も欲望も、すべて電子の粒の移動という、無機的な物理現象にすぎないことになる。
喜びも怒りも悲しみも、その辺のいすや机と同じで陽子や中性子や電子の集まりにすぎない。そういうひどく乾いた気持ちになったことを覚えている。
ちなみに僕はどうしてそこから脱出できたかというと、先述の「雪、無音、窓辺にて」を偶然YouTubeで聞いたからだ。長門有希と同じく、僕は意味付けのある世界に強く恋焦がれていた。
その恋慕を、この曲を聞いたとき肯定されたような気持ちになった。世界に意味がなかったとしても、意味があると思い込みたい自分にとっては、何の問題もないのだと思った。こうして悩みは解決した。
今の自分を考えてみても、根っこのところでは愛だとか不安だとか成長欲だとか、感情や欲望で行動している。人間というのは通常はそうやって動く生き物なのではないだろうか。
元増田の方やかつての僕は、そういう部分に対するメタ認知が暴走している(いた)のだと思う。確かに脳の特定の回路が機能しなくなっているか、逆にどこかが機能しすぎている、みたいな病気なのかもしれない。
オナニーは見えないところでやれ