ことのはの人の意見なんかも読んだけど、いまひとつずれているように思う。岡山の福祉局が悪いのかというとそうでもないように思う。
生活保護が制度的に、親族、この場合は親子と兄弟の扶養義務を前提にしているのはこれは法設計上そうなっているわけであって、それがいいのか悪いのかはともかく、現状としてはそうなっている。夫婦、親子、兄弟には扶養義務があるのである。とは言え、運用上、その強制力は事実上ない。
扶養のためのお金を払うのは、制度的には義務であるが、運用上はそうなっていないため(もちろんそうなっていないのには理由がある)、生活保護を必要とする人が発生した場合、それは扶養義務がある人に言ってください、と行政がボールを相手に投げ返してしまえば、生活保護を必要とする人は結局、おかねを得られずに餓死することになる。
岡山の福祉局はそれを避けるために、河本準一との交渉との中で、相手が出すカネ(出せるカネではない)と相殺する分を差し引いた必要額を支給していたわけで、これをもって公的機関当局が河本準一の行動を是認していたということにはならない。河本準一の行動は少なくとも脱法的であるし、違法性も棄却できないのである。
ただ、その違法性を徹底的に追求した場合、事実上、法の下の平等に違反する可能性がある。誰もが親兄弟を扶養する義務はあるが、実際に扶養行為を強いられる人は限られているからだ。家族制度そのものに伴う問題である。親による子の扶養・養育、あるいは相続において、他と比較して劣位に置かれる人はいるが、それはプラス要素がないという不公平である。扶養義務の場合はさらに踏み込んでマイナス要素を負わされると言う不公平である。
不公平というならばプラス要素がないのも、マイナス要素があるのも同じく不公平であるが、自らに責任のない状況においてマイナス要素を負わせる、それも刑法的な懲罰を伴ってということになれば、実態は法の下の平等に違反する可能性が高い。そうした実情を勘案して、親子兄弟間の扶養義務は、運用上は「出来る範囲でお願いします」程度になっているのだが、法制度としてはあくまで義務である。
河本準一と福祉局との間に、「合意」があったから違法性はないと主張している人は単に法論理上まちがっているのみならず、法制度の額面通りの運用を徹底させかねない、つまり無理やりにでもマイナス要素を追わせかねない点で、弱者を困窮させかねないものである。
生活保護は多くてもこの場合年間180万円、ここ5年スパンで言うならば、その間、河本がその程度も負担できなかったはずがないので、経済的に強者の例まで、弱者として扱うことは本当に弱者の人たちを追い込むことになりかねないのである。
河本を擁護するならば家族制度そのものが持つ、不平等性を批判し、親子兄弟の扶養義務を制度として廃止するべきであろう。更にいうならば、他の家族制度による優遇、専業主婦や配偶者控除も批判されるべきであろう。親権それ自体も解消されるべきである。
ただし、現状そうなっていない。そうなっていない中で、片山さつきが違法性がある河本の行動を批判し追及するのはごく当たり前なのである。片山個人は親を扶養などしていないだろうし、家族制度に不平等性があるなどとも認識していないだろうし、家族制度を擁護するだろう。その点では私は彼女の考えをまったく支持は出来ないが、それはそれとして現状の違法性を議員が追及するのは当たり前なのである。
河本準一問題で一番悪いのは自分が、扶養を必要とする親を扶養させられることを期待されているにもかかわらず、その差別の構造に「家族の絆」の名のもとにすり寄っている河本自身である。彼を糾弾するために開かれた記者会見で、「おまえは扶養しているのか?おまえは?おまえは?」とひとりひとり問い但し、自分一人たまたま扶養義務を負わされることの理不尽を述べたならば彼は信念に基づいたうえでの抵抗者になり得た。そうであれば私は彼を全面的に支援したであろう。
しかし彼が実際にしているのは家族制度に基盤を置いた結婚であり、それは独身者に対して「プラス要素を与えない」という差別の制度である。その差別を容認しているのだから、同じ構造の中でたまたま不利になることを甘受すべきなのである。