はてなキーワード: 社会生活とは
http://anond.hatelabo.jp/20091202125051の続き
オタク入門中ブログ : 誹謗の中に真意を隠す。それが活動家。
http://blog.livedoor.jp/entertheotaku/archives/51705869.html
ま、こういうタイプのヤツは、所詮何を言ったところで、「自衛の手段について真剣に考える真面目な善人のボク」という自分像を強固に守ろうとするものなんだけど、色々言いたいことが出てきたので。
「おとなしそう」で「弱そう」で「人に言わなそうな」人が「ミニスカート」を履いている場合はどうなるの?
「おとなしそう」で「弱そう」で「人に言わなそうな」人という人物を思い浮かべた場合、ミニスカート穿いてる女性像なんてまず思い浮かばないんだが。
何が何でも「性犯罪に遭いやすい傾向の人」にミニスカートを穿いていて欲しいんですねw
「おとなしそう」で「弱そう」で「人に言わなそうな」人が「ミニスカート」を履いている場合はどうなるのかって?
知るかそんなもんwww
被害女性のうち、ミニスカを穿いていた女性の割合を示す明確なデータを提示するわけでもなし、自分の実体験や周囲の女性から聞いた体験談に基づく話というわけでもなし、単なるお前の憶測だろ。
憶測でならいくらでもこじつけられるんだから、論じるだけ無駄だし、お前の憶測にいちいち付き合うのも面倒だ。
つまり、結論に則して「おとなしそう」で「弱そう」で「人に言わなそうな」人は自分自身の服装を変える必要があるんですかね?増田の言うビッチっぽい格好にw
犯罪者の都合に合わせて服装を変える必要があるとは思わないし、私も「ビッチっぽい格好」は趣味じゃないのでする気もないが、「ビッチっぽい格好」に変えたら痴漢に遭う回数が減ったという話は、至るところでなされております。
最近はここが話題になったな。ブコメでもそういった実体験を語る人多数。
今日電車で前に立ってた女の子がすごい可愛かったんだけど、「今どき髪が黒いってだけでおかしな男の人に狙われるから、無難に染めておきなさい」とお母さんにお金を渡された、という話を友達らしき子としていた。
http://b.hatena.ne.jp/entry/twitter.com/motyli/status/3354871750
あと、以前の記事で
それとも「大人しそう」で「弱そう」で「人に言わなそうな」人は、「騒々しくて」「強そうで」「人に言いそうな」『ファッション』をしようって結論なの?
この結論は「女性の社会生活」を「それなりに」制限していることになるからちょっと駄目かも?
http://blog.livedoor.jp/entertheotaku/archives/51696237.html
と言ってるのに、今回はコメ欄で、
一応私の考えを記載します。
上半分に関しては事実であれば素晴らしいですね。あらゆる意味での「ミニスカート論争」の終止符になると思います。
上にもあるように私は自衛のために服装まで制限されてしまう世の中を良しとはしません。
しかし、ある女性が「死んでも強姦にだけは遭いたく無い」と考えているのであれば、もし結論がでるのであれば「ミニスカート(及び男の性欲を喚起すると目されている衣類)」のデメリットを伝えたいとは考えます。
犯罪者がすべて突発的、または誰でもいいと考えているのであれば、衣服の差はないと思います。
しかし、服装によって選り好みをしているのであれば(大人しい人を「選ぶ」というのは選り好みをしているということですよね)考える余地は若干でもあるんではないかと思います。
極論で言えば、性犯罪者が獲物を探しているときに、上記の2条件の2人を見つけたとき、どちらを選ぶのでしょうか?
またはおとなしそうな女性がミニスカートを履いているので、家までついていって犯行に及んだ場合、ジーンズ姿だと犯行に合わなかった可能性は本当に0なんでしょうか?
とか矛盾したこと言ってるし。
大人しそうな人が騒々しいファッションをしようという結論は「女性の社会生活を制限するから駄目」なのに、逆の結論は良いんですかw
どっちも「女性の社会生活を制限する」ことに変わりは無いだろw
やっぱり自衛厨は、「大人しそうな格好をしていると危ないから派手な格好をするべき」という方向にはならないんだなぁ…
もう、何が何でもミニスカートのせいにしたいんですねwwwだからミニスカが原因で襲われるケースしか思い浮かばないんですねwww
「ミニスカート論争はうんざり。」とか言いながら、結局自分が一番ミニスカート論法展開してんじゃねーかwww
しかも、コメントして来た人に対して「事実であれば素晴らしいですね。」だと。
お 前 が な。
考える余地とか言いながら全部お前の憶測だけだろ。考えるんだったら明確なデータに基づいて考えろよ。
もし憶測で考えるにしても、性犯罪の専門家でもない男のお前より、軽度から重度のものまで何度か性犯罪に遭った経験があり、なおかつ周囲から様々な性犯罪の体験談を聞く機会が多い女のほうが、よっぽど実情に近い憶測が思い浮かぶわ。
コメントして来た人より自分の憶測のほうが事実に近いと思えるその根拠と自信はどこから来るんだ?
そんなんだからコメ欄で
女性は、おそらくあなたが偉そうでかつ無意味な「自衛法」をレクチャーしてあげなくとも、すでに自分の出来うる範囲で自衛しています。
って言われるんだろ。
お前がブコメやら各所で批判されてるのは、善人のふりしたセカンドレイパーなところが怒りを買い、データにも実体験にも基づかない稚拙な憶測(しかもビッチ叩きのために展開された憶測)を展開してるところが呆れられてるからだよ。
「ビッチ叩きがしたい」「女にものを教える立場に立ちたい」「女にありがたがられたい」というマッチョな欲望が合わさった論理展開。
大体、危険性があると分かっていても、必要性や利便性や娯楽のほうを取ることなんて、性犯罪以外でいくらでもあるし、誰でもしている。
交通事故に遭う危険性を分かっていても車に乗るし、日本より治安が悪いと分かっていても海外旅行をするし、今こうしてネットに繋がっていることさえ危険が伴っているけどネットやるだろ。
大抵の人は、自分なりにそれらのことを考えてするかしないかを選択してるんだよ。
なのに、こと性犯罪となると、少しでも危険性があれば行動を制限しても徹底的に取り除かなければならないと言わんばかりの論調になるんだよな。
注意勧告だけならどちらにもあるけど、実際に被害にあった人に対して「注意しなかったお前が悪い」というのは、強盗や盗難では見かけない論法だからね。ところが強姦に限ってはこれがある。(まぁこの辺は処女厨がどうこうというエントリで語り尽くされているのであんまり深くつっこまないが)
あと、強姦の方は注意したら制限される行動の幅があまりにも膨大すぎて、非現実的なんだよね。
ありとあらゆる人気の少ない夜道がほぼ注意対象範囲内で、ありとあらゆる男の性的願望を刺激しない格好をしろって、ほとんどこの社会でまともに生活して行くには不可能に近い。どこかへ行こうと思ったら必ず一ヶ所くらいはそう言う道を通らざるを得ず、乗り物を乗り回すには資金的に余裕がなければ厳しく、服装は所属する社会によってある程度規制されるのに、この上強姦魔にまで配慮する余裕はない。
この条件をクリアして生きるには、それこそ家に引きこもるしか無く、それをすれば自立した経済力を持つことも出来ないため、経済力のある者に隷属する羽目になり、ただひたすら悪循環だ。いわゆる泥沼。
個人レベルで対応できない問題だからこそ、社会システムを改革していかなきゃならないわけだ。
もともと都会という場所が生まれたのが近年で、その都会で女性が社会に出て、自由に生きる生き方をする仕組みができたのが更に最近。どうしてもシステムの整備は、まだまだ遅れがち。
これが男性も強姦されやすい世界なら、少なくとも強盗や盗難のように、やばいことが起こる条件はかなり限られた場所になっていただろうし(それこそ日本国内ならわりと安全なところが多い)、自己防衛を心がけても、社会生活に支障をきたすレベルまでは求められなかっただろう。
でもそれならどんどん時代に合わせて書き換えていけばいい。
それこそ女性は無料で安全な乗り物をいつでもどこでも乗り回せる仕組みとか、何かあった時に近辺の人全員に注意を勧告するGPS警報機と、警報を聞きつけた人は現場へ急行させることを義務づける法律をセットで作るとか、頭使って、工夫して、仕組みを変えていけばいい。(ぶっちゃけ普通の強盗にだって社会的に対抗できるシステムがあれば、いいと思う)
ところがこれに、個人個人で対応しろと(事実上不可能な)いう意見は、その場しのぎの問題の先送りにすぎないんだ。
猫を追う間に魚を避けるのは、緊急回避としては大切だけど、根本的にそんなことを繰り返していたらいつまでたっても魚が食べられない。
猫を駆逐するか、それが無理なら猫が入れなくなるようフェンスを立てたりするのが、根本的な解決で、魚をのけよ論は、下手をすればフェンスの具体的な設置方法を考案する妨げにさえなるかもしれない。
それこそフェンスを立てている暇があったら、魚を永遠に閉じこめておけ。猫に悪いではないか。とか言う人もいるくらいだから。
レイプ関連で連呼されているので獣性と呼んだけど、その呼び方に限定せず、要は感情についての徒然。
嫉妬だとか、闘争心だとか、焦りだとか、そういう人を焚きつけて動かす衝動、みたいなもの全般のことについて、ちょっと書いてみようと思う。
これらは、良い面で見れば、誇りやプライドを生み出すものでもあり、美学を生み出す原動力でもあり、勇気や度胸の源でもあると私は思う。
生命に「今ここに生きている」という実感を与える、命の万能感を与えてくれる、人によってはその感情こそが自我の一部だとさえ感じられる、そう言う類の物。
命のありかたそのものだと思うのだ。
でも、そういうのが全てなくなっても、多分人類は何も困らないと私は思う。
これはSFなんかでもさんざんテーマにされてきた、絶望的なけれども大いにあり得る推測なんじゃなかろうか。
普段性欲が無くても、必要な時だけ薬を使ったり、人工授精したりで、もはや子供は作れる。将来的にはもっともっと安価で簡単になるだろう。
恒常的な性欲のせいで、心理的傷を負い社会生活に支障を来たし、生産力になれなくなる人が出るくらいなら、恒常的に性欲をなくしておいて、必要な時のみ、必要な量だけの生殖活動が行うようにした方が、社会はより生産的に上手く回るかもしれない。
「いい女とエッチするために出世したいから人は働くんだ」と言う人もいるが、性欲が弱い人だけしか世界にいなかったとしても、明日おいしいご飯を食べてあったかいベッドで寝て、趣味をまったり楽しむ、という目的だけで、充分働くことが出来てしまうから、別にエッチをご褒美にしなくても社会は回ってしまうだろう。
セックスだけじゃない。
人は何かを誇るから、何かを差別する。何かを誇ってしまった時点で、それはそれ以外の物に対する差別そのものだからだ。
誇りを捨ててしまえば、差別もなくなる。差別がなくなれば、しがらみに囚われない裁量により、適材適所を推し進めることが出来、社会の生産性を上げることが出来る。
感情や衝動。そういうものがなくなったら「人はきっと何かとにかく、生物として致命的な欠陥を負って、駄目になるかも知れない」と、いう意見をしばしば目にするけれど、今までの歴史を振り返ると、どうも実際は「一定の技術力がその感情を代替できるようになれば、人類はその感情を捨てることによって、駄目になるどころか、むしろ繁栄する」が正解な気がする。
人類は大まかに分けて、原始社会→中央集権社会→資本主義社会 と発展していったのだけど、その度に一つずつ「大切」だと言われていた感情を捨ててきたんじゃないかと思う。
原始的な社会では、恥の概念がとても強く、恥を避けて生きることに、美学を見いだす(細かいことは文化人類学とか、まぁそんな感じでググってくれ)。
今でも原始的な生活を続ける部族は、自然をあるがままに受け入れ、その範囲内で最適な行動を取ることが美しいとされる世界観を持っている。自然に逆らって、環境が気にくわないとがなりたて、書き換えようとするのは、みっともないと感じる価値観だ。
だが、恥も美学も捨てることによって、自然に従うのではなく、抗ってコントロールし、支配することに成功した中央集権社会が、おおよそ原始社会よりも高い生産性を持ち、彼らを歴史の影へ追いやった。
文字の発明によって、数万人単位の人間が法によって共同作業できるようになったため、分業化が進んだからだ。自然を理解しそれに合わせて生きなくても、ただひたすら法に従って生産活動していれば、自然を逆に支配できるほどの力を得られる。
これによって人は、恥の概念を捨てて、支配者の定めた法からはみ出すことのみを恐れる、罪の概念を得た。
日本は先進国では珍しく、原始アニミズムの信仰を未だに強く残している国だが、これは明治維新時に、中央集権的な思想を一部取り入れつつ、資本主義にシフトしたからこそ発展できたわけで、江戸時代以前のままの体制を続けていれば、今の日本はなかっただろう。
一方、中央集権社会の、剥き出しの支配欲の元となっている「誇り・プライド」さえも捨ててしまったことで、発展したのが資本主義社会だ。
資本主義を支えるのは単純な損得勘定と、それを支える「リスクへの恐怖感」だけだ。もはや罪の概念すら必要でなく、ただひたすらリスクを避けるために踊り続けていれば回る社会だ。
人が人を支配しなくても、代わりにお金がそれを代替してくれるようになったから、人に誇りも意地も必要なくなったのだ。
資本主義社会で戦争が起こるのは、おおよそデフレの時くらいであり、つまりは高すぎた生産性を下げるために、わざと誇りや意地を煽って生産性のない破壊活動を行う始末であり、当然その背後にある有り余るほどの生産力は、中央集権社会を八割方駆逐した。
この流れが続くとしたら、多分、人はそのうち、リスクに対する恐怖心が無くても、うまく社会を回せる発明品を手に入れるのかも知れないと、私は思う。恥も、支配欲も捨てることで発展してきた人類が、次のステップへいつの日か進むことも、充分あり得ると私は思う。
そしてそれらを突き詰めていくと、人類の発展とは、感情を一つ一つ捨てていく作業に他ならないのかも知れない。
感情を捨てたことで人類が滅びれば、まだある意味人類は救われる。私達の中にある、自我の一部とも言うべき様々な感情は、必要な物だったと証明されるからだ。
でも実際はその逆に進むのではないかと私は思う。
人間がただ計算するだけのコンピュータの用に生きるようになったとしても、多分人類は何も困らず、むしろますます発展していく。していってしまう。
人間はシステムを動かすための素子であり、人類としての主体はむしろ、社会システムの方にある、そんなSFみたいな世界も、案外本当にいつの日か実現してしまうのではないかと、そう考えてしまう。
それでもって、人の獣性を肯定して、「人の獣性はなくなるわけないんだ!! なくなることを期待しちゃいけないんだ!! むしろ自衛本能という女の獣性を駆使してそれに立ち向かえ」みたいに説いている人というのは、社会システムが支配する世界が訪れないように、戦っている人なのかも知れない。
システムを挟まず、主体性を持った命と命がぶつかり合う、システムに主体性を譲り渡さない世界を、願っているのかも知れない。
最近の流れを見て、ちょっとだけそう思った。
まぁ、だからといって、セカンドレイプを看過していいわけではないと私は感じているし、それを制するためのシステムを発明する必要があるだろう。
ただ、そんな私自身の発想自体が、多分世界をシステム化していく原動力なんだろうな、とも思うのでした。
以上。
実際には自衛としての効果が無い内容(ミニスカートを履かない)or現実に社会生活を送る上で実行が困難な内容(夜に外出しない)のどちらかしか無い
前者を「自衛策」として本気で主張しているのはアホ、という共通認識はできつつあるんじゃね?
ただ、後者は「常に実行することは困難」だとしても、「なるべく避ける」「その時間を短くする」ということは有益じゃね?そこに異論は別にないんじゃね?
そこに経験則もまじえて、「どうすればより実効的に(費用対効果も)リスクを回避・低減できるか」を考えるのが得策なんじゃね?
別の目的があってもなくても、prospectiveとretrospectiveの混同がされてないか、提案自体に実効性があるかないか、という、議論一般としての適否の観点で切り分けていくべきだとおも。
してほしくなかったこと
・階下からドア越しに聞こえるような大声で連日論争などしないでほしかった(それを起こさせた私にそもそもの原因はあったのだが)
・いきなりドアをぶちやぶって入ってこないでほしかった(自分の部屋=最後の牙城ではないと悟った。いつも臨戦態勢でいるべきだと知った。誰も信用できないと、
奪われたくないものは隠すべきだと学んだ)
・少ない小遣いで買い集めたレアなソフトを、ゲームが原因だと勘違いして燃やさないで欲しかった(これはいまだに根に持っている)
・一緒に食事を食べることを強制しないでほしかった(食卓=被告席みたいな面があった。普通の家庭を取り戻したかったのだろうが、私の恐怖感も察してほしかった)
・服装を整えることを強制しないでほしかった(身なりを整えておけばいつでも外出可能な状態だ、あとは気分だ、と思っていたらしい。誤解だ)
・自分のせいだとめそめそ自己完結しないでほしかった(誰がどう反省したって過去が変わるわけではない)
・置手紙などしないでほしかった(いかに心配かを書かれても、でしょうね、ってなもんで何の感慨もなかった。気持ち悪かったし、怖かった)
・他人事みたいに無責任に話さないでほしかった(深刻に相談しても大丈夫だ、とか、いいのいいの、としか言われなかった。親を無能だと思った。
理性的な話がしたかった)
・感情論や一般論で話さないでほしかった(一般的な状況に戻したいという思いはわかるが、やはり理性的に現実的な話がしたかった。世間体で話されても困る)
・言いたいことだけ言わないでほしかった(人の話を聞かない人だった。いつも、これだけは言っておく、と自分勝手に話が終わっていた。
親は自分が正しいと思っていたんだろう。実際その通りだったのだが)
してほしかったこと
・いつでも映画を見にいけるぐらいの金がほしかった(私の場合、ひきこもり=省エネ生活という側面が強かった。
必要なものは粗大ごみで拾ったり、図書館で調べたりして無料で補っていた。絵を描いたりゲームをしたりといったローコストな生活では社会につながらない。
労働や社会生活の素晴らしさを実感できるだけの行動範囲が欲しかった。都市部に行き、ライブハウスや画廊などを見たかった。
その先に何か自分が活かせる場がある気がしていた。だが金が無かった。どこへ行くにも電車代千円ぐらいは必要だ)
・ほっといてほしかった(あれはいいか、これをしなくていいかと纏わり付かれた時期があった。
いつ敵に豹変するかわからない人にそんなことを言われても怖いだけだった。貰えるものは貰ったほうがいいのか、とも思ったがとにかく不気味で面倒だった)
・味方してほしかった(意味不明だがそう思う)
・兄がほしかった(理性的で、同じ高さの視点で、頼れる、力を知恵を貸してくれる、自分を導いてくれる存在がほしかった。馬鹿馬鹿しいが本当にそう思った)。
どうも、「障害者」という括りに入れられるのを嫌がっているように感じるナァ。
いち障害者から…と書きながら、その括りには実は僕は入らないんだよと言いたげな感じが…
ちょっと意地悪く書いてしまったが、その気持ちは自然なものだと思う。
誰だって、出来れば余計な障害など持たず、普通の側に立ちたい。
僕だって、そうだ。
ただ、この辺は見た目に分かるか分からないかで、その気持ちの出し方が微妙に変わるのかなと感じた。
僕は、右上下肢に障害があり、右手の握力は普通の人の半分以下で、歩くときはいわゆるびっこを引く感じになる。
障害の字を、障碍などに変えてほしいと思ったこともない。
多分、見た目にはっきり分かる障害なので、他の人に説明しなくても一目同然であり、どう呼ばれるかは殆ど関係ないからだと思っている。
むしろ、障害とどう付き合っていくか(社会との関係も含めて)の方が、よっぽど大事だ。
字面をどうのという議論をする余裕があるなら、いろんな人がそれぞれに気持ちよく暮らしていける社会を作る為の議論を深めてほしいものだ。
言葉をどういじくったところで、障害が消えるわけではないのだから。
まぁ、これは個人的な意見ですが。
障害があるということは社会生活上のハンディキャップがあると言うことなので、カテゴライズは必要だと思う。
逆に言えば、社会生活上のハンディキャップがなければ、それは障害ではない。
個性である。
実は、障害は個性でもある(まぁ、本気でこう思えるようになるには、ずいぶんかかったが…)
http://anond.hatelabo.jp/20091017190418
いや、別に、その彼女とはなんの関係もないんですが、私も1年半ほど引きこもっていた時期があって、ひとごととは思えません。まして、回りから支援しようという方から、こんな質問が出るとは。その彼女はとてもラッキーだと思います。彼女の立場に立って、物を考えてくれる人がいれば、それだけで、彼女の生きにくさもだいぶやわらぐでしょう。
端的に言って、社会経験が足りないのです。ですが、足りないのは大学生の社会経験ではなく、つまづいたのが中学生なら、小学生の社会経験です。通常、小学生になれば、家庭内でなんらかの役割を持たされて、責任もってやるよう促されますでしょう? 新聞を取ってくるとか、犬にエサをやっておくとか、簡単で、かつ、しなければならないことを頼まれますよね? 彼女というか、一般的に引きこもっている人は「頼まれない」んです。簡単なお手伝い一つしたことがない。だから、やり方がわからない。回りの友達は皿洗いなどするようになります。家庭環境によっては、炊事当番が回ってきたりします。順調に経験を重ねて大人になっていく同級生の中で、自分だけ一人何もできるようにならず、子供っぽいままで、疎外されていくのです。本人のせいではありません。回りの大人がうまく彼女に役割を分けてあげることが出来なかったのです(もちろん、環境によっては逆のケースもあります。他の子はお手伝いなどしたこともないのに、彼女は家事の分担をしなくてはならなかったり。その場合も回りの歩調とズレるのでうまくいきません)
ですから、もしかすると頭の中身は小学生並みかも知れないと、まずは覚悟しておいてください。常識など無いです。人と接していませんから。空気を読んだりすることも出来ません。そういうことは対人訓練の結果身につくものです。対人関係について、なんの訓練もしていないのだとわかってあげてください。そして、本人も覚えたがっているということをわかってあげてください。本人にとって難易度が高いと不平や不満を言うかも知れません。それはごくごく通常の社会生活を営めた人なら、決して言わないような不満かも知れません。彼女は「そんなことは言ってもしょうがない、他人に聞かせるものじゃない」ということ自体をわかっていないのです。ですから、小学生を諭すような気持ちで、接してあげてください。
http://anond.hatelabo.jp/20091013025741
生活保護より低い賃金だったら、所得基準との差額を生活保護として支給してくれる。よって低賃金の人と生活保護の人の格差は存在しない。生活保護費の三分の一は家賃。この計算でも自由に使える金は年間120万円そこそこ。パチンコなんかしてたら、あっと言う間に水しか飲めなくなる。
別の視点を提示。
働いてる人→キャリア・人脈・ネットワークを構築し、自分の力で社会生活を営んでいる状態。
働けない人→なんらかの理由で支給を停止されたら、その時点でアウト。つまり、政府のセーフティネットに引っ掛かって、ようやく生きている状態。
生活保護を受けていたら、仕事上の付き合いが拡がらないから、結局、いつまでたっても生活保護を頼りにすることに。そこから抜け出すには、かなりな精神力と胆力が要ると思う。生活保護脱出組ガンバレと思うよ。
http://anond.hatelabo.jp/20091008015615
貴重な体験談をありがとうございます!
なんだかまだ《一緒に趣味を楽しめない人と居る》と《恋愛》が結びつきません…
男女問わず楽しくないのにあえて一緒に居るのはつまらないし無理だなあ。
「女の子」にスキルアップして、否が応にもやがてやってくる社会生活(多分リア充との共存)は適当に無難にこなして、
好きな物(萌えたり創作したり)に浸っていたい…というのが今思う所です。
①モサのオタクよりオシャレや何やら(スイーツ?)楽しみつつのオタクでありたくなった。
乙女ロードがホームですが、女の子としての自分も楽しみつつそこに居たくなった。
ずっと羨んでた巷の女の子達が楽しんでる様な事(オシャレ・お買い物etc)は、
金さえあれば私にもできるんだと気付いたから。
②それと、大学生活中ずっと見てるだけだった
【周りの子(リア充?)が経験してる・やっている様な事】もやってみたくなった。
今一番強いのは1で。「女の子になる」に付随して2が出てきた。
やっと1を実行できる様になったので現在邁進中。
2は憧れつつも忌避していたものではあるから、後ろ足で砂かけて逃げ出す結果になるやもしれませんが、
合う合わない知る為にも挑戦してみたい、とにかくまずやってみない事には始まらないという心境です。
いずれ社会に出てぶち当たる壁だから。
.
ああこんなだから現実で男とか恋愛とか考えるのを止めてたんでしょうかorz
だって今まで人前に出る事自体が苦痛だったから。こんな惨めな私を見るな、と。
(兄とは本当に合わなかったから無理の様です。“そういう”関係になるの嫌だ)
とにかくまずはしてみたかった蓼のレベルアップを図りますね。頑張ります。
彼氏や何やら考えるのはその後だ!
前回あんな日記を書いてしまったものが言うのもなんですが、生きてます。社会はそれほど残酷にできてはいないようです。しかしもう一つの不安要因ができました。私は浪人生活で身心を壊し、半年間精、神病院に入院し、その後、もう一度浪人をし計3年かかり大学に入ったもので、会社1つの先輩は2つ年下です。それなのに私の仕事の覚えが悪いと社内で噂になっているようなのです。私の部署は現役の大卒で入ってくる人もそれなりにいるのですが、私のようにいろいろ寄り道をしている人もいて、そうした人は入社後努力し、年相応の仕事ができるようになっていると先輩から言われ、自分にふがいなさを感じています。
一つの原因として考えられるのが前回の日記にも書いた自分とのシンクロ率の低さからくる責任意識の低さによるものです。病気とは関係なく個人的な問題だとも思いますが、断片的な自分を維持するだけでつらいと思うこともあります。世界の危機とはいきませんが細かい悩みを抱え社会を生きる私は、今後の社会生活を続ける中でシンクロ率を他人とのかかわりの中で高めていきたいと思います。
自分では大学にも行っているし、ちゃんとした社会生活を送れているつもりだった。
よくよく思い出してみればずっと家にこもってネット麻雀したり無駄に2chを見てただけだった。
ひきこもりと全く同じだ。
寝て起きて飯だけ食って、何もせずに寝る生活をしていた。
この一週間に自分は家から出たのだろうか。
疑問に思ったので、思い出せる限り、出かけた場所とその移動ルートを
家―大学―すき家―松屋を結ぶ直径300m程度の菱形が浮かび上がっただけだった。
愕然とした。
この一週間、行動したのがたったこれだけだなんて。
しかも恐らく殆どの時間は家にいたのだ。
不安よりもむしろ恐怖を感じた。
だけど、この地図に「人と会話した場所」も記したらどうなるだろう。
地図上に一点でも色がつくんだろうか。
考えるだけで死にそうになる。
自分の行ける場所が思いつかない。
なんだか外界に拒否されている気もする。自分の居場所がない。辛い。
満員電車が問題だと思い調べていたところ、時同じくして増田で満員電車の記事が話題になっていたので、便乗してみる。 いろいろ言いたいことはあるけど、下記のリンク先の方々が、私よりも数百倍上手な日本語で解説してくれているので、まずはリンクを貼っておきます。
■代表的な記事
満員電車をなんとかしよう!
http://pc.nikkeibp.co.jp/article/column/20090407/1013935/
満員電車をなんとかしよう!(2)
http://pc.nikkeibp.co.jp/article/column/20090422/1014486/
http://www.toyokeizai.net/business/industrial/detail/AC/29bce06ed108baee0f08201cbad25651/
法 治 国 家 つ ま み ぐ い: 満員電車は「違法」なんですか
http://miso.txt-nifty.com/tsumami/2007/06/post_024b.html
http://japan.cnet.com/news/biz/story/0,2000056020,20077623,00.htm
■上記リンク内容以外の私的思い (箇条書き)
・とりあえず、霞ヶ関の政治家の人たち、車で通勤しないで、毎朝の満員電車で国会に通勤してごらんよ。 国民の朝の気持ちが少しわかると思うぞ。
・「電車に乗る」って行為だけについて、「痴漢」「冤罪」「ぶつかって喧嘩気味になる」「押しつぶされる」「所有物がボロボロになる」リスクを負わないといけなくて、それに対する対策を練らないといけない・・・・って、「電車に乗る」ってそんなに大変なことなの?
・「車内の内側まで詰めて欲しい」「一歩右にずれて欲しい」と、お互いに"譲り合い"・"助け合い"の精神で・・・ってのはもっともなことだし社会生活に大切な精神だとは分かっている。 でもさ、状況的に限界があるんじゃないかなぁ。 人間、その場の秩序が一定のリミット水準までに保たれていれば理性的にできるが、正直満員電車はその水準を超えていると思う、故、「自分の空間を確保する」「これ以上詰められないように押し返す」ってのは当たり前の発想だと思う、満員電車で助け合いの精神が保てるわけもなく戦場だ。
■私が一番言いたいこと (箇条書き)
・「満員電車の過ごし方」「満員電車で座る方法」などと満員電車でのTipsみたいなのはたくさんあるが、そもそも、その前提事項が問題なのだ。
・「満員電車に関して、ダイヤはこれ以上無理なくらい工夫されている」という意見も分かるけど、そう言って問題意識を低下させないで欲しい。
・「どうすればいいのか」という意見もあるのは重々承知だけど、その前に「満員電車っておかしくない?」という問題を多くの人が意識することが「どうする」の前に必要なんじゃないかなーと思う。
「満員電車は当たり前」という意識を「満員電車はおかしくない?」という意識に、一人でも多くの人が変わってくれればいいなと思い、この日記を書いてみました。
疑似科学を衰退させなきゃ」という思いが根強い。
しかし、「科学リテラシーが低くても、社会生活上支障ないじゃん?」という
投稿がはてなブックマークを集めている。
http://d.hatena.ne.jp/filinion/20090921/1253543117
>世間一般の科学知識って、実は絶望的にレベルが低いんじゃないか、とは、私も過去何度か感じたことがあり。
>でも、逆に考えると、その程度の知識しかなくても、多くの人は幸せに人生を送ることができてるわけですよね?
>それも、そういう人がとりたてて低学歴で社会的地位が低いとかそういうことではなくて。
>……ウチの奥さんだって、明らかに科学リテラシーは私より低いけど、社会人としての適性は私より高いし。
そうそう、ウチの妻も科学リテラシーめちゃ低いケド、世渡りは小生より「上手」だ。
これをもっと直球で言えば、
「理系人間(科学リテラシーを有している人間)は、確かに論理的思考力や知識には
秀でているが、うまいこと世渡りをする術、以前の流行語で言えば「EQ」が低い」
と言えないか?
例えば、科学リテラシーが高い人は、血液型占いについて、基本的に否定的である。
しかし、例えば職場での茶飲み話で、血液型占いの話題になったときに、
真顔で「あれって科学的根拠ないんですよ、皆さん騙されていませんか?」と
言ってしまうと、「場の雰囲気」がぶち壊しになる。
一方で、科学的リテラシーが低い人は、場の雰囲気を壊すことがなく、
会話も弾み人脈も維持する。
どちらがEQが高いか、は明白である。
あるいは女性とのデートの際に、ついつい理系的な受け答えをしてしまうと、
「場の雰囲気を壊してしまい」、女性に逃げられてしまう。
異性獲得という側面においては、なまじ科学リテラシーが高いと
「足を引っ張ってしまう」面がある。
(勿論、「理系的な頭のいい人がいい」という女性もいるだろうから、
科学リテラシーが100%ダメ、ということはないのかもしれないが)
まあ、一番「賢い」のは、
TPOをわきまえて、科学リテラシーを『封印』する」理系人なんだろうが、
その『封印』のタイミングが難しい。
小生も「TPOを察知して封印」という「大人の態度」を取れるのだが、
ビミョーに疑似科学だと、うっかり『封印』し忘れることがある。
以前、職場の話題で「フロッピーディスクはドクター中松が発明したんだってね」
という話題になったときに、「いやいやあれはドクター中松じゃないんですよ」と
うっかり言ってしまって、「場が白けた」という失敗を個人的に経験している。
この場合、変にドクター中松やフロッピーディスクについて「予備知識」を
持たなかった方が、「EQ的には高い」のである。
憶測と偏見からなるただの長い独り言だよ。
私自身は猫キチガイではあるが、猫を虐殺したということについてMをとくべつ糾弾するつもりはない。
ディルみたいにネットにうpするような危険を冒さないで、自分ひとりでひっそりとニヤニヤしながら殺しまくってる奴は他にもたっくさんいると思うし、そういうのは誰が批難したって止められるものじゃないのだ。だからあいつは、ネットにうpしちゃったというやりかたがマズかっただけで、それ以外は他の多数の虐待キチガイと変わりない。憎むべき他人。
でもこうしてMが完全な自業自得で死に掛けてる(かもしれない)と知って、わたしはどういうわけか少し嬉しい。私だけに留まらず、普段はおとなしく無害な人物も、この事件に接して「M、死ねww」とあたりまえのように嘲笑する。無邪気なwをたっぷり付けて。どうしてこんなに、いきなり、赤の他人に対して残酷に死ねって言えるんだろうか?こげんたは別に私の飼い猫ではないし、M以外にも野良猫を殺している悪漢はいくらでもいるというのに。
この憎しみは、Mのしたことが許せない悪行だったというだけの感情ではない(もちろんそれもあるけどね)。人の不幸や苦しみを、これほど正当に、これほど安全な場所から、指差して笑ってもよいという機会が、通常の社会生活ではほとんど皆無に等しいからなのです。考えてもみれば、かつての日本や、今でもどこかの国で行われているように、悪人に対する処刑や刑罰は多くの一般市民にとってお祭りなのですよ。悪いことをした罪人が、広場のまん中で縛り付けられ、みんな満面の笑みでそれに石を投げる。死ね、罪人死ね。みんな別にその罪人から直接被害を受けたわけじゃない。もしかしたら名前も罪状も知らないかもしれない。でも平気で、あまつさえ笑顔でみんな石を投げるんでしょう。あいつは悪い。だから罰する。苦しむあいつを見て我々は嬉しい。そして、石打ちで弱り、最後に火をつけられて炭になっていく罪人を見て、「よしよし。これで正義は果たされたな」とニッコリ満足し、みんなうなずいて家に帰るんだ。
そういう心理が、Mに対して無邪気に、ごく自然にわたしが「死ねwww」と思うことの根拠になっているんだ。文明は進歩し、石打ちや公開処刑は人道的でないという観念が浸透し、日本の刑罰は善良なる一般市民の目から秘匿されるようになった。懲役6ヶ月?執行猶予3年?それでMがなにを反省し、なにを償ったのか、私は知らないしわかりようもない。我々のような無実の者は、全身に切り傷を負って重傷を負ったMは、これでやっと真に罪を償わされたと思えるんだ。罪と罰の心理は、倫理や人道というファンデーションで巧妙に塗装され、近代的にメイクアップされてはいるが、その薄い薄い化粧の下に構えているのはあくまで根源的な人間のむきだしの感情だ。それは法を遵守して正しく窮屈に生きている我々一般市民の持つ、逸脱者への怒りなのかもしれない。悪いことをする奴は許されない。単純に明快に。
はてなブックマークに捕捉された様なので、少し補足しておく。
「常用漢字表」は現時点として「一般の社会生活において現代の国語を書き表すための漢字使用の目安」として位置附けられた存在である。だが併し、其の前身である処の「当用漢字表」は、「目安」ではなく「現代國語を書きあらわすために、日常使用する漢字の範囲」として、詰り漢字制限を実行させる為の根拠として、告示されたものだったのである。当然、漢字制限としての性質は「当用漢字表」から「常用漢字表」へと移った現在でも受継がれて居り、其の結果、「覚せい剤(覚醒剤)」とか「ぼう然(呆然)」とか「漏えい(漏洩)」とか混ぜ書きが公然となされるわけである。「常用漢字表」に載ってない漢字は誰も読めないから使用できない、そんな感覚で混ぜ書きをする本人は自己正当化してるのかも知れない。
漢字を書くのは、自己の記憶の中から捻り出さなければならない部分がある。言葉を知ってる場合でも、漢字が導き出せない場合もある。純粋に自己の記憶に依存する為、非常に労力の掛かる事も無きにしもあらず。併し乍、書かれた漢字を読む場合、対比させる為の漢字は既に眼前に存在するので、後は自分の記憶と照し合せて行けばいいだけである。書く時の労力と比較したら遥かに軽いものだ。現在の仮名漢字変換も基本は此の原理を利用して居る。若し解らない漢字にぶち当っても、文脈で読む事が出来る場合もある。其れでも駄目なら字引の出番だ。別に「常用漢字表」の様な枠に縛り附けなくとも問題はないと主張したい。逆に書く必要のある漢字に関しては此れは教育の問題として処理されるべきかも知れない。でも其れは「教育で必要な漢字」ではあっても決して「常用漢字表」では在り得ない。