はてなキーワード: この醜とは
妻を迎えることを現実に想像するようになって改めて、自分の中に巣食ったこの醜怪で邪悪な化物(デーモン)に「妻」という名をつけて衆目に晒す背徳の暴挙をあえてするおぞましさに戦慄するのである。その女は美人ではないが、知的で沈着冷静でときに愛らしくときに精悍である。だが彼女は見境なく男を貪り食う性に飢えた酒乱であるだけでなく、何と言ったらいいのか、どこへ行ってもひとが築き上げてきたものを壊してくるのである。結局、ひとの夫と寝るというのもひとの家庭や貞操や信頼や愛を壊すことなのだろう。そして彼女は主に女に憎まれ、彼女自身も女を憎んでいるが、なぜか男たちは彼女を愛している。女性に対し何の興味も持たないひとりの男の妻となって以来、その女は夫の前では従順な妻でい続けてきたが、彼女が夫の不在にかこつけて他の男たちと放埓と淫蕩を繰り返すごとに彼女が自分に被せたメッキも剥がれて行ったのである。そしてそんな女を、私は今の夫から引き離して自分の妻に迎えようとしている。彼女の煽情的な容姿や言動ではなく、自分が愛しているはずの夫との関係すら自分の手で壊さずにはいられない彼女の先天的な暴力性を、私は愛しており、それをどうしても自分のものにしたいのだ。壊す力をそれゆえに愛する、この愛もまた彼女の破壊の餌食となろうとするのだろうが、彼女が壊そうとすればするほど私は彼女がいとおしくなる、この狂った愛の格闘を、私は彼女と互いのいのちが尽きるまで続けたいのだ。
わたしは人から軽くみられるところがある。
なんつーか、あの人の話だから別に聴かなくていいよねというやつだ。
周囲の人に恵まれているせいか10人中1人くらいで済むんですけどそういう1人がそういう態度を露骨に出すんだけどしょうがないのかなーと思うしかなかったわけです。
そういうときは道端の石ころの気持ちになる。背景に一体化する気持ちになる。
多分10人中1人くらいの人は石ころの気持ちになったことなんてないんだろうな。心底うらやましい。
まあ近いところにいたわけですそんな感じの人が。
でその人がとんでもないことに巻き込まれたようで仕事を辞めた。
とんでもないことはとんでもないことなのでその人の前途は多難なようだ。
もーね、聞いたときにね、そのざまみろ感といったらなかったな。
心なしかその話をするほかの同僚もにやにやしていたりしてさ。
表立ってその人の悪口なんて誰も今まで言ってないのにさ。
しかし社会的制裁を受けたといってもたとえばその人がわたしにたいして謝罪の気持ちをもったりはしないわけだ。
とてつもなく残念。しょうがないけど。天罰だー!なんて思ったけどわたしにできることはそれくらいなのだ。
叫び続ければいつかは願いが届くらしい。
どうでもいいけど誰かチャーハン持ってきてよ。
俺と一瞬の勝負をしようぜ。
それはもう面白すぎて狂えるくらいだぜ。
何を言ってるのかすらわかんねーんだぜ。
あーあー。
めんどうくせぇ。今日もかったりーなー
チョコレートありーなー
くだらねーくだらねー。
何が美しいだよくだらねーなー
ぺろぺろりーなーぺろりーなー
はーいっときてきて
みてみて
私のこの醜さを。
とかいってんじゃねぇのかお前よぉ。
こんな時は静かにパチンコをやって
ちなみにパを抜いて読んじゃだめなんだって
伝えたくてむきだしで悲しくてくやしくて
でも伝えらんない思いがむき出しに
いつのまにやら忘れてしまった感情を礎に
あなたの声を頼りに
なんとかして
なんとかして手に入れたものが
たとえぶっこわれたとしてもふふふって笑ってやるよ
日本の文化が、かなりマズい方向へと進み始めている。私はこれを止めなければならない。そのためにこれを書く。
まずはひとつの記事を紹介しよう。あまり人に広めたくないあまりにも醜悪な文章だ。
しかし、現代における様々な問題を見事に一点に凝縮しているので、思い切ってリンクする。
http://blog.livedoor.jp/hitoshione/archives/51007015.html
例えば「格好悪いふられ方」とか「深夜高速」とか「ザ・ミーハー」とか「はっきりもっと勇敢になって」とか。
オレにはその絶妙なセンスがツボで
「おっ、大江千里か!」とか「フラカンね、はいはい」とか「森高かよ!」とか
「ついに岡村ちゃん使ってきたかあ」とか
毎回楽しみにしていて連戦連勝ですべて当ててきたのだが
去年の秋ごろに初めて「・・・知らんなあ・・」となった。
後悔した。やはり醜い。スノッブとはこいつのことを言う。
何が醜いかというと、モテキの作者がただ見栄えをよくするためだけに楽曲タイトルを引用する態度と
その引用元がわかることに喜んでしまうという読者との共存関係だ。
同じように注目されているマンガで『ザワさん』というものがある。このマンガでも全く同じ現象が存在した。
それは耳にイヤホンを指している男子高校生に対して矢印書きで書かれた「伊集院のラジオを聞いている」という文字だ。
「そんな高校生、今どきいるか」という二重の意味で驚愕したのだが、本当の問題はそこじゃない。
この引用は作品のクオリティに何の影響も与えていない。ただただ、作者が好きなものを作品内で提示したにすぎない。
わかってる奴だけが気づいて不気味にニヤリと笑うだけだ。この醜悪な一連の行為はいったい何なのか。
はっきり言うと「私はあなたの仲間である」というマーキングにすぎない。
ザワさんで言うと「私は伊集院のラジオを聞くような人間です」「伊集院のラジオが好きな人は仲間です」というメッセージ。
作品内にわかる人間だけがわかる符牒を忍び込ませ、その意図は仲間意識を強めるためだけ。
これはニッポンのサブカルチャーのもう至るところに散見される。
例えば映画秘宝文化圏。こいつらはやたらと「俺たちボンクラは」という言葉を連発する。
「ボンクラ」というキーワードだけでただ連帯している。このような囲い込みは排外主義を伴なう。
事実、映画秘宝は「ボンクラ」というキーワードに引っかかる人間だけを相手し、
お決まりの作法を繰り返して、自分たちの文化圏外を口汚く批判するだけでゼロ年代を終えた。
現代の創作はもうほとんど仲間意識を強める言葉や引用を散りばめるだけで成り立っている。それが最近の貧困さの原因でもある。
最近のサブカル好き同士の会話なんて、お互いが好きなキーワードを連発し合ってにやりと笑っているだけの、
本当に貧困で醜悪で、言葉にできない酷さだ。そんな人間が日本の文化を滅ぼすんだ。どんどん自閉していき緩やかに自滅していく。
島本和彦が『天元突破グレンラガン』を評した言葉を紹介しよう。
http://anond.hatelabo.jp/20100107000853
初恋…?を書いたものです
まだ気持ちが収まらないので書きます
相手は好きな子がいるって、数ヶ月前に言ってて、最近は聞かないけど、振られたといわれたわけでもないし多分まだ継続中なんだと思う。それに、相手の好きなタイプって私と全然違う感じで、私は喪女だけあって超地味なんだけど、彼の好きなタイプは割りと派手めなタイプ。だからこの思いが叶う可能性ってかなり薄い。
でも彼がそういうタイプが好きなら、そういう感じにしたいとか思ってる自分がいて、それまで「そんな男の好みで自分の趣味を変えるなんてさ~」って思ってたのにそんな事考えてる自分が、どこか、悲しいやら、怖いやら。大体そんなことしたって振り向いてくれるはずないっていうか、むしろ「え、何、突然そんな格好して」って引かれるような気がする。
だから徐々に、あけたことなかったピアス穴をあけてちょっとだけピアスしてみたり、微妙に変えているけど、そんな変化なら逆に気付かれるわけもなく、どうしたいのか自分でも分からないまま中途半端なところでうじうじしている。
昨日、話の流れで、気が向いたらメール出すよみたいなことを冗談半分に言われて。結局来てないんだけど、昨日そう言われてから、ずっと携帯を気にしている自分がキモイ。だいたいメール着信音があるんだから、それがなってないってことは来てないに決まってるのに、それでももしかしたらと何度もパカパカ携帯をあけて、メールが来ていたらそこでメールのアイコンが出ているはずなんだからそれがない時点できていないのは分かってるのに、それでも受信メールのところまでボタンを押して、見て、結局何も来ていないことに改めて落胆して、その繰り返し。自分がキモい。なんて、理性的でないんだろう。
大体今更初恋なんていわれても、困る。もう独身でいるよって決めたのに。恋なんて喪女の私が参戦しても辛い思いをするだけじゃん。報われるわけないじゃんか。ちょっと外でたら私の何倍もきれいで可愛くて頭もよくて性格もよくて面白くてスタイルもよくて経験もあってコミュ力が高い、そんな女性が山のようにいる。太刀打ちなんてできるわけがない。しかもどんどんそういう人は出てくるんだ。
そんなの戦う前から戦意喪失。無理。無理すぎる。高嶺の花。幸い初恋もしたことなかったし、恋愛についてさほど興味もなかったから、これまで「独身で生きていくしかないよね」で納得していたのに。
なんかよく分からないけど会いたくてしかたない。
こんなん、脳内麻薬か何かのせいなんでしょ、って自分を冷めさせようとしても「それでいいじゃん」「それで何が問題あるの?」「脳内麻薬でもなんでもいいけど手をつなげたら幸せだよね」って片方から私が私に呟いてくる。
意味わかんない。でも会いたい。話したい。写真が欲しい。腕を組みたい。抱きしめたい。抱きしめられたい。キスしたい。キスされたい。身体中触られたい。身体中触ってみたい。セックスしたい。
そんな事思いたくない。どうせ叶わないんだから、諦めなよ喪女が夢見てどうするの、今のうちにUターンするのが賢い道だよ、今なら二次元に没頭すれば忘れられるでしょって思う自分と、「もしかしたら」に賭けたい自分と、ごちゃごちゃになってる。
どうしよう。大体彼はもうすぐ、東京に行ってしまうんだよ。万が一にも叶ったところで無理じゃんか。
いっつも冗談めかしたことばかり言って、ムードメーカーというとよくいいすぎだけど、グループの中でそんな立場の私がいきなりマジになって告白とか有り得ないでしょ。バカみたいじゃん。恥ずかしいよ。キャラじゃないよ。引くよ。何こいつ、そんなつもりじゃなかったのにってなるよ。なるでしょ。どうするんだよ。もう、わかんない。
彼が楽しそうに話してる相手の女性に滅茶苦茶嫉妬するようになった。うわ、うっわ、凄い醜い。嫌だ。超否定したいこんな自分。その女性が私にはできない、敬語じゃない軽い感じのやりとりをしてるのがすっごく羨ましい。私もああしたいよ。あの女性本当可愛いし性格もいいから、憎めないし、彼のことがなければ、私好きなのに、なのにどこかで悔しいって思っている、嫉妬している、自分がいるよ。腹立つ。嫉妬できた立場じゃないでしょ。もう嫌だ。どんどん醜くなっていく。ただでさえ性格悪いのに救いようが無い。
彼が好きなら彼が幸せにしていればそれでいいって話になるんじゃないの?この醜い独占欲みたいなものはなんなんだ。私だけ見てて欲しいみたいな、いや、別に見てていいけどわたしを一番に見て欲しいっていうこの感覚は、恋なんかじゃなくて、醜い独占欲なんじゃないのか。それともそれが恋なのか。
今日、冗談半分に頭なでなでされた。もうやだ。泣きたくなるほど嬉しい。
前だったら「子供扱いか?」ってキレてた場面かもしれないのになんでこんな嬉しくなってんの?一貫性なさすぎじゃないか。バーカバーカ>私
あんなん冗談半分だよ。彼はそれくらい普通にするリア充なんだよ。
全般的に女性に優しい(ていうか人に)だけで、私に特別優しいわけじゃないんだよ。
でももう一回して欲しい。あーくそっ、バカか。気持ち悪い気持ち悪い。乙女か?そんなガラじゃないでしょだから。
昔の彼女の話をされたけどその内容聞いてると本当優しい人だなって思う。どうしてその元彼女は、別れる気になったんだろうって信じられない。まあいろいろあるんだろうけどさ。私だったら離れないのにとか。
まそりゃ自分に都合いいことだけ話してるのかもしれないけどさ。そうかもしれないけど。
あぁもう、あーもう、もう。
twitterである晩目に飛び込んできた会話。
以下はコピー。 @wakusei2nd @d_nak 実現したら「日本を代表するメンヘル女子ハンター」から「日本を代表するメンヘル女子ハンター(博士号持ち)」に
この@wakusei2ndというidの人は、自己紹介欄を見たら、宇野常寛(批評家/編集者)と書いてあった。 私はずっと心療内科に通い、メンタルの病気でずっと悩んでいます。死にそうになったことも何度もあります。
メンヘル女子ハンターというのは、精神的な病を抱えている女子は、尻軽で精神が弱いからつけこみおとしやすいという意味と私は受け取りました。そうじゃないなら狩りだからおやじ狩りというように使われていた犯罪用語なのかもしれないが。
受け取る意味はそれぞれだが、とにかくこの人たちはメンヘル女子をハント(狩り)してるらしい。この不愉快な宇野という人と、「日本を代表するメンヘル女子ハンター」らしい中川大地という人の顔が見てみたいと思って検索したら、宇野という人の画像動画はすぐ見つかりました。恋愛や女子ハンターとか語っていいレベルの容姿じゃない。ルックス偏差値で言ったら30ぐらい。もし家に鏡がないのなら仕方ないけど。中川というハンターはどの程度の容姿なのか未だ不明。顔はともかく二人ともこんなに不愉快で差別的な言葉を使ってはしゃいでいるのだから、自称批評家、編集者でも頭も悪いのでしょう。もちろん、私もメンタルも頭も悪いが。
イケメンなら言っていいってわけじゃない。でもよくあの顔と洋服のセンスでメンヘル女子ハンターなんて差別的な言葉使えますね。心臓病女子ハンター、がん患者女子ハンター、知的障害者女子ハンターと同じようなニュアンスで非常に差別意識が出ている言葉だと自覚があってこの人はこの言葉を使っているのでしょうか?病気なんてなりたくてなったわけではないし、ましてネットで不特定多数に公開するということの影響力も理解できていない。
この醜悪な「日本を代表するメンヘル女子ハンター」から「日本を代表するメンヘル女子ハンター(博士号持ち)」にという会話は数日前の書き込みですが、自分も含むメンタルの病に悩む女性を公で馬鹿にされ侮蔑されたように感じて気分が悪くなりました。今も具合が悪いです。薬を処方してもらいカウンセリングで相談もしてきました。
宇野さんと中川さんという人が結婚していたり姉妹がいるのかしらないけど、自分の身内の女性にメンタルの病を抱えている人がいたらこんな蔑的なことを書けんの?批評家という職業なら、まず鏡で自分の顔と姿をチェックし、自分の言動の醜悪さに対する批評能力を身に付けたらいかがですか?ハント(狩り)をどういう意味で使っているのかしらないけど、女子として性的に食うという意味なら、あなたたちレベルの人に食われるメンヘル女子なんて何人いるんですか?
「・・・私としては、この男を罪人よりもむしろ虎の仲間に分類するね」
さの対策。三項目の問題点、最後に可能性を探る。
はじめに
はてサは、路傍に立つ鮮血の防犯・喚起板は「性差別を助長する」と看板撤去の全国運動を展開しているのでも、
錠前メーカーに「貴社の製品は社会の荒廃化をもたらす」と苦情を訴えているのでも、
悲惨なニュースを肴に「商売女と間違えられてもしかたない」、「親の顔がみたい」といった孫娘に向けられたお茶の間文明論を糾弾しているわけでもなく、
まして「自衛の言説の流布」と「予防拘禁」を天秤に掛けているわけではない事を確認する。
(1)[男は獣]
夜中に一人出歩く、基地周辺をロイタリングする、腿を露出する婦女子らに遭遇すると、陵辱せずにはいられぬ男を獣と(自)称するのであれば、
(2)[獣は檻に]
現状は「獣は檻に」を肯定する(曽野自身牽引役である)社会なのだから、あなたの定めた男性らは皆、檻へと収容されちまいますがよござんす?という反問、下らぬ稚気を社会規範に押し上げんとする不平な言い草に対する揶揄である。
現行の「檻」に反発せず、文脈から抽出し殊更危険視するのは、むしろ「アンチはてサ」なる党派性の表出とされてしまうおそれがある。
被告の態度如何で「矯正の可能性が認められず、極刑もやむを得ない」といった一般予防の見地が加重された判決が出される度「真っ先に批判してくださる」ので、「非常に心強い」といった皮肉を返されるおそれがある。
現実と齟齬する状況を想定してまで思考実験を続けたいのであれば、
もし現実の犯罪被害者を侮辱した曽野への批判を、反語ではなくフィクションで―往年の膝上スカート姿の筆者がピンボールマシンに押し付けられ陵辱されるポルノ作品を以て揶揄したならば、「権利に紐をつけるな」論者らが果たして「この醜悪なポルノを描いた作者自身の独善性、暴力性が露呈した」と先んじて警告を発するものかどうか一考してからでも遅くない。
(「ポルノを対抗言論に貶めるな、芸術に政治をまぶすな、フィクションはそもそも論説ではない」といった批判は想定しない)
対策
「獣は檻に」の言説には、曽野の寄稿に「一理ある」、「李下に冠を正さずだ」といったタガの外れた擁護が存在した事実を踏まえなければならない。しかし、曽野発言、渡辺の提言(男は獣)をまっさら肯定する以外、はてサを哂う論立てを増田が見いだせなかったのも事実である。
かのように無理筋を厭きるほど繰り出し、臆面もなく継ぎ足せば、相手から罵倒、もしくは黙殺を引き出す事は可能であろう。やり取りを眺め、はてサの「顕著な専断主義」、「狭量」を再確認し満足する外野もいるだろう。
[余録]
「とにかく幼女をポルノショップに立ち入らせる馬鹿はいない。若い娘に夜道の散策を推奨する馬鹿はいないさ。「瓜田李下」、姪っ子や娘の学友を自宅に招きたくば職業や趣味を選ぶ事。「あなたは悪くない」と慰撫される羽目に陥りたくなければ自由の制限を受け入れる事さ。富時には富に縛せられという。窮屈な縄の上をびくびく渡る、始末のつかぬ自由に如何なる価値があるというのか。我々は友人と、家人らと囲みつつ、犯罪被害者を無遠慮に傷つけてきた。我々はひそかに他人の性癖、食い扶持を蔑み、その面目を損ねてきた。それもこれも文明の呪詛、敵のぺてんに罹るのが馬鹿馬鹿しいからさ。殺人者の多くは真の意味での罪人ではない。野獣にすぎなくて、我々はナイフで頸を切られたくないので、少年を排除しなければならなかったにすぎない。アンブローズ先生答えて曰く殺人者が人を殺すのは積極的な素質からではなく消極的な素質からだ、と。殺人者は人を殺めぬ人間が持つ何物かを欠いている。得るより失うが容易いのは道理だから、我々はみな未来の殺人者、二流の悪人であり、卑劣漢に転落するわけさ。個人は平等に強くなり、平等に弱くなった。この自業自得の弊竇に目をつぶる、メディアの愉悦を積極的に生活に取り入れながら卑劣の謗りを免れる事はかなわぬ。少年は世間、即ち他でもない君に顔を知られたのが、名を知られたのが苦痛であったのだ。我々は檻にかんぬきを差せと騒ぐが、しょせん獣であって畢竟檻に入れられる身だ。天子あらざる我々にのがれるすべはない。博徒に限らず、男に限らず、読者ならぬ作家でさえも」
http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20091207/p1
http://d.hatena.ne.jp/sionsuzukaze/20091207/1260198508
ものごころついたとき、認識した自分像は、身体が希薄で精神偏重型だった記憶がある。身体はリアルではなく精神で起こることだけがリアルだった。身体と精神は別物だったし、身体で何かが起こっていても精神がそれを認識していなければ何も起こっていないのと同義であった。身体は精神の操るマリオネットであり、時に私はマリオネットを放り捨て、精神だけが作用する世界に潜り込むこともあった。
その当時とても不思議だったのは、私の身体と他の人の身体が入れ替え不可能であり、我々の精神が溶け合うことや触れあうことがあり得ないという事実だった。
目を開けるとサイズの合わないマリオネット。見覚えのない顔。手の長さも足の長さも私が認識しているものとは違うという事実。それは私にとってストレスだった。精神の感じる身体と、実際の身体の間の隙間には、粘つくゲルが詰め込まれていて、その感覚はとても不快だった。痛みさえも私の痛みではなく、私の操るマリオネットの痛みだった。私はマリオネットを操りながら、痛みに苦しむマリオネットを眺めていた。マリオネットは私の意志には関係なく、泣き、笑い、怒り、人を傷つけたりもする。私は制御不能になったマリオネットをただ眺めている。それを制御しているのは誰?と思いながら。
人に見られるのはマリオネット、人に愛されるのもマリオネット、それを後ろで見る私。叫べども叫べども、人が見るのはマリオネットでしかない。何度叫んだことか「私を見て、私を愛して」と。しかし、誰もマリオネットの後ろに立っている私には気づいてくれなかった。
精神の認識する身体と、実際の身体が一致するのは、強い刺激が与えられたときだけだった。痛み、苦しみ、快楽……精神の認識する身体を取り囲むゲル状のものがない状態は快適だった。ゆえに私は強い刺激を求めて、様々な問題行動に嗜癖していくことになる。
男は、マリオネットに彼の中の何かを投影し、鏡になったマリオネットを抱いた。マリオネットは彼の望む通りに演技をした。私はその行為が終わるのをただ見ていた。彼が愛しているのは抱かれているマリオネットではなく、彼の中の何か。マリオネットはただの代用品。それを理解しながらマリオネットを彼に差し出す私。「あなたはいったい何を見ているの」私は何度も彼に問う。私の言葉は彼には届かず、私の疑問はいつになっても解消されない。何人もの彼が私の上を通り過ぎた、私は彼にマリオネットを与えたことを忘れた。綺麗さっぱり忘れた。代用品としての私は、私の中から姿を消した。
切り離し、切り離し、断片を切り離し、切り離し、切り離し、切り離し、切り刻み、身を切り刻み。
幾重にもなった断片の下から世界を見る。断片に囲まれた地の底から世界を見る。断片はバリゲード、私はその下で息を潜める。息を潜めていたい気持ちと相反する、誰かに見つけて欲しいという願い。ジレンマ。焦燥。斜に構えて深いところから覚めた目で世の中を見、その実は誰よりも愛されることを強く願い、願いが受け入れられない苦しみは、死への衝動へと変化した。
始めて腕を切った日に見た、肌の下にある醜い肉の様子は、今もまだよく覚えている。この醜さこそが、私が覆い隠して見ようとしなかったものだということに気づく。取り繕う外面、どろどろしたものが渦巻いた内面。その狭間で苛々するたびに私は何度も腕を切った。肉は気味悪い光沢を持ち、繊維が刃に引っかかって苛々した。時折感じる激痛がこめかみを貫いても、構わずに切った。血は穢れだ。全て流れだし、洗い流せばいい。血管の壁に触れたとき、鈍い痛みが寒気を呼び起こした。それは多分死ぬことに対する恐怖だったのだろう。私はそんなあたりまえのことさえも忘れていた。
最初にそれを意識した日から、すでに二十年近くは経過している。しかし今だに、精神の感じる身体と、実際の身体は異なる。指先までしっかりと神経が張り巡らされていないような感覚がある。実際はそんなことなどありえないはずなのに、私の中では厳然とそうなのである。あの当時感じたひりつくような気持ちも、腕を切った痛みも、皮膚の下にある醜い肉も、大量の吐瀉物と一緒に吐き出した呪いの数々も、私の上にしっかり根を張り、事あるごとに再生され私を苛む。
しかしそれらは、もう過ぎた昔のことであり、私が今ここにいる厳然たる事実に代えられるなにものでもない。