はてなキーワード: 障碍者とは
私も以前カウンセリング受けていたが、そのカウンセラーがどうしようもないクズだった。
まともな心理の民間資格さえ取れなかったからだろう、カウンセラーに国家資格がないことをさかんに強調していた。
クライアントの女の子に手をつけまくり、だんだん自分に治せないものはないと思い始めたのか、統合失調症や視覚障碍者など明らかに畑違いの患者にもカウンセリングを受けさせていた。
そのうちどこかの新興宗教のように、アパートの一室にカウンセラーと患者同士で集まって一緒に住んでたらしいが、最終的にそれも全て破綻して貧相なウェブサイトだけ残っている。
まともな人間ではないと途中で感じたので私はすぐ抜けたが、実物は人を癒す人間どころか、ただの性同一性障害を売り物にしていた精神破綻者だったよ。
人前で話す自信や、自分を客観的に見れる力だけはついたかな。
「半身不随でも構わない」ならOKで
「子供が産めなくても構わない」だと「バカにされてる」と感じるらしい。
そもそもこれが誤読だろ。
原文は全体として
「ハンデがあって誰にも相手にされないだろうけど
っていう思考を叩いている。そこでは「ハンデがあって誰にも相手にされない」っていう前提が肯定されている。その前提が、障碍者をバカにしてるわけだ。そこでは「歩けな」い・「立てな」い・「子どもが産めな」いは等価。
ユイには「俺」がいるから大丈夫らしい。でも私はユイじゃないぞ?
ってことは、私は「誰にも相手にされない」と、このアニメの制作者は言ってるのではないか?
とかアニメキャラが言ってたら、俺は2次元の国に行くしかないじゃないか!
あと、「無精子症でも構わない」とアニメキャラが言い、そこに「本来なら無精子症の男は不要」という前提を読み取ったならば、「俺は(男は)産ませる機械じゃねぇ!バカにすんな!」って思う奴がいても不思議ではない。
差別するようなバカは、差別されても仕方ないと思う。「差別をするバカ」と差別されて仕方ない。
それにしても、頭がいい人間が頭が悪い人間(彼らにとっては「人間」ではなく「ケモノ」なのかもしれないけど)を差別しても寛容なのはなぜだろうか?
ネットって言うのは自動車の教習所みたいだ、っていうエントリがあった。インテリもヤンキーもおたくもDQNもヨシモトもアキンドもゲイニンもいて混沌な場所だ、って言う話だった気がする。そのブコメに、ああいう場所(自動車教習所)は苦手だ、みたいなことを書いてあった人がいた。頭のいい人だ。
たとえば、DQNやヤンキーやバカが苦手で同じ場所(公共の場所)にいたくない、なんて、言っても拍手喝さいかもしれない、頭のいい人は。だけど、バカDQNヤンキーを朝鮮人部落知的障碍者変換したらどうなんだろうか。
わたしはあたまがいいっていうことを理由にいじめられた、そんなエントリがあった。まあ、そういうこともあるだろう。しかし、「わたし」以外のいじめの場合、圧倒的にあたまが悪いの方が多い(いじめの理由付けの一番は見た目だと思う。二番目がバカ)。でも、あたまのいい人は頭がいいということでいじめられたと共感する。
頭がいいって言うのは、頭が悪い人間にとってそれだけで暴力に近かったりする。コミュニケーションには暴力がいつも含まれている。だけど、頭のよしあしで立場(位置エネルギー)が違い、コミュニケーションによる暴力的な部分の運動エネルギーに変換されて、痛いんだよね。
子ども嫌いで、子どもとかかわらずに生きても文句を言われない社会ってとてもいいなあ、と思う。ぼくが子どもが苦手だからである。ロリエでもロリ絵でも猫耳メガネショタでも女装ぼくっこでもヌけるぼくですが、子どもは苦手だ。いままで童貞でこれからも童貞であろう貧乏なぼくは子どもを育てることはないだろう。まあでも、もし、自分の子どもができたとしても、苦手だろうなと思う。しかし、だけど、子どもと接さずに社会生活を送るって変だ。虐待親とか非難しても、なにかおかしい。
子どもとかかわらずに生きることができるって、子どもを壁の中に閉じ込めているってことじゃないのか?そういえば、子どものときは、ぼくはいつも、不自由で不機嫌だった。今も、不自由で不機嫌だけど、あのころよりはましな気がする。
それと同じ。頭がいいであろうあなたたちが、頭のわるい人を閉じ込めていない?ってはなし。いや、実際、とても不自由を感じるわけです。でも、頭がいい人は、そんなわけがない、平等だ、って言うんだろうかな。
頭がいい人はだいたい頭の悪い人が嫌いだ。そして意識的に無意識的に壁を作る。バカに入れない壁。そんなことをしていないとは言うが、言葉の暴力や知性で傷つけたり操ろうとしたり見えなくしたりする。
あと、大学って研究機関でもあるんだろうけど、教育機関なんだから、バカを落とすなよ、と、最後に低偏差値低学歴低IQのマスダは思います。
差別するようなバカは、差別されても仕方ないと思う。「差別をするバカ」と差別されて仕方ない。
それにしても、頭がいい人間が頭が悪い人間(彼らにとっては「人間」ではなく「ケモノ」なのかもしれないけど)を差別しても寛容なのはなぜだろうか?
ネットって言うのは自動車の教習所みたいだ、っていうエントリがあった。インテリもヤンキーもおたくもDQNもヨシモトもアキンドもゲイニンもいて混沌な場所だ、って言う話だった気がする。そのブコメに、ああいう場所(自動車教習所)は苦手だ、みたいなことを書いてあった人がいた。頭のいい人だ。
たとえば、DQNやヤンキーやバカが苦手で同じ場所(公共の場所)にいたくない、なんて、言っても拍手喝さいかもしれない、頭のいい人は。だけど、バカDQNヤンキーを朝鮮人部落知的障碍者変換したらどうなんだろうか。
わたしはあたまがいいっていうことを理由にいじめられた、そんなエントリがあった。まあ、そういうこともあるだろう。しかし、「わたし」以外のいじめの場合、圧倒的にあたまが悪いの方が多い(いじめの理由付けの一番は見た目だと思う。二番目がバカ)。でも、あたまのいい人は頭がいいということでいじめられたと共感する。
頭がいいって言うのは、頭が悪い人間にとってそれだけで暴力に近かったりする。コミュニケーションには暴力がいつも含まれている。だけど、頭のよしあしで立場(位置エネルギー)が違い、コミュニケーションによる暴力的な部分の運動エネルギーに変換されて、痛いんだよね。
子ども嫌いで、子どもとかかわらずに生きても文句を言われない社会ってとてもいいなあ、と思う。ぼくが子どもが苦手だからである。ロリエでもロリ絵でも猫耳メガネショタでも女装ぼくっこでもヌけるぼくですが、子どもは苦手だ。いままで童貞でこれからも童貞であろう貧乏なぼくは子どもを育てることはないだろう。まあでも、もし、自分の子どもができたとしても、苦手だろうなと思う。しかし、だけど、子どもと接さずに社会生活を送るって変だ。虐待親とか非難しても、なにかおかしい。
子どもとかかわらずに生きることができるって、子どもを壁の中に閉じ込めているってことじゃないのか?そういえば、子どものときは、ぼくはいつも、不自由で不機嫌だった。今も、不自由で不機嫌だけど、あのころよりはましな気がする。
それと同じ。頭がいいであろうあなたたちが、頭のわるい人を閉じ込めていない?ってはなし。いや、実際、とても不自由を感じるわけです。でも、頭がいい人は、そんなわけがない、平等だ、って言うんだろうかな。
頭がいい人はだいたい頭の悪い人が嫌いだ。そして意識的に無意識的に壁を作る。バカに入れない壁。そんなことをしていないとは言うが、言葉の暴力や知性で傷つけたり操ろうとしたり見えなくしたりする。
あと、大学って研究機関でもあるんだろうけど、教育機関なんだから、バカを落とすなよ、と、最後に低偏差値低学歴低IQのマスダは思います。
障害者の当人から「障害者」じゃなくて「障碍者」って呼んでくれっていうなら別にそうするのが当然だと思うけど、
眼鏡が発明される前の世の中なら、ど近眼の俺は盲人同様だしな。
そういう意味で「障害」概念も相対的なものにすぎないんだよね。
知的障害とか精神障害にしたってそうで、はっきりいって軽度の障害者とある種の健常者は連続した領域にいる。これは煽りでも何でもなくて真面目な話。世の中が変われば「障害者」扱いされる人が減っていくというのは間違いないだろう。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/091012/acd0910120913003-n1.htm
http://b.hatena.ne.jp/entry/sankei.jp.msn.com/culture/academic/091012/acd0910120913003-n1.htm
この記事とそのブコメが興味深かったのでちょっと書きます。
私は3級手帳を持っている精神障害者(と国の統計でカウントされている)です。
個人的には「障害者」表記が嫌だとは思いませんし、周囲でも嫌だと公言している人も見かけませんが、嫌な人も居ると思います。
しかし「障がい者」表記には反対です、漢字をひらがなに書き換えれば終わりでは意味がありません。
嫌な人が居るというのなら「障碍者」表記にすればいいのです。
常用漢字についても今まで何度か見直しがされてきましたし、碍の漢字だけルビを振るという運用も出来るはずです。
ただ、「障害者」表記に対する反応は身体・知的・精神の各障害者団体で違いがあるなという気がします。
各々の障害者団体の方針の違いというのは結構大きく、
例えば身体障害者向けの身体障害者手帳と知的障害者向けの療育手帳には顔写真が貼られていますが
精神障害者向けの精神障害者保健福祉手帳には顔写真が2006年まで貼られていませんでした。
これは全国精神障害者家族会連合会、略して全家連が手帳に顔写真を貼る事を拒否したからです。
これにより身体・知的の重い障害を持つ障害者に認められていたJR等交通機関の優遇措置が
本人確認が出来ないという理由で拒否され、現在も認められていません。
障害者と言っても身体・知的・精神で障害者団体が分かれていることがほとんどで、
障害者福祉の根拠法令も身体・知的・精神でそれぞれ別となっています。
私が不満なのは、ある障害者団体の意見が他の障害者の意見とかけ離れていることが多いことです。
先ほどの全家連も、当の障害者や障害者家族から批判されることが多かったですし
身体や知的の障害者団体が出す意見を見て、脱力させられることが何回もありました。
障害者皆が、「障害者」表記に反対・「障がい者」表記に賛成では無い事を知ってもらいたい、と思ってこれを書きました。
以下は上手く文章にまとめられず箇条書きです。
metabodepon 言葉狩りは不毛に思う。本当に身体障害者が障「がい」者と表記することで救われると考えているのだろうか?疑問に思う。障害者の生の声ならば従いたいが、「健常者」たる人権派の考えならば空々しく思う。
http://b.hatena.ne.jp/metabodepon/20091012#bookmark-16660120
saigami 産経 いや、「障害者」に関しては当事者が嫌だって声が結構あるんだけどね。表記に関して当事者が嫌だって言えば配慮するべきだと思うけど。3K新聞とか言われたら嫌でしょ?/「碍」は常用じゃないから使えないんじゃ?
昔の事、学校の休み時間になると、いつものようにクラスメートが私の机を取り囲んで暴言を吐き始めた。
「お前何でいつもここにいるの?」「邪魔なんだよ」「いるだけでムカつくよなー」
私は只、皆と同じように通学し、決められた席に座って皆と同じように授業を受け、そしてそのままの体制でいただけなのだが、そんなことは彼らには関係なかった。私が黙っていると、彼らは相変わらず次々に言い続けた。「バーカ」「のろま」「ボケ」「ブース」…これらは否定しようがなかったので、私はそのまま黙って机に伏せていた。
すると、彼らの中の一人が叫んだ。「こいつ、反応しないぜ! 頭おかしいんじゃねえ?」他の面々も口々に、「聞こえてねえの?」「そうだ! やっぱり頭おかしいんだ、こいつ!」「言葉通じねえんだもんな!」
…そして、「こいつはやっぱりキチガイなんだ!」「そうだ、キチガイだ、キチガイ!」「いや、ダ●ン症かもよ!」「脳●麻痺じゃない?」「つ●ぼじゃないの」「特殊学級いけよ、ここにいんなよ」「とにかく障碍者だよ、障碍者!」「やーい、障碍者!障碍者!」彼らが一斉に合唱を始めるに至って、ついに私は耳を塞ぎながら立ち上がり、大声を上げた。
「やめて! やめてよ! 私は障碍者じゃない! そんなに酷くない! どこも障碍なんて無い!」
彼らはどっと笑い、ますます楽しそうに得意げに次々に言い放った。
「発狂したぞ、こいつ!」「こえー」「やっぱりお前はキチガイだ!」「本当のこと言って、何が悪いんだよ」…「それにさあ」彼らの中の一人が言うには、
「障碍者、って言われて怒るなんて、それって障碍者をバカにしてるってことだろ? 差別じゃん」
「そうだ、そうだ!」他の男子も勢いづいて、「差別だ、差別!」「こいつ、障碍者を差別してるぜ!」「いけないぞ、差別はー!」「みなさーん、聞いてくださーい、増田は障碍者を差別してまーす!」
それまで遠巻きに観ていた女子も口々に、「そうだよー、増田さん、障碍者差別はいけないんだよ」「ひどいよねー、(特殊学級の)○○ちゃんが知ったら傷つくよ」「ほんとに性格悪いんだね、最悪だよ」…私は反論のしようがなかった。
そして、その後も「障碍者」およびそれに類する表現の言葉を、時にはジェスチャーを加えながらも吐かれ続けたのだった。私は沈黙するしかなかった。
まぁ、そうだね
しかしさ、特定の誰かに嫌われるってのはどうにもならんと思うが
不特定多数に差別以外の理由で嫌われるってのはなんか理由があると思うんだけど?
そこを直す気はない、嫌われるならそれで構わんって価値観なら、一人で出来る仕事すりゃ良いじゃない
それはしたくない、でも大勢に迎合するのは嫌だって言うなら私は「キモイ死ね」って言うし
どうやれば大勢に迎合できるのか分からないって事なら、それは既に障碍者のレベルだよ?
障碍者ならそれはそれなりに生活保護とか障碍者年金とかそういう手段で生きればいいじゃない
ちなみに、この場合の差別は外国人だから嫌われるとかの生来の変えようがないところね
顔の造形とか頭の良し悪しみたいなのは普通に区別だから
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/080822/crm0808221209007-n1.htm
http://b.hatena.ne.jp/repon/20080822#bookmark-9732482
これはひどい, 死ねばいいのに, dqn こういうのって死刑に出来ないんですかね?あと、名前も公表して私刑にあわせて欲しい。更生なんかしないよ。ムリだよ。社会がきっちり廃棄した方が良いよ|id:hokusyu氏、おっしゃるとおりだが、ではどう共生します?
先のdqnを含む他人の生殺与奪権を持っていない程度には「共存」できとると思うなあ、今現在。
あと適当に誰でもが思いつくこととして、
っての。
できたらできたでどういった問題が起こるんだろう。
何年ぶりだろう。
実はさ、最近好きなヒトができた。
この時間が長く続きますように。。
今日は自分自身で障碍を一番意識する時のお話を。ま、タイトルにかいてしまってるんですが恋した時なんだ。告白とかってすっごく勇気いることだと思うんだけど僕にはもう一つ告白しないといけないことがある。「僕には、障碍があります。」と言わないとね。隠して付き合ったとしてもスッキリしないし、これ人生で一番の悩みかも。。要するに恋愛でインファイトができないんだ。アウトボクサーなんだよ。ヒットアンドアウェーで戦って最後は自分でタオルを投げるというようなことをしてきた。これはきっと僕の生き方が良くなかったんだ。実はね家族以外に自分の障碍について心から話し合えるヒトいないんだ。。その点、Brother(特定されたくないのでBrotherと呼ぶことにするね)がいるんだけどBrotherは障碍のある耳を出して友達と付き合ってるし仕事もしてる。奥さんもいる。Brotherを見ていると僕の今まで(今でも)耳を隠すという行為は相手に対して誠実じゃなかったと思う。だからといってさらけ出す勇気もない(高校まで出してたのにな)。。
好きなヒトに自分の一番嫌いな部分を言わないといけない。しかもいい返事が返ってくる確率は当然低いよね。僕はそのことに対して不公平・理不尽とは思いません。むしろ当たり前だと思います(当たり前ってのは言い過ぎか、気持ちわかる程度かな?)。後は運良く付き合い、結婚できたとしても生まれてくる子供のことが心配です。同じように障碍を持って生まれたら?って考えてしまう。僕はもちろん経験者として子供の助けになることはできると思う。でも奥さんは?きっと辛い思いをさせるよね。僕はそれが耐えられない。結婚する時点で奥さんにも覚悟があるのかもしれないけど。あー、僕ってネガティブすぎるな。。
自分のことを告白すること、障碍も含め自分のことを好きになってもらうこと、どうやったら解決できるんだろう。ま、時にはインファイトで戦わないと、殴られることを恐がってちゃいけないんだよね!よし、すげーかっくいい男になれるよう頑張るか!
僕は文面で「障碍」という文字を使ってます。これはこの文字が良い?とされているから一応です。ただ障碍を持っている僕の立場からいうと漢字はなんでもいいです。「障害」でも「障ガイ」でもね。。健常者と障碍者をわけるのは云々かんぬんという話もありますが分けた方がいいと思います。差別ではなく区別。仕方のないことです。
僕がそうなのですが耳に障碍がある場合、下顎形成不全を伴うことが多くあるそうです。少しでも自分のコンプレックスやストレスを解消できるなら耳の再建手術や下顎形成を受けてもいいなと思ってます。うーむ。。
「障碍者」ってエセ平等のにおいがする。
言葉狩りはもうたくさんだ。
中身については、「障害のあるなしで罪を軽くするな」っていうのは同意。
障害があって正常な判断ができない=無罪、減刑になってるから、
「だったらつないでおけ」みたいなことになってるので、
散髪という名のギロチン台を書いたものですが、今回は喪男のまとめ切れない事。―障害者がどうしようもなく怖いの詳細表示とまぁ、気持ちは分かるんだけどさ…。を読んで思ったことを書きます。はじめに障碍の優劣で優越感に浸っているわけではないので。勘違いしないで下さい。
うーん。。ここで言われているのは知的障碍者の方々のことなのですが、僕も先天的な障碍(ショウガイ)をもっているので考えさせられる話ですね。でも同じ立場かというとそうではないわけで。障碍者って大きく分けると知性・理性の有無で区別することができると思います。僕も電車やバスで知的障碍者を見ることがあります。「ぞうさん ぞうさん ○ンコが ながいのね ○ンコー! ○ンコー!」と大声で歌っている方がおられましたが、僕は障碍者だけどそんなことを120%しないし言わないわけで、正直恐怖を覚えました。同じく障碍をもつ人間だけど何か違う!と正直に感じました。僕は時々何故障碍があるのだろうと答えを求めたりするけど(変な宗教は入ってないよ)、知的障碍者はそういうことも考えられないわけです。自分の置かれている状況(先天的、後天的な要素を含め)を冷静に考えられるかが重要なんだよね。
ここからは僕の考えです。知性・理性のある障害者は普通の学校に行ってもいいと思う。そうでない人間はやっぱり特定の施設・学校の方がいいと思うんだ。親のエゴや周りの同情に甘えて判断するべきことではないと思う。ただ知性・理性があるといっても障害者なので普通の学校でもちろん苦労するしイジメられることもあるだろう(実際僕がそうだった)。話それるけど、小学校の時って道徳の授業みたいなのがあって障碍者とはみたいな項目があったと思うんだけど、その時ほんと息を止めるぐらいひっそりとしてた。45分の授業があれほど長いと思ったことはないよ。辛かったなぁ。僕はここにいていいんだろうかと小学生が自問自答するんだぜ?こんな悲しいことってないよね。。ま、自分というものが嫌というほどわかるし学習もする。一般社会での自分の生き方みたいなものを見つけられるんだ。そんなヒトばっかじゃないだろうけどタフにはなれるんだよ。
なんで知的障碍者(上記の電車の話で挙げたようなヒト)は特定の施設・学校がいいのかっていうと、就職がむずかしい(ここでいうむずかしいは努力云々で解決できないこと)と思うし気軽にバイトでなんてもっとできないと思う。だから社会での生き方を普通の学校で学ぶ必要性がないし特定の施設・学校のほうが問題も起こりにくい。一般社会とは違った彼らなりの社会の常識を身につけていく必要があると思う。施設から出れば別世界だということを認識させないとね。その辺に中途半端な権利を求めるから怖いんじゃないかな。最近、知的障碍者が陸橋からヒトを投げて落とすなんて事件もありましたよね。
ただ、どこまでも非情になればいいのかというとそういうことでもないよね。人間じゃないと差別するのは間違っている。けど障碍があるヒトとして(僕も含めて)区別はしないといけないと思う。権利もあればそれに伴う義務(ルール)そして罪もあるということですね。重度の障碍者は何をやっても罪にはならないってのはおかしい。ま、あとは軽い気持ちで子供をつくらないこったね。親の方が問題あることも多々ある。障碍をもった子を責任もつ覚悟がないとダメージ大きいよ。親の精神ダメージ = 普通の子の場合 < 先天的な障碍を持った子の場合 < 後で学習障碍なの障碍がわかった子の場合
でも僕はコメント欄にもあったけどDQNの方が怖いです。だって知性・理性が大きく欠如しているんだもの。。やたら威嚇するし人間以外の動物だね。
長くてすみません。
「言葉の成り立ちを無視した」というのが私には分からないです。
増田さんご自身が書かれているように、「障碍者」というのが元々の表記だった訳でしょ?
そして、公用文作成の要領によれば、常用漢字表にはずれた漢字だけをかな書きにすることが、書きかえの標準の一つになっています。
だったら、「障碍者」の表記を、常用漢字表にはずれた「碍」の漢字だけをかな書きにして「障がい者」と表記することは、この「公用文作成の要領」に従っていると思うし、言葉の成り立ちを無視したというより、むしろ元々の言葉の表記に適合していると思うのですけど。
で、なぜ「障碍」を「障害」と書くのかというと、昭和31年当時において、当用漢字の適用を円滑にするためという、便宜上の理由だったのでしょう。当用漢字が常用漢字に移り変わっても、引き継がれて現在に到ります。このように同音の漢字に書きかえることは、言葉の成り立ちとは直接的には関係のない話だと思います。