はてなキーワード: 知恵とは
元増田は先生としての才能がなさ過ぎるだろう。というか世間知らず。
その後の人生に苦労したり、うまくいったりするという発想がもうおかしい。
その人の最も魅力的な表現は個人的な活動でしか行わず、
さらに言えば、いつの時代の人か知らんけど
美大出た人でアーティスト目指す人なんてごく稀だよ?
デザイン事務所や、どこぞの企業の商品開発室なんかに就職するよ。
さらにさらにさらに言えば、
才能があるからうまくいくと思ったらそれこそ大間違い。
生きていく為に必要なのは才能よりも営業、自分をプロデュースする力。
なんつーか、生徒がかわいそうだなあ。
アーティスト志した保険の教職っていう人生の視点で進路の相談なんかしたらいけないよ。
それも1つの人生だけど、もっと色んな可能性があるんだから、
その可能性を探す知恵をつけてあげないと。
元増田は「こんなに自分は頭がイイアピールしてるのに、オチはサイゾーかよ!」というツッコミを期待したネタなんじゃないかな?
さっきお風呂でふと考えた
正確には、買う雑誌を選ぶようになった。
理由は単純である。金を払ってまでして得られるものがない雑誌に価値はないと考えるようになったからである。
例えば音楽雑誌。ほとんど音楽をとして「消費」している私にとっては、彼らの人生、作品の制作過程や曲の解説はトリビアルなネタにすぎないものだ。年末のベストディスクが特集されている号だけは買うが、それはリストアップされたCDを購入する指針に便利だから言う理由にすぎない。あくまで記号的な消費である。
また、こういう言い方をすると傲慢と捉えられるかもしれないが、明らかに自分より頭の悪い人たちの言葉を読んでも論理的思考力は向上しないし、人生にプラスになる知恵や知識を得ることも期待できない。
スポーツ誌は言うに及ばず。内輪の「ネタ」の集積体。サッカーの戦術が役立つのはサッカーの枠組みの中だけである。ある方面に精通していることはとても良いことだが、私は精通するために雑誌は利用しない。必要な情報はインターネットで充足可能である。
エロ本はとりあえず手っ取り早く抜くためのツールだ。記号的消費に傾倒して内実が無いという意味では私にとってロッキンやサカマガはエロ本と等価だ。
私が買う価値があると考える雑誌は公共的で、知識や知恵を取得できる雑誌である。
公共的とは多くの人に関係があることである。これから社会人になる自分にとってコミュニケーションツールとしての公共性は必要になる。
知識や知恵を取得することを雑誌に求める必要はないのかもしれないが・・・
というわけで最近はサイゾーくらいしか買わない(というか、お金がなくて買えない)新聞をとっているため週刊誌は買わなくていいかなと。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090404-00000525-yom-soci
この問題に対して、「私の学校では~」や「私の子供のころは~」といった個人的な体験からくる議論やコメントに対して非常にもどかしい思いをしています。もしかしたら財政難というのは言い訳にすぎず、ただ面倒だから拒否したのかもしれませんが、この学校の内部構造を知る人間として車椅子で登校する際、不便そうなところを挙げます。これらの問題点を解決するのにどれだけの予算がいるか、またどんな知恵が必要かという議論に役立ててください。ただ卒業したのがずいぶん前であり、すでに改築されていたり記憶違いなどもあると思うので、あくまで参考程度にしてください。
この少女や両親がどのような学校生活(特別学級に入るのかなど)を想定しているのかは不明ですが、とりあえず通常の授業を受けるとして考えます。
学校内部について
●1階に通常授業に使える教室が1つもない。
本当に1つもありません。生徒のホームルームはすべて2~4階にあります。1階にあり、大人数(30人程度)で使える部屋は職員室ぐらいです。また、これは変更可能だと思いますが、この中学では通常1年生が4階を使います。
●音楽室、調理室、視聴覚室、美術室、理科室がすべて2階以上にある。
特に美術室と理科室は旧館と呼ばれる建物にあり、幅1メートル50センチほどの渡り廊下(壁なし柵のみ、渡り廊下を渡るために3段ほどの階段あり)を通る必要があります。1階の渡り廊下は多少余裕があります。ただ扉が非常に狭かった記憶があります。
●階段について
階段は4つあります。
1.中央階段と呼ばれる最も大きな階段です(校舎中央にあるわけではありません)微妙に弧を描く螺旋階段。
2.外に面した取り付けられた小さな階段です。一人で通るのも苦しい。
3.通常の学校にあるような間に踊り場がある階段その1。ただし4階までいくと屋上に出る。
4.通常の学校にあるような間に踊り場がある階段その2。ただし給食室に一番近く、給食運搬の要。
学校外部について
●校舎に入るまでの段差
この学校の校舎は道路から20メートルほど高い位置にあり、校舎に入るまでの方法はだいたい3つあります。
2.正門から階段を通る方法
3.横から入る方法
このなかでは3が一番現実的だと思います。車で学校の横の道(広くはない坂道)から中庭に入る方法です。ただ、中庭は砂利を敷いてあり、溝と段差だらけなのでそこに何か対策をする必要があるでしょう。
1はまず不可能だと思います。20メートルの高さ分の急な階段(途中に踊り場を挟みだいたい60段)を上る必要があり、校舎と体育館の間(幅30メートルはない)にあるので緩やかな坂を作るのも不可能です。
2は正面の階段(石、30段ほど)を登る方法ですが、この階段はぐらつく部分があるので車椅子を持って運ぶのは危険ではないかと思います(作り直すなら別)
●体育
この少女が体育に参加するかは不明ですが、一応書いておきます。ただこの件は車で移動すれば解決するので心配は不要だと思います。
学校前にあるグランドは狭すぎるため(バスケットコートのぐらいの大きさ)、町のグランドを使用しています。グランドは校舎から約700メートルほど離れており、生徒は体育の時間に10分ほどかけてそこまで歩きます。道路の舗装は美しいとは言い難い状態です。またそのグランドに行くまでには少し急な坂道があり、砂利道も通る必要があります。
その他気になる点(不便なのか不明)
●山をえぐるような位置に立っているので、スペースにかなり厳しい制限がある。
廊下にあるのは壁ではなく柵です。雨が降ると濡れて非常に滑ります。廊下は固いゴムのようなものでできてます(なんなのかは不明)彼女の通っていた阿知賀小学校は吹き抜けではありません。
これだけ問題点をあげましたが、私はこのことから彼女が養護学校に行くのが当然だと言う気はありません。かといってどんな犠牲を強いても彼女が下市中学校に行くべきだとも思えません。
下市町は豊かな町ではありません。インフラも十分に整っていない町です(もちろんバリアフリーも)上水道が整備されておらず、井戸や湧水で生活している地域があります(簡易水道ができたと嬉しそうに電話がかかってきたことがありました)道路が1本しかなく、木が倒れただけで学校にも買い物にも行けない地域がたくさんあります。下水道も整備されておらず、生活した後の水が直接川に流れ込み、魚がぷかぷか浮かんでいるのを何度見ました。
どこにお金を使うのか、誰が我慢するのか、とても難しい問題です。
私はどうすることが一番良いのか、結局判断できませんでした。
あんまり関係ないこと。
田舎に川遊びに来る方へ
きちんと調べてから来てください。田舎の川は全部きれいなわけではありません。上にあるとおり生活した水を直接垂れ流しのところもあるので、都会より危険かもしれません。わざわざテントまで持ってきて病気にならないように気を付けてください。
http://anond.hatelabo.jp/20090401200113
ども、↑の元増田です。
僕はイデオローグでも何でもなく、個人の体験談として書いただけで、それがこんなにブクマされるとは思っていませんでした。ただ、これだけブクマされたら少しは補足しないと変なことになりそうなので、昨日までに自己レスで書いた分もふくめてタイトルをつけて書きます。トラバだけだと読んでもらえないようなので。
p_shirokumaさんの指摘ですが、客観的に見て正しい指摘だと思います。ただ、観点が当然違うのでそこを指摘させてください。
これはたしかにそうなんですけど、むしろ、僕にとってはこれは前提で、僕みたいな症状の人は低血糖症を疑ってはどうでしょうか?と言いたかったというのがあります。これは書き方が悪かったかもしれません。
おっしゃる通りです。参考にします。炭水化物を少しずつとっているというのはその通りです。なんで炭水化物を完全に絶つって短絡されるかな。
このポイントは重要だと思います。治験やなんかでエビデンスがない以上、そうであると医者の人は言ってはいけないと思います。僕もエンジニアなのでそれが科学的な態度だと思います。僕の場合、5年前に強烈な鬱病になりました。その時の感覚は、ホワイトノイズにつぶされているようで、腕を上げることもできませんでした。なので、もとのエントリーの最初に書いた症状は、その鬱病が治ったあとの症状です。「20年来のつらさ」なんていうと、メンタルをずっと病んでいたのが治ったみたいですが、そうじゃなくて、体の症状とそれにともなう、ひどいうつ病に比べたらまだましな精神症状が良くなったと言っています。エントリーの最後に「長期のうつ病」と書いてしまったのでそうとられてしまったんだと思います(これは言いすぎです)。そういう意味で食事っていうか、血糖値で気分が変わるというのは、DSM-IVの一般身体疾患による精神疾患に分類するのは正しくて明快ですね。テクニカルにはまったく私も同意します。
ただ問題は、現場の医師がそこまで意識しているかどうかです。私の知っている心療内科の医師でそういう判断をする人はいません。食事で気分が変わるんですがと言ったとしても、単に抗鬱剤や安定剤を出されるだけでしょう。その原因は、低血糖症に対する理解が日本ではほとんどないからだと思います。本当にしつこいですが、糖尿病の人がなる低血糖と低血糖症は別です。http://d.hatena.ne.jp/yachimon/20090403/1238685142にあるような感じで血糖値が食事でおかしくなる現象です。私はここのグラフで上が200以上、下が50くらいで、山は一つです(yachimonさんは山が二つあって気分の動きが相当つらいだろうなと思います)。
トンデモとか疑似科学とか言われてもプラクティカルに効果があればどうでもいいんですが、英語だとDummiesシリーズの本が出ています。
"Hypoglycemia for DUMMIES" Cheryl Chow and James Chow, MD
この本にも、symptonとしてanxietyとDepression/mood swingsがあります。もちろん医学書ではありませんが、アメリカの本屋だったら絶対にあるDummiesシリーズになるくらい一般的なんだろうと思います。
で、病院に行かずに素人の浅知恵なんてコメントをする人もいますが、まず病院には行っているし、この本もふくめ学術的ではないけど相当研究はしました。普通に血液検査をしても標準値内に入ってしまうし、運動(筋トレとランニング)もしているし、いい妻にも恵まれているのに、なんでいつまでも朝は憂鬱で、昼食後はだるくてイライラして不安と焦燥感に駆られるのか、が不思議でしょうがなく、、あとは元のエントリーに書いたとおりです。
もしかして、以下のサイクル自体が信じられないという人も多いのかも知れません。
糖質とる→(糖尿病になりかけているせいで)血糖値上がりすぎる→眠くなり、インスリン出過ぎる→血糖値が急に下がりすぎる→血糖値を上げようとアドレナリンとノルアドレナリンが出る→イライラしたり、不安になったり、無気力になったり
↓
糖質減らす→血糖値上がらない→眠くならず、インスリンもあまり出ない→血糖値下がらない→アドレナリンとノルアドレナリンが出ない→いい気分
毎食後勝手に飢餓状態に置かれてしまうこの現象と解決法を否定されたら意味がないんですが、p_shirokumaさんやfinalventさんの指摘はここではなく、この現象がメンタルヘルスの対象である精神疾患かどうか?ということであるととらえています。
もともと言いたかったことの一つは、もし同じような症状っていうか現象が出ているなら、この食事はそんなに大変じゃないからちょっとためしてみてはどうですか?ということです。一度寝る前に無糖ヨーグルトやSoyJoyを食べてみてそれで朝が楽になるならそれだけでもいいし、昼食を軽めにして卵やチーズや豆の間食をしたら夕方が楽になるならそれでもいいでしょう、ということです。その変化が劇的だったら、医者に行って詳しく見てもらうといいでしょう。ただほとんどの医者は低血糖症を知りませんが。あと、食事の取り方はindividualizeしないといけない、というのは別のhypoglycemiaの本なんかにも書いてありました。確かに腎臓が悪い人がこの食事は良くないでしょうね。
少し覚悟はしていたけど、左右両方に曲解されて極端なコメント(メンヘラがマクロビやったらすべてがうまくいった!のレベルの賛否になっていたりする)をもらうのはちょっと疲れたので、こういうことを増田に書くのはやっぱよくないですね。なのでこれでおしまいにします。
個人的にうれしかったのは、文章がうまいと数名の方に言ってもらえたことです。それだけで十分かも。
なんにしても「お前の思い通りにはさせない」ほど効果的な呪詛の言葉はない。なにしろ、生きている人間にとって思い通りにいかないと感じることはデフォルトなのだから、外れっこない。個人的には、誰かを呪ったり祟ったりできる存在などなく、相手に影響を与えられるなどというのは幻想だと考えている。ただ、掛かってしまう人、祟られてしまう人が一方的に存在しているだけだろうと解釈している。そして、全ての人間がその能力を持っているものだと考えている。存在しない物を存在するように感じ取る能力。そういう能力を介して世間を見れば、この世は、思い通りにいかないのが当たり前だと信じさせる要素に溢れている。「景気が悪い」という世の中の空気、相手の反応から読み取られる感情、理想と現実のギャップをいやでも認識させられる自分の人生、「○○しなければ、うまくいかない」という思い、相対的評価、誰も同じ場所に留まってはいられないという、自分の運命……
自分の場合、他の誰でもない自分自身が「お前の思い通りにはさせない」という言葉で自分を縛ってしまっていた。「○○でなければ、うまくいかない」「ほらみてごらん」「それじゃあ失敗するでしょ」「だからダメなんだよ」手を替え品を替え、いろんな人の口を介して、さまざまなバリエーションで、その呪いはいつでも自分の隙を狙っていた。今でもそれは変わらないし、自分はそれに惑わされずにいられない。けれど、一つだけ気付いたことがある。それは何の報いでもない、誰の思惑でもない、ただ自分が自分にかけていた呪いの言葉なんだと。絶え間なく自分の隙を窺うことができて、いろんな言い方をしているのに的確にこっちの意志を削ぐような意図を伝えられる奴。全く接点の見られない多くの人を介しているのに、どうして全ての言葉が自分に届けられるのか。考えてみれば簡単なことで、そんなことができるやつは自分自身の他にいなかった。
その呪詛から逃れる術を見いだすことができたのは、単に幸運だったからだと思う。「○○すれば、うまくいく」「こうしてみたら、思い通りに動くかもしれない」そう言い続けてくれる人を周りにたくさん持つことができた。そして、もう一つ。自分もまた、そのように言葉をかけ続ける必要のある相手に出会ってしまった。自分と同じように「思い通りにはいかない」という言葉に縛られて身動きがとれなくなってしまっている人に。躊躇っている間もなく、「思い通りにする」と伝え続けなければならないし、自分が態度で示してみるしかないと感じた。そうして初めて、自分の口から「大丈夫、なんとかする」と気持ちを籠めて吐き出すことができた。
「お前の思い通りにはさせない」などと言ってしまうのは、発言者こそが自分にその呪いをかけていて、それが他人に通用しないことに脅えている証であって、だからこそ物理的な接触で言葉の力を具現化させようと手を出さずにはいられない。その恐怖は本能的な防衛本能を通じて、相手が呪詛をはじく力(多分それは論理的に考える力)を封じ込めてしまう。でも、その呪詛から自分を解き放つ能力を持ち合わせていなければ、そもそも言葉に縛られる能力が発揮されることはないのだから、他人の言葉に捕われてしまうこともない。ということは、言葉に縛られてしまった人は、自らの言葉で解き放つことができるということ。誰かに「お前の思い通りにはさせない」という言葉を投げかけられて縛られてしまったときは、同じ数だけ、いやそれ以上の数だけ「大丈夫、それでも何とかなる」と吐き出すことで、きっとその呪詛は解けてしまう。最初は口に出さなくても自分の脳に届くように、確かに自分の意思でそう発言したと実感させられれば効果は発揮されるに違いない。もともと言葉は誰かに情報を伝える為の道具でしかないはず。誰にも他人を縛る力などなくて、縛られていると思い込ませるところに言霊の力はある。
報いなんてあってもなくても、ベストを尽くす以上にやるべきことなどみつからない。ただ、どれだけ尽くしてもその先にまだまだできることが残ってしまう。だから、本当にベストを尽くすためには、タイムリミットの設定が必要不可欠。限られた時間の中でそれをやりきる為に知恵を絞って、切り捨てる部分をとことん切り捨てて、なにかしら形に仕上げてしまうことを「ベストを尽くす」と言うのだと思う。
他人の苦しみが理解できるほど自分は利口ではないし、アドバイスできるほどの知恵や教養もないし、人に語れるほどの苦しみをくぐり抜けてきた訳でもないので、コメントするのもためらわれたけれど、自分は自分の体験から考えたことを、ただここに記しておきたかった。自分で読み返しても支離滅裂な自分の言葉に、満足はしていないけれど、ベストは尽くした。これで誰かが救われるなどという傲慢な期待を抱いてはいないけれど、自分の力になる言葉がこの世にもっと溢れていて欲しいと願っている自分にとって必要だから、どんなに拙くても言葉にして人目に晒しておくことにした。そうしておくと、思いがけない場面で自分の言葉に励まされることがある。誰かの反応が力になることもある。自分の思いを誰かに届けるというアウトプットの効果は、今の自分を守るだけでなくて、未来の自分を守ることにも作用する。舌足らずで誰かを不愉快にするかもしれない。そのときには精一杯反省する。けど後悔はしない。
勇者がアリーナにバカにされる→ミネア・マーニャの入れ知恵で夜這い→結合→ぢつはモシャスを自分にかけたクリフトでした(結合中)→勇者は心に傷を負った!
http://anond.hatelabo.jp/20090327142217
横増田だけど、意味が取れてるのに、わざわざ「表現の仕方」に文句垂れてるのが、変。
普通は意味がわかるのなら、どんな言い方されようが相手のやり方に文句は言わない。
http://anond.hatelabo.jp/20090326120258
隠し球とか、捕球時のミット動かしのような誰が見てもわかるような、
ずるい行為だけじゃないですよ。
捕手は体の近くで捕球してミットを審判から見えないようにしたりとか、
(そもそもセカンドにランナーがいるときは捕手のサインは変わる)
観客からは見えないところで、情報戦が行われているわけですよ。
団体競技は基本的にそうでしょう?
力と力のぶつかり合いといった目に見える要素以外の
情報戦のような戦いがあるんですよ。
野球の場合は、一球一球ごとに状況がぶつ切りになるし、
確率論に支配される場面が多いので、
他の競技に比べて、情報が有効に使えるだけであって、
情報戦が必要なのは
その意味では、高校野球は、ブラックなところがたくさんあるけど、
で、高校野球の話ついでで、なんだけど、
今の野球界で問題になっているのは、
野球は平気で土日を丸々潰す。
確かにトップレベルの子は、どの競技でも長時間の練習をしているけど、
野球に関して言えば、一通りの練習をしようと思ったら、
一日潰れることになる。
拘束時間のわりに暇な競技なのだ。
テレビ視聴でも避けられてきているし、
親がこれを忌避する傾向がある。
競技人口が少なくなっているのは、
拘束時間の影響が大きいと私は考えている。
http://anond.hatelabo.jp/20090324202037
元増田。あのね、下戸だって、「乾杯が迅速に出来る」なんて、そんなに長々書かなくても百も承知なんだよ。だから、本当に急いでいる時は、自分でビールをついで済ませることもある。でも、次のような問題を何度も何度も経験したから、わざわざ最初からソフトドリンク頼んでるの。
で、思うんだ。注ぐの断ったら、注ぐ側も、こっちも気まずいじゃない。だからといって、2時間、乾杯用のビールだけで過ごしている人がいると、盛り上がらないし、幹事さんにも心配かけたり困らせたりしちゃう。だから、長期的に見て最適な策として、「最初の乾杯のビール」を断っているの。別に、わがままなわけじゃないんですよ。
ちょうど新歓の時期だけど、実は、新歓は、下戸が絶対に「最初の乾杯のビール」を断りたい代表例なんだよ。新歓で周りの人に、「この人は酒が飲める人だ」って誤解を与えてしまうと、その後の飲み会が全部辛く、気まずくなる。大学で、何度も経験した。だから、俺は、新歓では必ず「最初の乾杯のビール」を断るようにしている。
逆に、こういう問題が心配なさそうなときは、臨機応変に空気読んで断らないよ、「最初の乾杯のビール」。例えば、大人数が関わっているプロジェクトのほんの一部を自分が担当していて、そのプロジェクトが完成したときの祝賀会だけど、飲み会参加者の大半が初対面なときとか。プロジェクトが終わったら、大部分の人は、もう会わないわけだから、別に、自分が下戸だって覚えてもらっても仕方がない。色々な人がいるから、自分でビール注いでも許される。こういうとき、「最初の乾杯のビール」だったら、自分が気持ち悪くもならずビールが飲める許容量、コップ1/3ぐらいだけビールを注いで、乾杯を済ませて、すぐにソフトドリンクに切り替える。
そのぐらいの知恵はあるよ。下戸だって、ちゃんと空気読んで「最初の乾杯のビール」を断っている。下戸が「最初の乾杯のビール」を断っているときは、「この人たちと長く付き合っていきたいです」という意思表示だと思ってください。
最近の若い者はなっとらん、けしからんとはよく年長者が言う。いつの時代も言う。古代エジプトの時代でもそう記されているほどである。
いつの時代も言われ続けることは大切な真理や知恵を含んでいる。
従って、若者はいつの時代もけしからん。
―
最近の若い者はなっとらん、けしからんとはよく年長者が言う。いつの時代も言う。古代エジプトの時代でもそう記されているほどである。この事実をもって「いつの時代も言われることだからたいした意味はない」と結論するのは一つの解釈に過ぎない。「いつの時代も言われることだから真実を含有している」と考えることも可能だ。その場合、人類は有史以来堕落し続けている。
だがそう考えるのも極端すぎるので、結論としては、「いつの時代もジェネレーションギャップが存在する」と言う当たり前ことになるだろう。
いやもうその通りなんだよ。
もちろん私立だってなんかあるところではあるだろうけど、発生率が段違いっていうかさ。もちろんゼロではないわけだけど。
単純なリスク回避の問題としての私立というのは選択肢として充分にあり得るわけだ。
ところがメディアレベルではこのことはタブーなんだ。(唯一サバンナの八木だけがこのタブーを犯せる)
つまり成績や、もっといえば職業との粗暴度や犯罪発生率の相関関係が明らかになってしまう。
ここに差別性が生まれる余地があるから。(だって犯罪発生率の高い要素を満たしている人間が善良な人間であるケースは山ほどあるからね。犯罪発生率80%の分類グループがあったとして、そいつらを100%犯罪者扱いすることは残り20%には濡れ衣なわけだ)
だからと言って相関関係がないかと言うと、それはもう確実にあるわけで、だったらリスクの少ない方を選ぶのが生きるコツなわけで。
生きる知恵として大いにアリだと思う。
ついでに、昔BUBKAかGONか実話ナックルズか忘れたけどその辺の雑誌が、「職業別犯罪発生率ベスト20みたいの」を調べて掲載しようとしたらストップがかかったらしい。
マルチの話題がはやってたので。
当選商法というやつで、突然「当選しました!」という葉書が送りつけられてくるやつで(郵送じゃなくてポスティング)、葉書を持って事務所に行くと一万円分の商品がもらえると書いてある。
それでノコノコ行ってしまった。
事務所では太った若いねーちゃんが応対して、「海外旅行に格安でいける会員権」の説明を始めた。この会員権で親を旅行につれてったら喜びますよ、とか、会員同士で友達が増えますよ、とか長々と言われた。一万円分の商品は新規会員になるともらえるらしい。
長時間拘束で疲れ果てた頃に、「ところで海外旅行といえば英会話が必須ですよねー」と話題を持ち出し、英語教材を買わせようと説明を始めた。どうやら会員権自体は無料だが英語教材が50万円するとのこと。これを買わなきゃ会員にもなれない。
さすがに怪しさ満点だったので、もちろんいらないと突っぱねた。すると上司の男がやってきて、また同じ説明を始めた。「なぜ?いらないというんです?」と聞いてきたので「お金がない」と答えた。ここで「怪しいから」とか「あんた悪徳だろ」とか言えてればよかったが、対面で直接そんなこと言える度胸もなかった。月々1万ちょいのローンも簡単に組めるとか言ってきた。一日缶コーヒー一本我慢するだけで素敵な会員権が手に入るとかも。
「お金がない」で突っぱねてると、上司の男が「じゃあ、毎月のローンで、もし払えない月があったら私に電話してください。私が払いますから」と言ってきた。
学生のうちはお金がなくて当たり前だ。そんなときは上司の男が足りない分を俺の口座に振り込んでくれるとのこと。
ここで俺の足りない頭にささやかな悪知恵が浮かんでしまった。(それなら、全額上司の男に払わせよう)
で契約してしまった。友達を紹介してくれれば紹介料もらえます、と言われた。そんなことするか。
後日俺のアパートに、英語教材と一万円分の商品が送られてきた。しばらく冷静になって考えると、ほんとに全額上司の男に払わせることができるのか、と不安になった。不安に襲われると「そのときはそのときだ」と開き直った。この繰り返し。
最初のローンの支払いの日。
上司の男に金を催促する電話をかけた。「いくら足りませんか?」と聞いてきたので「全額の一万数千円です」と答えた。上司の男は一瞬絶句してたが、わかりました、といって電話を切った。口座を見たら、ほんとに振り込まれてた。「このまま振り込ませ続けよう」と「これからずっと振り込んでくれるかなぁ」で気持ちがぶれるの繰り返し。
学校の友人に酒の席で、この話をしてしまった。上司の男に払わせようとしてるのをぼかして「悪徳商法と契約した」ということで駄目なとこ自慢というか、黒歴史=武勇伝みたいな。「お前馬鹿だなぁwww」と笑って盛り上がるかなぁ、と思ったら、「すぐに消費者センター行って解約しろ!」と凄い剣幕で怒られた。
消費者センター行きは、ちょっと抵抗があった。純粋な被害者ならいいが、ずる賢い計画を立てて半ば悪徳と認識して契約してしまったからだ。
いざ、行ってみたら、思いのほかスムーズに話がすすみ、契約後一ヶ月以上経ってたにもかかわらず、直接被害金は0円のせいか、すぐに解約できた。消費者センターすげー
それは純粋な(数学で言う定義のように明白な)基礎知識ばかり.
それらは物事を考える為に必要なもの(のはず)だった.
次第に何かに対しての他人の考え方にも興味を持つ.
それを聞いて自分が「なるほど」と思った考えを
知識を頭に入れるのと同様の感覚で頭に入れてしまう.
それも覚えるばかりで,自分で考える力も無く,癖になっている.
今,何かが起きたとしてそれに対する自分の考えが沸くのだけれど
本当に自分の考えなのか?自分は何故そう考えるのか?思うのか?
この人はこう考えるけれど,何故そう考えるのか?思うのか?
と問いを立ててみても答えが出ない.自分が生きている間に
見たり聞いたり経験して印象に残ったことを基にしている?
自分は確かにそう考えるのに何故そう考えるのか分からないと
所詮,頭の中知識・知恵なんて何かの寄せ集めなのか…
自分が一体,何を知っているというのだろう.
本を読んで外から取り入れたものだから「そういう考え方」
という知識でしかなく,自分の考えではないのだろうか.
多分、元増田の陥ってるのって、横増田の指摘してる部分と似て非なる方向だと思うんだ。
知恵とかデッサン力とかくそくらえだよww 好きなもの自由にかければいいじゃんw
↓
その好きなものを自分が望んでいるように書けないということに気づく
↓
やっぱりデッサン力が必要
横増田は
って言ってるけど、それはパラドックスなんだよ。
横増田だって、「好きな物だけを書きたい」というスタートがなければ
「好きな物を書くにはデッサン力」という発想にはそもそも「たどり着かなかった」はずだよね?
それは、けして回り道なんかじゃなくて、必要な道程だったと思うんだけど、違うだろうか。
俺は前提から躓いてる!」って言ってるわけだ。
だから、基礎が大切、じゃなくって、
横増田の「くそくらえだよww 好きなもの自由にかければいいじゃんw」に戻れば
おのずと「必要な物」が見えてきて、「必要な習得の仕方」が分かるんじゃないのかな?
知識も道具も、あまりにも「手段」が多すぎて、本当は自由なはずなのに、
そこで躓いてたらそりゃ面白くもないはずだ。イライラすると思う。
横増田だって、手段が少ない時は少ないなりに、その中で「好きな物」を達成する方法を考えたんじゃないのかな。
その答えが「デッサン力」だっただけで、例えばデコパージュって手法だってあるはずだよね?
前に書いたように赤の○をりんごに見せるテクニックだってあるはずだ。
試行錯誤もせず、最初からコケなきゃいけない物なのか
あるいは、そこでコケている必要なんて、そもそもないのか。
元増田から「何故やらなきゃいけないのか」ってレスが返らない限り、なんとも言えないけど。
まずは、ナンボでもやり方はあるんじゃないかと。
馴れとは言っても、言語の得手不得手だってあるしね。(「書ける」事と、「気分良く書ける」のは雲泥の差だ)
すごく描きやすい「道具」も「手法」も「手段」も、人それぞれだと思うんだ。
多分、プログラミングも、絵も、
もっともっと自由な物だ。
絵の話を描いた増田だよ。
いいたいことはわかる、俺も考えは同じ。ただちょっと自分の日本語が下手で伝わってないかも。
俺はプログラミングも絵もどっちも仕事でやった事あるからそう思うんだけど、やっぱり、デッサン力がある程度ついてないと、表現したいものがあるのにかけないという壁にあたるんだ。
何をどう表現するかが自由なのは絵もプログラミングも同じだよ。
絵をやりはじめたときも、プログラミングやり始めた時も、ごくごく最初は「先人の知恵とかデッサン力とかくそくらえだよww 好きなもの自由にかければいいじゃんw」って時期あった。ありがちなのが好きなものだけをかくことが近道だと思い込んでしまうこと。でもそれだとすぐ、その好きなものを自分が望んでいるように書けないということに気づくんだ。望んでいるように書けないから全然自由じゃないわけよ。
で、本当に自由にやりたいことを表現したいと思ったらやっぱりデッサン力が必要だと感じてる。デッサン力があれば、”何を表現したいか、何を作りたいか”を考えるのに使える時間が増やせるし。地味な努力が結果的に創造的なものを作る時間を増やしてくれる。
思うように書けないから、書けるものだけを好きに書くというのと、書ける実力があるから、思うように自由に書くのとの違いかな。
デッサン力=アルゴリズムに落とし込む力とすれば、プログラミングでも絵でも全く同じだと思うなあ。わかりにくかったらすまんこ。
# ある程度熟達しちゃってる人は
# 今の感覚があたりまえになっていて
# デッサン力が無かった頃どんなだったかを思い出せないだけなのかもしれない