はてなキーワード: 偽善とは
先月末に放送された、某局の毎年恒例日がな一日テレビが遠回しに言って嫌いである。
面白くないとかマラソン意味ねえとか偽善的だとか、そういった理由はよく挙げられるが、
友人との会話の中で「なぜ嫌いか」の答えにたどり着いた。
先日の放送では、遺伝的要因による皮膚の疾患をもつ子どもたちが取り上げられていて、
当人や家族の苦しみとそれに負けずに明るく生きる子どもの姿が多くの反響を呼んだようだ。
内側で外側で奮闘している人がいることも、
いわゆるテレビの力で弱者救済に一定の成果をあげることも頭では分っていたのだ。
だが映像を見て、彼らの素顔をみて、チャンネル変えようかと思うくらい衝撃を受けた。
彼らを「きもちわるい」と感じるのは許されないと思っているし、
ましてや口に出す人が居たらそいつの良識を疑い「最低」「不謹慎」タグで固定するだろう。
だが実際自分は内心おおいに衝撃を受け、恐怖を感じ、
彼らに寄り添い共に歩む気にはとてもなれなかった。
自分が小学生の時、11歳にもなる同級生たちが図書館にあった被爆者の写真集を見ながら
爆笑していたのを目撃した。
どこが面白いのか訊くと表情だという答えが返ってきたが、
同意できず、その輪には入らなかった。
高校に入学すると、
他校出身の同級生たちが「しんしょ」という単語を
どちらの場面も彼らにとって、何の気なしの悪意なき言動だったかも知れない。
だが自分の中での彼らの評価は大いに下がり、心底嫌悪した。
だからこの番組を見てると
「結局お前は障害者きめぇとふれまわる奴らと同レベルの最低人間だ」、
そう言われた気にさせられる。
過去の同級生たちのように
表出させないだけ余計に姑息で陰湿で偽善なんじゃないかとさえ感じてしまう。
似たような方向性で、毎年毎年
「どこか恵まれない人が周囲の協力と愛情の中で懸命に生きる」を繰り返す。
その度自分への「最低」タグ固定を強いられる。
自分を嫌いにさせられる。
自分内評価の下落を強いる番組なんぞ好きになれるものか。
それが答えだ。
じゃあ見なきゃいいだろ糞がと言われるだろうけど。
ここで愛がどーのとか言ってる奴、どんだけ偽善者なの?
奇麗事にも程があるよ。
私は本気で好きな相手だったらもちろん別れないけど、
そんなに重い気持ちなく付き合った相手だったら、別れるね。
お前のせいで、ばあちゃん泣くほど喜んでたじゃねぇか!
お前だって疲れてるだろうに無理しやがって。
今度は俺が持ってやるからな、オボエテロ!
「かわいそうに…」という言葉が、気にかかる。というか、端的に言えば腹が立つ。
怒りを表明したいけれど、世間的にはどちらかといえば「良い言葉」扱いのため、怒りを表明したらこっちが変人扱いである。
どうしてかわいそうにと言われると、腹が立つのか、と考えてみるに、おそらく哀れまれるのが嫌いなのだろう。
同情するなら金をくれ、って言葉が昔あったけど、ああいう感覚が近いかもしれない。
小さい頃、何かあるとすぐ風邪をひく体質だったんだけど、「かわいそうにねぇ。そんな身体で」的に、オバサンとかオジサンとか同級生に言われるのが凄くいやだった。なんていうか、認めたくなかったのかもしれない。他人より不利だってことを。でも薄々それは自分で気がついていて、だからこそ、体に気を使ったり体力つけたりして「なんてことないよ。このくらい」って感じで、頑張っていたのに、それをあっさり「かわいそうに」って言われて壊されるのが物凄く嫌だった。なんというか、努力して他人よりも不利ってことを忘れようとしているのに、あっさりそれを無神経に思い出させる、というか、そう決め付けられる、という残酷さに腹が立った、というか。しかも本人たちは、「かわいそうって言ってあげてる自分は優しい」とか思っていたりするから、余計に腹が立った。どこが優しいの?こっちが嫌がってるのわかんないの?優しいどころか残酷だよって。まあそんなこと分かるわけないんだけど、当時は子供だった。
かわいそう、なんて哀れむ暇があるなら、無言で助けてくれた方がよっぽどよかった。まさしく同情するなら金をくれ、って感じだった。いっちゃなんだけど、他人からかわいそうって言われたところで、私には何のタシにもならない。そんなこと上から目線で呟いてる暇があるなら、鼻水でそうだからティッシュかってきてよ、とか思ってた。「かわいそうに」「そうなんです私かわいそうなんです」「ほんとよねぇかわいそうよねぇ」って言い合って、一体何が変わるというのか?本当にかわいそうだと思うなら手助けしてくれよ。そこまでする気がないなら、黙っていて欲しかった。かわいそう、なんて言葉はクソ拭くティッシュにすらなりはしない。偽善者だ、とずっと思ってた。かわいそうって言うことで、「哀れな者に同情してあげる優しい自分」に酔っているだけじゃないの?って。だってかわいそうって言う事によって得られるものって他に何があるのか。かわいそうって同情してあげたからってこっちの病状はよくなりはしないよ。かわいそう、って言うことは、「あなたは私よりも哀れな位置にいる」って定義付けられた、ってこと。大袈裟だよっていうかもしれないけどそういうこと。それを気付いていない人が多すぎる。ただでさえ病気のときに、「あなたは私より下」って定義付けられて、一体この大人たちはなにがしたいのか、本当に疑問だった。ケンカ売ってるの、って思ってた。
かわいそう、って言う言葉は、結局自己満足で、相手の事なんかこれっぽっちも思いやってる言葉じゃない。
寧ろそれを自覚して、厭味ったらしく言う奴の方がいい。
問題はそれを自覚せずに、相手の事なんか考えてもいないのに「相手のためになってる」と思い込んでその言葉に自己陶酔してるやつ。そういう奴は、だから、「そんな事言わないで」と相手が言うと、途端に「かわいそうって言ってあげてるのに、何なの」って反応を示す。それは「かわいそうな相手にかわいそうと言ってあげる優しい自分」像が、相手に酔って壊されたからだ。相手の事を思いやった上でのかわいそう、だったら、そこで相手がそんな言葉は欲していない、寧ろ嫌がってることに気がつき謝るだろう。(それ以前にかわいそうなんていわないだろうけど)
他人の、「かわいそうな私像」のために、ダシにされたんじゃたまらないよ。
私の体質は、あなたの自分像を支えるための柱じゃないよ。
ずっとそう思っていた。
ま、今思うと風邪になりやすいってくらいで大袈裟なんだけどさ。
でもああいった体験があって、「かわいそう」はとても優しい言葉なんかじゃないと思うようになった。今でも。
でも、かわいそう、を実際欲しがってる人もいるらしいことも、成長してから知った。
私はかわいそうなんて言われたり同情されたり共感されたりしたところで、だから何が進むわけでもないじゃないか、としか思っていなかったけど、かわいそうだね、かわいそうに、って言われることで、何故か、「そうなんだ。自分かわいそうなんだ」って心が軽くなるって人も、どうやらいるらしい。
今思うと、あの人たちも、そういう人ばかりに会ってきた、また、本人自身が「かわいそうに」と言われて嬉しい人たちだったんだろうな。
タイプが違ったのだ。
かわいそうにと言われて嬉しい人たちには、かわいそうと言われて苦しいひとたちの気持ちは分からない。
こっちだって、嬉しい人の気持ちは分からないから、当たり前の事だ。
けど、気持ちは理解できなくても、「そういうタイプがいる」ってことは、各々心に留めておいたほうがいいんじゃないか。
特に「かわいそうと言われて嬉しい」タイプには是非ともお願いしたいところだ。
こういう人たちはほんとうにこっち側の苦しみが理解できないようで、こういうことを言っても、「そんなのそっちが大袈裟に騒いでるだけだ」とか「かわいそうって言ってあげてるのにその言い草は何なんだ、偉そうに」って、そういうことを本当に素で言ってしまったりする。前は腹が立っていたけれど、今はそういうタイプの人、かわいそうって言い合うことが、嬉しいことで、コミュニケーションになっている人たちなんだなと思って割り切っている。割り切れない時も、あるけど。
それにしてももしかしたら日本人には、「かわいそうにと言われて嬉しいひとたち」の割合の方が大きいのだろうか。
だからこそ、テトリスが発想段階ではガス室ゲームだったらどうなるのか、というグレーゾーンの話をしている。それは抽象度が高いのか否か。結局それは主観じゃないのか。
あと、「規制」と書いたのは「公権力による規制」という意味ではない。自主規制あたりを想定していたつもりだ。
行為自体が実際に耐え切れないほど残酷だから携わった人の中にPTSDを患う人まで出るんだろ。何言ってんだ。そんな理屈で切り離せるようならだれも苦しまんわ。甘っちょろい。
だったら、救護なんかせずに見殺しにしようか。そうすれば「耐えきれないほど」の残酷さを味わう人間は誰も出なくて済むぞ。
そういうことだ。甘っちょろいのはお前らだ。
いい加減にしろ。
残酷な現実を見なかったことにして、それで安心したいなんて駝鳥の平和をどれだけ貪ってるんだ。
その幻想の安寧が乱されたからって、たとえ話一つでこれだけ人を追いつめられるお前らの方がどうかしてるよ。
たとえ話を無神経無神経というのなら、ホロコーストなんかを安易に例として持ち出すお前らは何なのだ。
この偽善者どもが。
だめだったか。じゃあ逆に、悪いと思うところを書き出してみる?
散々悩みながら書いてるうちに「いやいや、こんなトコもあるんだし」とか「いつもはこんなじゃない…ハズ」とか
だんだんイイところがチビチビ出て来たりして (^^)
書きだそうと思った時点で、ある意味増田はポジティブになってんだゼ?
「自分のイイとこ」探しなんて自分にさえ気恥ずかしくってそうそう出来るもんじゃない。
「自分の悪いとこ」探しなんてもっとやりたくない。
でも、<書き出す>という行動自体に大きい意味がある。
>「ここを自分のいいところだとか思ってるのは調子に乗りすぎだ」
>「これで迷惑してる人もいるだろうからいいところって言うのはやめよう」
そう思うのは誰に対してだ?自分にか?まわりにか?
遠慮か?偽善か?
調子に乗りすぎって誰かに言われたのか?迷惑してるってそう言われたのか?
思っては消し、考えては変え… だんだん頭の中が変になりそうになる…
凹んでるから悩み落ち込む。まともに考えられなくなる、判断できなくなる…(ここで俺は大概寝る)
脳みそも心もオーバーヒートしてきてるからな。頭の中だけグルグルまわってる。
だから外に出してやるんだ、紙に書いて(^^)b
明記しといただろ?誰にも見せない、自分しか見ないって。
自分しか見ないんだから、少々威張ったって調子に乗ったって、はた迷惑だっていいじゃないか!!!
いつもは抑えたり我慢したりしてるんだから、たまには紙に書くくらい許してやれと。な?
「書き出そう」と思った時は1つでもいいから書くんだ。ここが大切。少しでもいいんだ。
たくさん書けたら凄いぞ?悩んでないで動くんだ。時間の無駄だ。
イイも悪いも1つも書けなかったら、それはおまえが悪い。
自分自身になのか、周りに対してなのか判らないが
自分の思いさえも素直に認めず、言い訳や伏線を引いたりして逃げてるんだ。
逃げるのをやめろ。先ずはそこからだ。
理系女子とかサバサバ女とかって、大抵寧ろ女っぽいよねー
っちゅー話は結構よく出る。男でも、女でも。
その事に異論があるわけではないんだけど、ちょっと、なんつーか、違和感を感じるのは、
「てか私理系だからーとか、サバサバだからーとかいう女に限って、女の嫌な部分でまくりじゃんねw」
「サバサバとかどこがだよ、まるっきりおまえメスじゃんって女結構いてめんどくせーw」
とかいう言い方ね。
なんというんですかね、うまくいえないんですけど……
「寧ろ、女っぽいよね」というのが、単なる事実指摘ではなく、貶し言葉になってるのが、気になるのですよ。
「女らしくないからっていってるけどそんなことないよ」という単なる指摘ならまだ分かる。しかし、世に溢れる「理系女子とかサバサバ女ってむしろ女っぽいよね」という視点は、そっちでなく、
「女らしくないからっていってるけど、お前全然メス臭だしてっからw勘違いすんなw」的視線なんよね。
それを、男も女もやっているというのが気になる。
結局、身も蓋も無いいいかたをするとさ、そうした男女の中では、「男>>>>女」であって、男は「私女っぽくないよ」といって男ワールドに上ってきた女を、チェックして、女っぽいと思うところがあったら「お前女っぽいとこあるじゃんかwそれじゃまだまだだな」的な感じで追放し、女は、「何一人ぬけがけして、レベル高い世界へ入れてもらおうとしてるの?あんただって私たちと同じ所詮女なんだから、一人だけ生意気いってんじゃないわよ」的視線を投げかけてるんよねー。
そもそも、「私サバサバだから☆」と「男らしい」要素を宣言することが、アピールになると考えいている女子がいる(あるいはそう見なされている)という時点で、男>>>女という価値観がもとになってるんよね。
そもそもこうした場で言われがちな「女は陰湿で、感情的で」とか「男はソレに比べてさっぱりとしたよい友情を結ぶし、論理的なすばらしい民族だよ!」とかいう価値観自体が、うちのじいちゃん家の2階の30年開かないままのものおき並に、古臭くてカビ臭いんすけど、まあそーいうのはよく言われるかんな。
悲しいのはさー、それを男が言うのはある意味「えー、右手に見えますのは、ガチンコホモソーシャルの男衆でございまーす」とかいう話なんですがね、女も内面化しちゃってるってのが、悲しいね!言い分が悲しすぎるよ!「何アンタだけ男ワールドに入ろうとしてんの?あんたもしょせん私らと同じ女じゃんw」的視線さ……何、その、自虐ぅ!バカッ!バカッ!ちょっと、こっちきなさい。もっと自分を大事に尊重しなさい!ちょっとこら聞いてるの?ケータイばっかさわってもう!ていうかよくその爪でおぬしらケータイ触れるな。その技術力すげえよ。という話なわけよ!
女はねちっこいから!ってよくいわれるけど、その真偽もどうよって感じだけど、さらにさ、「ねちっこいのは悪か?!」というレベルにまで遡りたい。ええやんけ。ワシは女性のねちっこさ、好きやで。2ch同人板の厭味の応酬が好きやで。彼女らの厭味技術はすごいでえ。
「女の子になりたい」という男性はさ、逆に、割りと歓迎されがちなわけよ。なんだっけ?学校へいこうとか?その辺の番組でも、女装男子高校生とかやるわけだけど、女性の反応は、「えーっ。あ、でも、全然わかんない。かわいいですねぇ!」なんよね。超好意的。よくよくみるとやっぱ足が筋っぽすぎるわ、とか、いくらでも文句のつけようあんのに、「かわいいですね!」の褒め一辺倒。女装でさえそれヨ!誰も、「いや、勘違いしないでくれる?wあんたらいくらそうやって女になろうとしても、所詮オスだからwオス臭しすぎだからw」とか言わん。
それも結局、「男>>>女」認識があるからなんよねー。上の人が、下界に下りてくるのは全く問題ないわけですよー。寧ろ褒められちゃうかんね!
であるからして、「私サバサバしてるんでー」とかいう子が実際女っぽい人が多いってのは割りと同意しちゃうんだけどね、でもそれは貶す意味でなく、たんにそういうタイプやんね、という意味でいいたいしそう伝わって欲しいわけっすわー
でも「サバサバしてるんで」って男要素つけることによって自分を固めたがる女性は寧ろ差別の内面化の被害者や、畜生ッここにも……おい!後ろは大丈夫か!何人生きている!隊長、もうだめです!奴らここまで……くっ……まだだ……まだ俺たちだけでも戦ってみせる!的な感じに、失礼ながら同情をしてしまうので、寧ろ「うん……チミはとってもサバサバ子だと、ワシは思うよ!ああ、実に男らしいさ、ああ実に……」と言ってあげてしまう。無駄なリップサービス。20分500円から!
でもそういう意図がなくただたんに「いやほんとただ普通にワシ、理系女ですんで、そこんとこ四露死苦」な子も無論いっぱいおっぱいいるんよね。そういう子にもなぜか「○○ちゃんはいつも論理的で理路整然とした考え方をしてるよねーウラヤマー」とか言ってしまうのである。多分でもこういう子からしたら余計なお世話なんだけど、もう自動的にそういうリップサービス機能がワイの唇に備わってもーた。なんか女も男も(正確には一部の)女見下してるから、私だけでも女を大事にしてやりてぇんだYO、って感覚なのかもね。偽善者だよまったく、ファッキン!
ただの人間には興味ありません!自己承認がうまくできない人間、女の子として見られることに抵抗がある人間、女の子らしさに疑問を感じる人間がいたら私のところに来なさい!以上!おりゃー何もできねーけどよォー、お前らまるごと承認してやることは出来る!ひねくれた女全員来いや!感情的でバカで非論理的で嫉妬深くてねちっこくて陰湿な女子というレッテルは私が全て引き受ける!行け!今のうちに!いけ、いくんだっ!
「で、でもっ、そうしたら貴女が……!」
へへ……そういうことさ……さあいくんだ!ワシに構わずいけぇーっ!!
「は、はてな子ーッ!」
あーいいわーこういうシチュエーション。こういうのを、偽善者オナニーと名付けよう!一日一回偽善オナニーへご協力おねがいしまーす!
そういっている人の大半が自助努力でどうにでもなるにもかかわらず
努力しないから見放されているということに気がついていない。
もちろん、民生委員の恣意的選出によって生活保護がうけらればく餓死する人など
本当にヤバイ人たちはいる。そういう人たちを救えるように行政はより対策を
絶望したというならば、己の努力のしなさを絶望しろと言いたい。
どこまで飼いならされて生きればいいのか?
フェアトレードが偽善かと言えば偽善だろうが、その偽善によって救われる現地の人は
これにより(自分が今までしてきた努力が)報われるのだ。
なにもせず、口を空けているだけの人と一緒にするのはどうかと思う。
およそ祝い事と言うものは実感が湧かないことが多く、特に誕生日なんて物はその最たる例で、戸籍上の年齢が増えたからといって自分の何かが変わったわけでもなく、生まれた日だからという理由で祝う理由がよく分からない。
まぁ今日は俺の誕生日なわけです。ありきたりな誕生日で、そもそも友達からのお祝いメールが来るまで今日が誕生日だって事を忘れてた位で、あぁそういえば・・・みたいな感じ。毎年意外な程多くの友達からお祝いメールが来て、それに対して「形式的偽善行為おつ」とかしか思えないのは人間として最低だと思うけど、それしか感じなかったんだからしょうがない。
今日は21時くらいまで仕事してたんだけど、19時くらいにその内の一人が「おめでとう。今日は何やってんの?デート?」と聞いてきたから「仕事だよ??」と返したら、「誕生日くらい早く仕事終わらして遊びなよ??」みたいに返ってきた。意味が分からなかった。誕生日なんて何の実感も持てない形式的なイベントが、特別な行動を取る理由になるもんか。誕生日に一人だからと言ってセンチメンタルになるなんてスイーツ(笑)。
で21時ごろ仕事が終わって帰るわけです。帰りの電車の中で音楽を聴こうと思って適当にケツメイシのケツノポリス4を選んで聞こうとした。でもだ、一曲目のドライブがかかり始めた瞬間、体のありとあらゆる細胞が拒否反応を示したわけだ。まさに全俺が拒否したわけ。鬼の勢いで曲を止めた。
最初理由はよく分からなかった。で、iPodのホイールを回しながら曲を探して行き着いたのがサザンオールスターズですよ。海のYeah!!ですよ。電車の中で真夏の果実を聞いてしっぽりしちゃったわけですよ。
しっぽりしながら、あぁ、少しセンチメンタルになっているなと気づいた。誕生日に21時まで仕事して、予定もなく一人でいる事にセンチメンタルになっている。あぁ俺にもそういう感情があったのかと、寂しい反面、少しホッとしたりもした。
他の人もきっとこうなのか。一人でいることが寂しかったりするっていうのはこういう事なのか。偽善行為おつとか言ってごめん。
これからはもう少し真面目に人の誕生日を祝おうと思う。祝ってもらったらもう少し喜ぼうと思う。
つまり何が言いたいのかと言うと、残り30分の俺の誕生日を全力で祝ってくれ。
絶望、破壊、混沌、無情、苦労、困惑、羞恥心、幻覚、妄想、現実、自殺、落胆、失望、病気、憂鬱、疲労困憊、喧々囂々、存在価値、否定、殺人、迷惑、幻聴、死ね、これはひどい、邪魔、消えろ、失せろ、怨念、暴動、破壊衝動、自閉症、トリップ、羨望、願望、格差、負け組、クーデター、爆撃、放火、陳腐、強姦、切断、リストカット、出血多量、無惨、残酷、酷使、鬱病、メンヘラ、苦痛、罵倒、はてなブックマーク、誹謗中傷、破滅、ブログ、炎上、嫌儲、一般論、常識、空気を読め、誤解、曲解、自滅、虐待、虐殺、差別、幻想、暴力、戦争、貧困、オタク、中二病、自慰、幻滅、エロゲ、終末、未来、過去、現在、自分、馬鹿、アホ、デブ、変態、役立たず、死刑、抑圧、宗教、束縛、悪夢、罪悪感、犯罪、暴走、激痛、精神病、上から目線、自称評論家、はてな的なるもの、憎悪、無関心、不感症、殺人願望、ナイフ、遺体、自殺願望、神、末期症状、禁断症状、依存症、嘲笑、悪魔、無能、低脳、ブタ、愚民、下等生物、下衆、エリート、ニート、ワーキングプア、インターネット、社会のゴミ、生きる資格なし、ゆとり教育、荒らし、陰謀、嫌悪、憎しみ、苦しみ、上意下達、いじめ、登校拒否、学級崩壊、死ねばいいのに、害悪、汚物、若者、精神年齢、劣等感、卑下、被害妄想、自暴自棄、欲望、支配、秩序、正義、無価値、無謀、臆病、のけ者、排除、無知、粗末、倫理、ルール、偽善、自己中心的、偏愛、性癖、性格、自己否定、崩壊、人格、終わり
なんか必死で「似非フェミ」ネガティブキャンペーンを張ってるようだけど、あなたが主張してたのは「男子校肯定論はミソジニー」なんて暴論であって、「女ってだけでまともな教育を受けられない状況を改善する事」なんていうまともな議論ではないからね。
あの下らん議論に興味のない人のために断っておくと、俺はフェミそのものを貶める気はまるでないので念のため。「似非フェミ」という言葉が「フェミ」に対する罵倒でないことは、「偽善者」ということばが「善人」を非難しているわけでないことと同様と理解していただきたい。それにそもそも俺は「似非フェミ」という言葉を使っていない。「自称フェミ」とか「なんちゃってフェミ」とか書いたはずだが。
それから、似非フェミ君よ。議論で勝てないからと言って他人の印象だけをことさらに貶める卑怯な手はやめた方がいい。端的に卑怯だ、それは。
ただし、君の議論術
これが処世術としてはそれなりに優れていることは褒めてやるよ。俺はリアルでも馬鹿に言いように操られてしまうことがよくあるんだが、どうしてそういうことになるのか、君のやり口を見てやっとからくりがわかったからさ、まあ君も役に立ってくれたよ、ありがとう。
どうもありがとう。
ネットでもリアルでも、この手の偽善者によく嫌な目に合わされるから、つい増田で復讐したくなるんだよね。こういう奴にとって俺みたいな人間は「攻撃しやすい奴」みたいだから、いつも仮想敵にされる。
人間の欲求は、「性欲」とか「食欲」とかといったもっともプリミティブな欲求が一番の基底にあって、より高度な欲求はその上に複雑な構造的・社会的欲求として芽生える……という階層的な見方がある。マズローの欲求段階説なんかがその典型。
この考え方でいくと、人間にとっては生理的欲求こそがもっとも基本的でありまた要素的なものであって、その他の欲求はこれらの要素的欲求が充足した後に、これらの欲求の複雑な社会的組み合わせなどによって初めて生じるものだ、という見方を取りがちになる。
でも、人間の心理がそのような「単純な要素的欲求の複合体」として構築されていることは、別に物理的実体として観察されているわけではない。
ひとつ思ったのが、「欲求」ないしは「性欲」といったものは決して実体として存在するわけではなく、あくまでも人間心理の動きを言葉に表現していった中から、いくつかの共通した動きの傾向性を「欲求」というひとつのカテゴリーにまとめ、さらにその中で「性行動への欲求、ないしはそれに準ずるものと認められる種類の欲求」を「性欲」という名前のサブカテゴリーにまとめた……という順番で生じたのではないか、ということだ。
ホンネ主義においてはしばしば、この種のプリミティブな欲求こそが人間としてもっとも基本的なホンネなのであって、それ以外の欲求はホンネではなく偽善や建前やウソに属すると捉えられるけど、もしかしたらどんな欲求だって、他の欲求よりもプリミティブであったり要素的であったりということなんかないんじゃないだろうか。
なんつーか、昔から時代とか社会が良くないっていう言葉はあったと思うんだよね。
でもここ10年ぐらいはやっぱり日本の社会は悪くなってるのかなあと、ニュースを見てたりすると思う。
先に言っておくと、自分が生きるという意味だけをいうなら自分は自分に満足している、相対的に言って勝ち組といえるかもしれない。
だから自分の利益を社会に対して要求しようというつもりは全くない。
世の中の人々が不遇を社会や時代のせいにするその風潮が、なおのこと社会や時代を悪くするように思う。
現状がどうだろうと、合理的に目の前の問題を解決することでしか我々は前進しないのだから。
しかし、なんかその合理的に考えてその解を共有するというようなこと自体がなんか通用しなくなってる気がする。
インターネットっていう強力な武器をもってるのに、なぜだろう?
ダガーナイフ禁止!とか明後日の方にいってるのを見るともうね。
ネットには正しいように見える言説があふれているのに、それらがほとんど実行されないのはなぜだろう。
日本の中で権力ある人々ってのは、自分のことしか考えていないんだろうなってメッセージを日々のニュースから読み取れる。
そして、そのなかで非力な人間が力を持つにはそういう人たちにおもねることが重要。
正しいことが間違ったことをただすことを見ることはまれにしか無く
力が力を呼び、歪んで肥大していくことを日々見せつけられる。
戦争が終わって60年以上たち、社会にも膿がたまってきてるんだろうか?
なにか黒幕のようなおぞましい何かがこの社会の見えない頂点に潜んでいて糸を引いているようなそんなイメージをうける
ユダヤ?中国人?韓国人?マスゴミ?官僚?世襲政治家?経団連?カルト?
それぞれが、それなりの求心力をもって日本の庶民を食い物にしてるような気がするが、よく見えない。それすら偽装で本当の黒幕が何かあるような気さえする。その黒い何かが、堀江や村上を犯罪者にして竹中の担当記者を変死に追い込んだのかもしれない。川田亜子さんはそのために死んだのかもしれない。
村上春樹の作品に出てくる羊の力。
では、食い物にされている日本の庶民の求心力って何だろう?徹底的に分断されてるけど、日本の庶民像ってのは確かにある。
無理矢理に言うと江戸っ子と関西人を足して二で割った何か。仕事を愛し、技芸を好み、礼儀正しく、粋に生きる、お人好し。そういう庶民像。
しかし、そういう庶民像の本当の味方、総体としての利益の代弁者というのは存在しないように思える。
左翼は、税金を弱者に使うことしかできない、しかも超非効率。保守は大企業の代弁者だが、大企業はバブルがはじけた後、庶民を2つに分断し片方を犠牲にすることに決めた。
ここに来て、さらに移民を呼ぶという。アメリカが自由の国なら、日本は、サムライの国、どんどん失われつつあるが技芸に優れ、木訥を潔しとする国だ。肌の色さえ違うかもしれない移民は日本語を学び、日本の庶民になってくれるだろうか?そしてそれを期待することにどれだけ意味があるだろうか?
GDPが増えたらハッピーというわけではない、ニコニコや2ちゃんねるに神が現れるまさにそのことが日本のすばらしさなのだとそういう気もしてきた。バブルのように日本の購買力で海外の資産を買いあさってるよりよっぽどハッピーじゃん。そうか?本当にそうか?サムライの技芸は、現代ではオタクとして昇華している、海外ではそれをリスペクトするものさえいる。しかし、オタクは非モテ、少子化への道。サムライの技芸を継ぐ跡継ぎはいない。回路はショートサーキットしている。
村上春樹の作品で言うなら世界の終わりとハードボイルドワンダーランド。サムライは座して死のうとしてる。
日本の庶民は黒い何かに気づいている。いまそれは取り除かれなくてはならない。
日本の庶民は黒い何かに気づいている。いまそれは取り除かれなくてはならない。
日本の庶民は黒い何かに気づいている。いまそれは取り除かれなくてはならない。
日本の庶民は黒い何かに気づいている。いまそれは取り除かれなくてはならない。
日本の庶民は黒い何かに気づいている。いまそれは取り除かれなくてはならない。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/core/20080612/1213291350
いいじゃねーか
本当なら、言語解析から、増え続ける掲示板をクロールすることから
それを総務省に2億円で売りつけてやってはじめて
いいじゃねーか。やろうよ
後ろめたかったネット巡回が、すこし意義あるもんになるで
正義感をもって声かけできるかもよ?
「こんなブサメンだって生きてるんだぜ」
って笑わせてやれよ。
恋が生まれるチャンスかもしれんぜ?
開発予算がない?
スポンサー集めてこようよ
今ならネットで最悪な評判を緩和することが出来ますよ
って言えば金出してくれるかもよ?
実現は難しいかもしれない。
そんな大手が協力するか?
で、今回の総務省の予算請求とセットでトンデモ法案があがってくるだろう
ネット業界にとってこれ以上汚れイメージをつけられて、国の規制をつけられたらたまらんだろうさ。
ネット自身がネットの自浄能力を持ってることを示さないとまずい状況だと思ってる。
そういう装置であるべきだとオレは思ってる。
なら、この予告inをネタで終わらせていいのか?
いやむしろ、ネタ的なノリはそのままであってほしい。
ネタをネタのまま膨らまして、世の中を唖然とさせるニコニコ動画みたいなノリのほうが楽しいじゃねーか
実際行動したらすごい人たちだと期待してるよ
はまちちゃんも、くだらんもん作ってないで予告in3.0ぐらい作ってみせてよ
先日のことだ
電車の席に座って本を読んでいた。
車内はそれなりの混み具合で、席は埋まり、立っている人がちらほら。
そんな状態で電車は駅に到着、僕は駅名を確認しようと目を上げると、年配のお婆さんが乗ってきた。
周りをみても空き席はない。
仕方なしに、僕は席を譲ろうと立ち上がった。
先に言うが、僕のいい人ぶり自慢ではない。
実際、それほどいい人ではなく、毎回譲る訳じゃないんだ。
人の膝に手荷物ぶつけてくる不躾なおばさんには絶対に譲らないし、自分が疲れていたら譲らなかったりする。
駅ごとにお年寄りを捜してみるわけもなく、数駅経って目の前にお年寄りがいることに気づき、赤面しつつ、けど今更感で躊躇して譲らなかった、そんなこともある。
まぁ、そのときは、普通に元気だったし、譲ろうと思っただけだ。
で、立ち上がって、お婆さんに目配せしたら、僕の背後に飛び込んでくる者がいた。
女子高生。
目敏く空きを見つけて駆け込んできたらしい。
あっさりと席は埋まり、僕は目を丸くした。
とはいえ、なんというか席を譲れとは他人に言いたくない。
苦笑しつつ仕方なしに、お婆さんの方を見ると、大丈夫という意味か、上品に微笑んでいる。
まぁ良いやと、諦めて、ドアの方に行き、本の続きを読み始めようとすると声が聞こえる。
僕がいた席の斜め前で並んで座っている、親子の声だ。
「いやぁね、人がお年寄りに譲った席を横取りするなんて。ああいうことをしちゃ駄目よ」云々
女子高生に聞こえそうな声で非難をしていた。
一瞬カッとなったが、押さえた。
けど、イヤな気分は収まらず、僕は他の車両に移った。
だから、その後の顛末は知らない。
女子高生の機敏さと無頓着さ加減には苦笑で済ましたけど、このおばさんの思考にはついて行けなかった。
お婆さんは立ったままだ。
自分か、自分の娘の席を譲ろうとはせず、他人に文句を言う。
女子高生には聞こえただろうか。
お婆さんには聞こえただろうか。
女子高生に理解させたければ、彼女の目の前で自分の娘の席をお婆さんに譲ればいい。
そういったことを考えず、自分たちは平然とすわったまま、非難だけする。
まぁ、そのおばさんにも文句を言わずに立ち去った、僕が何をいうのかということではあるのだが。
別にオタクと付き合おうがそんなことはどうでもいいんだが
この文章って「女子がオタクと付き合わない」ことを前提にして書かれているだろ
悪いが、オタクは結構交際率低くないんだよ。男オタ女オタ同士のカップルなぞザラ。
そして一度たまたま自分がオタクと付き合ったからといってすぐさま成功経験として書き連ねる神経。
たまたま一度のこれを、「オタクと付き合うのもいい」とする時点で結局オタクを差別している。
オタクと付き合うのもいいとかじゃなくて、お前は、その彼氏という一人の人間と、いい付き合いが出来た、それだけのことだろうが。
その彼氏がたまたま「世間で言われるような」「オタクっぽい」特徴を持っていたからといってそこから安易に「オタクと付き合うのもいいよ」と結論付ける意味の分からなさ。お前の彼氏がいい人だった、それで終わりだろ。何故、そういう奴一人と付き合っただけで一般化するのか。結局彼氏のことを、一人の人間としてじゃなく「典型的オタク」という目で見ているんじゃないか。
しかもこういうネタが、オタ且つ非モテという野郎どもが多いこの場では絶賛されやすいのを見込んで書いていやがる。
ああ、胸糞悪い。この偽善者が。
まぁ、こうやって捻くれて人々から見放されているから敵対しましょうとかいうのは少数派だよね。だって、いじめられっ子だった僕が唯一良かったと思う点はそれが世界のデフォルトだと早く気付けたとこだもん。世の中の人はそんなに自分の周りの人間のことを「人間」としてなんて見てないよね。動物としてのヒトって感じでみてる。なんか話したり笑ったり喧嘩売ったりしてくる動物ね。犬のことを「家族だ」とかって親愛の情を持って接するのって飼い主だけじゃん。そういう限定的なもんなんだよ、「人間」って。価値観なり文化なりが同じで話が通じてとか、そういう非常に限られた濃密なコミュニケーションをとれる相手、もしくは「とれそうな」相手しか「人間」としてみない。自分とそれ以外のヒトとの距離感とかタイミングとか相性とか。そういうものが、限られた時間的、限られた空間的で、「ヒト」を「人間」にする。寄ってきたら殺すという目?自意識過剰だよね。別に殺すもなにも、大半の人間は君のことなんてどうでもいいと思ってるよ。殺すなんて能動的なことするなんて面倒じゃないか。そして、それは別に君だけのことじゃなくて、ほとんどの人間に対してそう思ってるよきっと。
だからこそ、みんな自分を「人間」だと認識してくれる相手を探しているんじゃないのか?家族とか恋人とか友人とか。ほぼ永続的に自分のことを「人間」と見なしてくれるような「人間」を見つけたいとか、そういう集団に所属したいとか。誰も見てくれないとか、見捨てられているとか、本当、そういうのが世界のデフォルトだと思うね。だから、そうじゃないものを手に入れようと必死な人か、半ばあきらめちゃってる人かどっちかだ。なのに世間とか学校とか文科省とかいじめっ子とかクラスメイトとか、そういうもんに憎しみを抱くヤツはよっぽど・・・げふんげふん。
大体、親が嫌いなんだよね。親の対応はまずいかもしれないが、自分を人間だとみなしてくれる数少ない人間なのにね。あの?ありえるわけ?自分の周りの人間の全てが君のことを価値があると賞賛するような状況が。無いよ。木村拓哉にだってアインシュタインにだってないね。ありえないね。じゃあ、考えてみようか、君、誰に人間として認められたいわけ?親じゃないんだよね?無能だから。文科省じゃないよね?無能だから。なんかよく分からないけど具体的じゃなくて「素晴らしい人」に「あなたは素晴らしい」と言って欲しいんだけど、そんな人はいなくてそもそも自分はクソだからもし居たとしても言って貰えないだろうから夢が潰れました、ああ、夢が潰れました。
人から好きだと言われたいが、それは自分が認めた人間じゃなくちゃ駄目で、自分が認めるような人間の基準は物語のヒーローヒロインクラスの神々しさじゃなきゃ駄目で、しかも、そういう人が具体的にいるわけじゃないけど、とにかくそういう人から好きだと言われないから自分や世間や偽善者死ね?
・・・知らねえよ。