はてなキーワード: 京都アニメーションとは
――やられた。これは何かの間違いだと信じたかった。
端的にいってしまえば、涼宮ハルヒの憂鬱の一エピソードでしかなかった「エンドレスエイト」が、日曜夕方6時半から放映されている。エンドレスエイトは既にテレビ放送という媒体においてはほぼ“独占"といってよいほどの勢いをみせていた。初めはテレビ埼玉の木曜25:30から30分間の枠だけであったが、次第に1時間、2時間と広まり、月、火、水、金と平日深夜のテレビ埼玉は全てがエンドレスエイトになった。
「ついにサザエさんさえやられたか……」
かつては俺と同じく、ハルヒ厨であった友人がつぶやいた。エンドレスエイトの躍進はそこで止まらなかった。U局を支配していったのだ。まずテレビ埼玉からだった。22:00以降のテレビ埼玉は平日休日問わず、すべてエンドレスエイトになった。次に、東京MX。千葉テレビ。この2局は最初30分枠としてしか放映してなかったが、テレビ埼玉と同じように次第に侵略されていった。そしてテレビ埼玉がエンドレス「エンドレスエイト」放映という頃には、京アニはキー局にまでその手を広げた。
意外なことに、初めに崩れたのはNHKだった。はじめは朝のニュースに挿入された1フレームでしかなかった。まるでサブリミナルのように挿入された1フレーム。30分の1秒。それが4日続いた。毎朝。毎朝。5日後、それは木曜日だった。木曜25:30、NHKでエンドレスエイトの放映が始まった。その2日後からNHKで放映される番組はすべてエンドレスエイトに変わった。エンドレスエイトが地上波放送ではじめて放映されてから、ほぼ1年がたっていた。
「長門はもう俺の嫁じゃない……昔のつつましい長門に戻ってくれ……」
俺と同じく、かつてはハルヒ厨だった友人がつぶやく。そうだ、俺たちもかつてはハルヒを愛していた。エンドレスエイトが始まるまでは。何も俺たちに限った話ではなくてアニメを愛していたオタクたち、特にハルヒオタクたちは共有の思いを抱いているだろう。NHKが倒れてからは早かった。日本テレビ、TBS、NHK教育、フジテレビ、テレビ朝日……テレビ番組は全てエンドレスエイトにすげ替えられた。NHKが倒れてから1週間と経っていなかった。しかし、エンドレスエイトと拮抗するただ一つのテレビ局があった……テレビ東京だ。
「ワカメのおぱんつが、小学生のおんなのこのおぱんつ……おぱ……おっぱい……おぱんつ」
テレビ東京は何が起きてもアニメを放映している。他局は緊急放送流しているのにテレビ東京だけは、なんて状況も数多く見たと思う。テレ東は期待を裏切らなかった。もちろんテレビ東京だってノーダメージではない。ほとんど多くの枠がエンドレスエイトに乗っ取られた。しかし、アニメ枠だけは粘った。粘りに粘った。アニメ以外の番組はなくなった。アニメ番組も減った。だが、粘った。戦った。すると呼応するようにフジテレビの、サザエさんが復活した。ちびまるこちゃんが復活した。ドラえもんが、クレヨンしんちゃんが復活した……。そして数多のテレビアニメがその息吹を吹き返した。テレビ東京が奇跡を起こしたのだ。
だが奇跡は長く続かなかった。エンドレスエイトのとってきた次の戦法は、「劇場版」だった。エンドレスエイト劇場版三部作。上映されると同時に、アニメは一息にかき消された。三部作全てが上映された後、残ったのはサザエさんだけだった。
さめざめと泣く友人の気持ちは分かる。もはや二次元のパンティーを眺める機会など無くなってしまったのだろうなという、確信にも似た思い。最後の牙城、サザエさんさえも崩されたか。俺はまさしく絶望した。そして同時に友人の異変にも気づいた。
「ぱんつ! ぱんつ! ぱんつ!」
友人はロリコンでもないし、常日ごろから「パンツを隠さないようなつつしみの無い女は嫌いだ」などとつぶやく変人だった。その彼が下着にこれほど執着するだなんて――。どうか、している。
「おぱんつうう!!!」
友人が俺の両腕を異常に強い力でつかむ。指先から赤黒く染まっていく。まずい。尋常じゃない……。エンドレスエイトは友人の善心を奪い、狂わせている――かまれた。首筋。痛みに苦悶の叫びがもれる。俺は、死ぬのか。
――バーン!
「うっ!」
銃声に友人が倒れる。
「大丈夫かい、君!」
「た、助かりました、あなたは?」
「私はテレビ東京アニメ部門のものだ。これ以上エンドレスエイトをのさぼらせるわけにはいかない」
「……というと?」
「だが、やるしかないのだ。それにわれわれには、ヤマカン様がついてる」
「尊師ヤマカン様……京都アニメーションに対抗できる数少ない人物ではありますが」
「パヤオ、庵野、冨野らがやられた以上、奴らに拮抗できる材料はあまりに少ない。だが、やるならサザエさん攻略で弱っている今だ」
「それでも勝てる見込みは多くはないでしょう……?」
「ああ。だがこれを逃せば、一生訪れないだろう。君、いい目をしてるな。一緒にくるかい?」
「ぜひ。」
http://anond.hatelabo.jp/20090615152955
アニメ化決定前からけいおん!を読んでる原作読者がたまたま開いたらおっという記事を見つけたので増田に書いてみ増田。
(注:このエントリーは半分の推測と、半分の「ただしソースは俺」でできています)
元増田氏が言っていることはたぶんその通りだと思う。
他でもさんざん言われているかも知れないが、あれって素材として良いから選ばれたって線が非常に大きいと思う。良い意味でも悪い意味でもニュートラルで、その割にしっかりと芯があって、コンセプトとしてしっかりしているから選ばれたんだと。
さらに言えば変更・追補しても文句を言う「原作信者」がいない、あるいはいたとしてもそれほど強烈ではないだろと言う所も大きな原作選択のファクターであったのではないかと思う。
意地の悪い言い方をすれば「未完成故に妄想しやすく、強烈に人気がないので好きなようにできる」という事だったのでは。すでに京都アニメーションは、通常であればメディアミックスの一角として重要な「原作の人気」というものが無くても十分にヒットさせるだけの力を、ブランド力を持っているわけで「作りやすさ」「作りたいもの」という所を重視して原作を選択できたのだろう。
その点で、あれはある程度原作とは別物で当然。ゆえに、11話だけを原作を無視した話しである等々と批判するのは間違いで、言うならばあきらめとともに全体が原作とかけ離れている点を批判すべきだと思うんだ。
ただ、原作ファンにそういった原作と違う事を根拠にする批判を持つものを自分自身含めて見たことがない。まぁみんな俺が布教した連中だからかもしれないが……。
似たようなケースとして、ジャンルは全く違うがサンライズが製作したアニメ『プラネテス』がある。あれは原作を読むとわかるが、エピソードのその重要な部分は持ってきているが、登場人物が大幅に増員されており、すさまじい設定の補強、発生順序、時間軸等々も全く違う。はてまた、ヒロインの性格がかなり違うのである。それは映像化するための密度を増やすための設定にとどまっていないと思う。
こちらが「けいおん!」と異なるのは原作はわりと信者がいたということ。しかしこちらはキャラ萌えで「あの子はあんな事言わない!」的な反発ではなく「アニメ化したらせっかくのリアルな描写 or 設定 or SF的に正しい物語がおかしくなってしまった!」と言う方向で反発の方が大きかったであろうと言うことである。こちらはおそらく、それぞれ各人の胸の内にしかないキャラクター像に合わせるより簡単であり、結構力業でクリアーしているように思う。
また、プラネテスに関しては、ほとんど、と言うか俺的には一回も「原作はアニメに比べてつまらない」という評を見たことがない。これもけいおん!との違いだろうか。
そもそもである。近頃は1クール13話、長くて2クール26話程度で、原作を使い切ることがないのだろうが、ちょっと前などはたいていの場合、原作のエピソードを使い切ってしまい、完全オリジナルエピソードを追加したりして増量していなかったか。そして、そこには今のアニメほど「原作レイプ」と言った不適切な表現まで使われないにしろ、原作ファンから批判されていただろうか?
これは、あまりにも期待値が高すぎるからではないかと思う。俺は涼宮ハルヒの憂鬱も初版で全部持っているように、アニメ化前からのファンだが、自分的には涼宮ハルヒの声が妙に高かったぐらいしか違和感を覚えなかった。あそこまで原作先行で原作の再現度が高いアニメは、他には「彼氏彼女の事情」ぐらいしか知らない。(注:ただし俺基準、他にもたくさんあるだろうけど)
(もちろん、原作とアニメが同時企画され、原作者がアニメに深く関わったり、監督や演出等制作中核スタッフが自ら原作を書いた除く。たとえばパトレイバーとか)
つまり本来は、アニメは漫画・小説の原作とは全く表現方法も違えば、規模、一度に流せる情報量、製作スピードなども全く異なり、本来は別物になってしまうものじゃないのかと思う。それをうまく合わせ昇華する技術を京都アニメーションの制作スタッフはたまたま持っていただけである。しかしそれは希なことである。
それを忘れて、ちょっとぐらいこのアニメ原作と違うなどと騒ぎ批判することなど、一体何の意味があろうか!?いや無い!(反語表現)
……………………
………………
…………
……
そういっておかなければ悲しいじゃないか。見たら全然違くて、原作ファンには黒歴史化されているアニメなんていくらでもある。その屍の山と、話題が少しでも出るだけでしゃれにならないほど荒れるのでタブーとして重く封印された話題のことを思えば、けいおんはその点凄く幸せなのではと思うんだがいかがか。
元増田氏はこうっしゃった。「あんまりおもしろくないなと感じるのでは」と。
そんなことはない。絶対……断じ……いやたぶん……おそらく……きっと……ない。
少なくとも俺基準では、原作けいおん!は大好きであり、よく企画した人はけいおんに目をつけてくれた!と感謝している。少なくとも、原作けいおん!が無ければ、アニメも存在しなかったわけだし。
と言うのは、原作には原作の良さが、アニメにはアニメの良さがあって、容易に比べるものではなく、従って「あまりおもしろくないと感じた原作をアニメの力でおもしろくした」と言うことではないと言うことである。
たとえば逆も成り立つ。アニメが原作で、漫画化された際にまた違った雰囲気で人気を博した作品……宇宙戦艦ナデシコに対する遊撃……じゃなくて、新世紀エヴァンゲリオンの貞本版とかである。
そう考えれば、お互いに「違うからつまらない」と言うことが以下にナンセンスかわかるであろう。そう思わなければ、ファンはやっていけないと思うのだがいかがか。というか「原作と違う」「アニメと違う」という事で批判するようなファンは、アニメ漫画小説ドラマ舞台なんでもそうだが、そういった作品に対するファンとしての経験値が足りないのではないか。これは好きなアイドルやタレントが自分の希望と違った行動を取ったからと言って(分かり易いのは結婚とか)転じていきなり批判を始めるがごとく、非常にレベルの低い、ファン経験値の足りない行動であろう。
そう思った。
特にオチはない。
だらだら書いたが結論がよくわからなくなってしまった。まぁいいや。
15 :ななしいさお@オマエモナゆりかご会 :2007/09/04(火) 09:03:32 ID:???0
らきすたが嫌いな奴はどんな奴か、いろんなスレや考察ブログ参考に考えてみた
1 大した内容の無いアニメなのに、07年No.1アニメみたいに称えられてるのが気に入らない人
2 らきすたに限らず京都アニメーションの作品・手法・賛辞が気に食わない人
3 らきすたを極端に褒める信者の存在・言動、オタ系ブログのほとんどが好意的に取り上げていることに嫌悪感を抱く人
4 別に最初はどうでもよかったが、自分の好きなアニメは話題にならず、あまりにもらきすたばかりが話題になるので、いつのまにかアンチになっていた人
5 ハルヒなど他の京アニ作品は好き(もしくは最初は普通に見てた)だけど白石の悪ノリ、ニコニコに媚る、作品のノリ等により、らきすたは好きになれない人
派生→ハルヒを筆頭にフルメタや鍵などの京アニ作品のパロディ手法をやりまくるやりかたがムカつく人
6 ハルヒのハレ晴レや詰合が何十週もかけて10万枚売ったのに対して、 もってけが一月かからず早々に15万売ってしまったことがたまらなく悔しい人
派生→オリコン、音楽ランキング番組等で上位にランクインしたり、何週もランクインし続ける事に苛立ちを覚える人
7 もってけリミックスやカラオケED、白石ED、演歌カセット、キャラソン大量発売などの信者狙いのCD販売商法に憤りを覚える人
俺は1,3,4,7,8だな。
こんな事はわざわざ言うまでもなく全員分かっている事だろうが、どうも暗黙の了解が故に
「本当に理解らない」人間がいるようで。一応言っておかなくてはならないようだ。
一つの場に集まり、みんなで見る事で楽しくなるのは「らき☆すた」に限った事ではなく、
すべてのアニメに言える事である。いや、アニメに限った事ですらないのである。
例えば映画。
誰かと一緒に映画館で映画を見た帰りに喫茶店で会話に花を咲かせる、なんていう
どこでも誰でも当たり前に行われている光景は、まさにその「場」としては最小の物であろう。
それが「らき☆すた」の場合はたまたま極々最近隆盛したニコニコ動画がその「場」として作用しているが、
ニコニコ動画以前にも、何年も前から2ちゃんねるでアニメについて語り合う楽しさを誰もが体験しているはずである。
どんなアニメも、ネットを介して意識を共有する事は楽しい事なのである。
歴史をたどれば12年前の「エヴァンゲリオン」の時ですらパソコン通信という場が作用していたのである。
だから「らき☆すた」を肯定する時に「みんなで見てるから面白いだけ」と言うのは正しくないのである。
どうもこの論調を持ち出す人は、「らき☆すた」が評価されている事を苦々しく思っているものの、
この論調を立てることで“仕方なく”肯定しているように見える。
いわば免罪符にされている感がある。……そこまでして何が彼らを「らき☆すた」に駆り立てるのだろうか?
一人でアニメを見て、そのアニメについて誰とも会話する事なく、一人で消化し、満足する。
そんなやり方でないと作品を肯定できないのなら、これほど寂しくて、惨めな事はないだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20070807141112
この手のアンチ思考は別にらき☆すたに限った話ではないのだが、とにかくらき☆アンチにはそれが謙虚である。なぜか。
思うに、それは「らき☆すた」が特殊な作品だからである。
(中略)
そう言った「特殊な作品」を、京都アニメーションという原作を忠実に再現しつつ、大きく膨らませる実力を持った
制作会社によってアニメ化され、アニメとしても実に斬新なアニメになってしまったが故に
TVアニメはこうでなくてはならない、という固定概念に囚われたアニメヲタクには理解できないのである。
自分の培ってきた「アニメを見る時における常識」が通用しないアニメの存在。それが世間で評価されている現実。
それこそが許せないんじゃないだろうか。
くだけて言うと「らき☆すたアンチ」だが、この種の人間はとにかく
「らき☆すたが楽しまれている事」を苦々しく思っている。なぜだろうか。
自分がつまらないだけなら見なければいいし、他人が楽しんでいるのを否定するなんて論外。
そもそもにして「つまらないから見ない」という行動がなぜできないのか。
自分が楽しめないのに見て、楽しんでいる人間を否定する。……なんだろう、これ。
この手のアンチ思考は別にらき☆すたに限った話ではないのだが、とにかくらき☆アンチにはそれが謙虚である。なぜか。
思うに、それは「らき☆すた」が特殊な作品だからである。
別のアニメ・マンガの作品(ハルヒ、フルメタ、ケロロ軍曹等)を、らき☆すたの世界に存在する物として扱い、
作中のキャラクターがその作品を語り合う。
らき☆すたの世界が現実に近しい物として描かれている特殊なマンガなのである。
ここで注意すべきは、これが京都アニメーションがアニメ化した時に付け加えられた要素でないこと。
らき☆すたの原作コミックの時点で「ゲーマーズ」だの「アニメイト」だの、実名を出し、
コンプティークやニュータイプ、はては携帯雑誌等、複数の雑誌でコミック「らき☆すた」が展開し、
このあたりはコミックスにもクレジットされているのでコミックスを読んだ人ならすぐに分かる些細な事である。
だが、アニメから入って原作コミックを読んでいない層はこれが分からない。
そう、アニメ「らき☆すた」を見て文句を言っていても、原作には手を出していないという証明になる。
「らき☆すた」を語るにおいての一つの無知、そのまま批判してしまっているのである。
もう一つ。
そう言った「特殊な作品」を、京都アニメーションという原作を忠実に再現しつつ、大きく膨らませる実力を持った
制作会社によってアニメ化され、アニメとしても実に斬新なアニメになってしまったが故に
TVアニメはこうでなくてはならない、という固定概念に囚われたアニメヲタクには理解できないのである。
自分の培ってきた「アニメを見る時における常識」が通用しないアニメの存在。それが世間で評価されている現実。
それこそが許せないんじゃないだろうか。
これがもし、世間でまったく盛り上がってもいなく、評価もされていないアニメでやっている事であったら
「らき☆すたアンチ」はこんなにもネットで「らき☆すたはつまらない」と声高々に主張して
溜飲を下げたりはしなかったのではないだろうか?
不毛な戦いに疲れたので『愛・おぼえていますか』ぜんぶみちゃったよ。
僕達がするべきことは戦うことじゃない、愛しあうことだったんだ!
ところで山本寛はなぜ『らき☆すた』の監督を(あんな形で)降板することになったのか?
いろいろな説が飛び交っているけれど、「演出・山本寛としては優れていたが、そのこだわり故に監督として全体を見なければならないポジションになったとき、制作スケジュールまたはスタッフワークに問題が生じてしまった」ことに起因する、京都アニメーション内部の修正人事というのが有力だと思います。
「監督において、まだ、その域に達していない」というリリースには、少なくとも『らき☆すた』のクオリティが低すぎたのでとはどこにも書いていない。『ハルヒ』や『ふもっふ』『TSR』を期待していた人や、そもそも萌え4コマのようなものが嫌いな人には評判がよろしくないけれど、『らき☆すた』は演出、カット割、その他もろもろ非常に細かいところまで心くばりがなされていて、とても心地よく見ることができるものになっていますよ。
というわけで「山本寛が京アニとして許せないレベルの駄作を作ったから」ではなく「フィルムのクオリティ以外の面で監督として至らなかった」という点に絞って、いろいろ調べてみたのですが、大阪のアニメ制作スタジオ「スタジオワンパック」が下請けした作品の実績をサイトで公開していました。
それによると4月8日に#1がオンエアされた『らき☆すた』の動画が以下のようなスケジュールで撒かれていることがわかります。
3月
『グレンラガン』#7(489枚):参考
4月
『らき☆すた』#6(510枚)
『らき☆すた』#7(409枚)
『らき☆すた』#8(410枚)
参考までに、3月に同社で制作された『天元突破グレンラガン』のデータも併記していますが、これと比べても「制作スケジュールに大幅なマージンを設けることで、高いクオリティを実現する」といわれている
アニメ「らき☆すた」に対し難色を示し、挙句の果てに「京アニは終わった」「京アニにはがっかりした」などと言ってしまう輩は
少なくとも原作を読んで「らき☆すたとはこういう作風の作品だ」と理解しておけば、アニメを見た上で京アニに対して
落胆などするはずもないどころか、全く逆に京アニがこれまでの作品同様こだわりを持って作っているかが容易に理解できる。
(読んでも理解できない人間は問題外)
それを一部の人間は「ハルヒ」という幻想に取り付かれ、勝手に期待し、落胆した。実に愚かである。
一歩でも足を前に動かせばこんな憐れな事にはならなかったのに、動かず、座したままでいた上に、口を尖らせる。
翻訳:原作を読めば京アニは悪くないということが分かるのに、どうして読まないんだ。
情報公開からずっと「なぜ京アニが萌え4コママンガの『らき☆すた』なのか?」という疑問があったが、
「大ヒット作」の後遺症として生まれる、こう言う種の人間の目を覚まさせるための「らき☆すた」なのかもしれない。
だからと言って「エヴァ」の後の「彼氏彼女の事情」のように奇抜な事はせず、全力を持って「らき☆すた」を作っている事が
京都アニメーションが絶対的な支持を得る理由なのは誰の目にも明らかだろう。
翻訳:京アニは全力で作ってるんだから、つまらないとしたら原作のせいなんだよ、みんなで京アニを礼賛しようね。
ハルヒは見ましたよ。
むしろどうして「ハルヒ見てないんなら納得」なのかが分からないですよ。
ついに始まったこの春の最大の話題作、京都アニメーション最新TVアニメ「らき☆すた」、
その特殊な作風ゆえに賛否両論が巻き起こっているのは周知の事実であるが、是も非もともかく一つの問題が浮かび上がる。
アニメ「らき☆すた」に対し難色を示し、挙句の果てに「京アニは終わった」「京アニにはがっかりした」などと言ってしまう輩は
「京アニが『らき☆すた』のTVアニメを手がける」と情報が出てから、放送までの間に原作コミックを買って読んだり、
原作に関しての情報を仕入れたりといった『行動』を一切していない人間だと言う事だ。
少なくとも原作を読んで「らき☆すたとはこういう作風の作品だ」と理解しておけば、アニメを見た上で京アニに対して
落胆などするはずもないどころか、全く逆に京アニがこれまでの作品同様こだわりを持って作っているかが容易に理解できる。
(読んでも理解できない人間は問題外)
それを一部の人間は「ハルヒ」という幻想に取り付かれ、勝手に期待し、落胆した。実に愚かである。
一歩でも足を前に動かせばこんな憐れな事にはならなかったのに、動かず、座したままでいた上に、口を尖らせる。
情報公開からずっと「なぜ京アニが萌え4コママンガの『らき☆すた』なのか?」という疑問があったが、
「大ヒット作」の後遺症として生まれる、こう言う種の人間の目を覚まさせるための「らき☆すた」なのかもしれない。
だからと言って「エヴァ」の後の「彼氏彼女の事情」のように奇抜な事はせず、全力を持って「らき☆すた」を作っている事が
京都アニメーションが絶対的な支持を得る理由なのは誰の目にも明らかだろう。
簡単に言っちゃうと、「ufoテーブルが時代に適応できてなかった」の一言に尽きる。
かつて「住めば都のコスモス荘」や「ニニンがシノブ伝」で注目を集めたカリスマ制作会社だったufoが
「フタコイ」と「コヨーテ」の失敗を挽回すべく、今まさにカリスマとして称えられている京都アニメーションの大ヒット作
「涼宮ハルヒの憂鬱」を猛烈に意識し、参考にし、ufoの全力を持って作り上げたはずの「まなび」だったが
この「時代適応力」のなさですべてが空回りしたと言える。
この時代適応力のなさがufoに発現してしまったのは言うまでもなく、フタコイ1話放送時のインパクトと、
それ以降との差異による視聴者の落胆であり、同じくコヨーテ1話Bパートと、それ以降の視聴者の落胆によるものだ。
では「まなび」はどうであったか。
まず最初に、ロリオタ受けを狙ったつもりだったのに、ドン引きされたキャラクターデザインが1つ。
そして極め付けが、文化祭のメインイベントでライブをやってしまう空気の読めなさ。
ハルヒと同じ事をやった、でも痛々しいが、問題なのはufoが文化祭=ライブと言う発想しかなかった事。
ここが、近い時期に同じ文化祭ネタをやったコードギアスだと「巨大ピザ」なのである。
(「ハルヒ」自身が文化祭=ライブなのは原作がそうなんだから仕方ないとして)
細かい部分の脚本や構成の未熟さは突っ込んでも突っ込み切れないので省略するとして
一言で言っちゃえば「時代に適応できなくなったオッサンたち」が無理して作ったアニメなのである。
「二次創作をする」という行為には、自分のコードにある作品を置き換えて表現しなおすことである創作物を所有したい、という願望が付いて回っているように思う。しかし、「二次創作」の存在が加速度級数的に増加すると、ある創作物の二次創作全体を自分の視野におさめることが不可能になる。つまり、各個人が所有欲を満たすために行った創作が、結果的には所有願望の達成を不可能にしてしまう、という帰結をもたらすということだ。
それでは、このような状況下でもある創作物への所有願望を諦めない場合、どのような行動の選択肢があるのだろう。
ひとつ思いつくのは、「どのようにすれば」ではなく、結果的に「そうなってしまう」ことを目指す、という方向性だろうか。ソクラテスに対するプラトンのように。ヘーゲルに対するマルクスのように。ある創造物を解釈する際に無視できない参照項となりうる自分というものを、重厚な解釈の呈示に加えて、政治的パフォーマンスも駆使して積極的に打ち立てる、という方向性。これは、『涼宮ハルヒの憂鬱』における、谷川流と京都アニメーションないし角川エンタテインメントの関係に置き換えても良い。アニメ版『ハルヒ』ないしその副産物であるメディアミックス商品は、もはや「涼宮ハルヒ」シリーズを解釈するにあたって、谷川の手によるテクストとほぼ同等に扱われてしまっている。これらはどれも「結果としてそうなった」のであって、最初からそうなることを確信し、目指されたわけではないだろう。