はてなキーワード: 二元とは
この手の話がコミュ・非コミュの二元論だけで片付けられないのは確か。
(というか、それは当の非コミュ自身にもわかっているだろう)
しかし、少なくとも、
●幼稚園児・小学生のころから健全に他人に興味を持ち、会話のスキルや空気を読むスキル、他人への気遣い方を覚え、大人になった今ではそれが意識せずとも身についている人間
と、
●子供時代にほとんど他人とコミュニケーションを持つ機会がなく、会話の仕方を覚えないまま大人になり、今になって何とか改善しようと思っている人間
では、絶望的な壁があるのも確か。
知り合いで、勉強も仕事も出来て一流就職偏差値だと70以上のところに内定決まってる
まぁ、リア充とは違うんだけど、そういう男が居る。
彼を見てるとなんか物事を単純化して見ているきがするんだけど
彼の、物事を単純化するクセは徹底していて
金や勉強になりそうな人にはすぐ仲良くなる。(それは生協や学食のおばちゃんですら)
反対に、金にはならないことや気に入られてもしょうがない連中はばっさり切る(アホには非常に冷たい)
いや、こんなの誰でもやるだろっていうかも知れないけど度合いが半端じゃない。
極端すぎて、かなり引く
「これは、こいつが悪い殺されて当然」
「これは、自業自得、あいつらが悪い」
だとか、
他人に対しても
「あいつはアホだ」とか、
「お前は××だから」だとか、
「お前○○好きだなぁ」
とレッテル貼りまくる
人ってブレるし、二元論じゃ分けらんないことだってあるだろって思うけど、そんなの無視
ブレないから、悩まないし立ち止まらない、問題があれば解決するために考えて即行動。
だから、動きが早いし手際がいい。
人間関係にだって悩まない。
割り切って人にキャラクター付けることで、自分がその人に対してどういう感じで接するかとか悩む必要がなくなる
と恥ずかしいこと書いてみた。
はてブをいつも見てて思うんだけど、「ウヨク(笑)」の人は、どうして「はてサヨ歓喜w」とか「はてサヨ無様w」とか罵倒しかしないの?
いわゆる「はてなサヨク」(と言われている人たち)は、誰かを貶めることを目的とした発言はしていないと思うんだけどなあ。
「はてサヨ涙目(笑)」とか言ってるんだったら、どこが「罵倒されるに足る」のか、ちゃんと説明してからけなすなりなんなりすればいいのに。
あと、「サヨク」だの「ウヨク」だの、あくまで二元的に話をもってこうとするのも「ウヨク」の特長だよね。
(他称)「サヨク」の人たちは、「右翼」がどうの、「左翼」がどうのなんて言ってないのに。
独り相撲なんですかね。
http://anond.hatelabo.jp/20090122002426
うちの親は「インターネットには形が無い」「バーチャルな世界」などと言って「現実とは分けろ」とこき下ろしているけど、古い考えだと思う。
現実でお互いに顔を合わせた会話の重要さを否定したりは絶対にしない。口に出す言葉と表情、対して文字での文章によるコミュニケーションには埋め難い間隙があるし、ずっと仮想現実の中にいるというのは無理なので、現実のほうが構造としては上位なのは間違いない。けど、書き込んでいる人間は、botではなく現実を生きる血の通った人間であることは間違いないでしょう。確かにネットに書かれてる文章は、息を吐くように吐かれた嘘であることも多いし、書いた人間の顔も見えないけれども、最近はそういう常識さえ拭い払うように、現実とネットの関係も、二元論では語れない、より絡み合って親密になったのではと感じている。自分の界隈では、よくオフ会をやってるのを見るけど(自分は参加したくない、ネットでも面白くなければ現実でもつまらない人間だから)、そんなのネットと現実が断絶したものだったら成立しないでしょうに。
ネット専用の個性を持ってwebに暮らすように没入するネット中毒なのは大いに問題だけど、インターネットに書かれていることを自分の持つフィルタで取捨選択した上で、現実で見聞きしたの同じように真に受けて、何が悪いんだろうと思った。
少し前からメディアや本などで取り立たされているけど、
実はこんな「特別な障害」は存在しないんだよ。
少し乱暴な言い方をすると、「あなたはA型です」と言われ、
数々の要因が当たっており、「あぁ、A型だからこうなんだ」という
ような、似非科学に近いものがある。
自分の周りには、10人に1人くらいはいわゆるアスペルガーみたいなタイプがいる。
でもね、その実態は「コミュニケーション能力が(極端に)低いだけ」だと言える。
自閉症と結びつけることは誤解を招くし、障害とすることもよくない。
身の回りに多く居る「ただコミュ能力の低い人」に奇異な症状名の
烙印を押してしまう可能性があるからね。
アスペルガーのような症状を自閉症スペクトラムに分類することが間違っている。
アスペルガー的な症状は、環境によって出来上がったコミュニケーション能力の低さで、
自閉症は先天的な脳障害や遺伝の要因で出来上がった自閉症状だ。
例えると、シャチとサメって少し雰囲気が似てるけど、進化の過程では全然違うルートを
たどった別種、みたいなもんだ。(わかりにくいか。)
コミュニケーション能力の低い人って、色々なことが共通している。
「アスペルガー特有の共通している特徴がある」わけじゃなく、コミュ能力が低いからこそ
必然的に共通する項目があるだけだ。
うん、アスペルガーって言葉は言い換えよう。「コミュ能力が低い人」と言い換えよう。
・コミュ能力が低いので、人以外の(科学・数学・鉄道・漫画・●●収集)などに没頭する。
→逆に言うと対人以外の遊びに没頭したからこそ、コミュ能力がさがったと言える
・コミュ能力が低い(コミュニケーションはある種反射ゲーム)→運動などの反射動作が苦手
・コミュ能力が低い→男に多い(もともと女性はコミュ能力が高い、という生物的な性差がある)
・コミュ能力が低い→発声の機会が少ないので、人によってはドモリが出る場合がある
こんな特徴があるときもあるし無いときもある・・・など、すごく曖昧だ。
学説によって違う所もあるし。
健常者/アスペルガー という二元論的な考えは、本質を間違った風にカテゴライズしてしまう。
本来は、「学力に差があるようにコミュ能力に差がある」だけなんだ。
「アスペルガーだから」ではなく、コミュ能力の高低の差なんだよ。
これを読んでいる人の中にも、「自分はアスペルガーかも」と悩んでいた人も居るだろう。
でも「アスペルガーだからこうなんだ」じゃないんだよ。
その能力は上達する場合もあるし、人によっては上達しにくい場合もあるけど。
コミュ能力がどうもあがらない場合は、それに関係のない職業につけばいい。
コミュ能力の低さが原因でうつになった場合、しっかりと治療をすることだ。
アスペルガーかどうかで悩むなんて、すごく馬鹿げた悩みなんだ。
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追記:2008/12/07 21:00
こんなに反響があるとは思わなかった。
タイトルのせいか。
間違った箇所&誤読されてる箇所があったので、追記&訂正を。
◆1点目。
・「アスペルガー的な症状は、環境によって出来上がったコミュニケーション能力の低さで…」の箇所。
個体差は先天的なものにも左右されうるので、この1文は訂正します。
◆2点目
この記事は、
「アスペルガーはコミュ能力が低いだけだから鍛えて直せ!」とは言っていません。
その診断を受けた人は、その人に合った職種&環境を選ぶのがいいと思います。
プログラマの人で、コミュ能力低いけどエレガントなコーディングができる人だっているし。
コミュ能力が低いことそのものは個性なので別にいいんじゃないかな。
◆3点目。
この記事は、
「(アスペルガーなんて存在しないから)アスペの診断を受けた人は健常者だろ!」とも言ってません。
コミュニケーションがうまくいかなくて、知能は正常なのに社会適応できない人がいるのは事実。
ただ、それを「アスペルガー」という曖昧なカテゴライズにはしない方がいいのでは、というのが主張。
「知能は正常だが社会で働けないくらいにコミュニケーション能力が欠乏している」っていう事実があるなら、
それを引き起こした原因・程度・症状は個体差があるからそれに合った治療なんかが必要だと思うけどね。
アスペルガーの症状って曖昧すぎだし、血液型診断みたいに当てはまる人が凄く多いから、
似非科学になってしまうんだよ。
自称アスペも出てきちゃうし、職場の給湯室でおねーちゃんたちに「あの人アスペっぽいよね…」
なんて会話がされてるなんて、最悪じゃない?
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追記2:2008/12/09 0:40
あと、よく「この本を読んでからモノを言え」みたいな意見もあるけど、
本を読んだらアスペルガーを理解できるとは到底思えない。
むしろ、本を読んだ知識でそう言ってしまえる人ってどうなんだろう?
もちろん僕が書いている文章も人の事を言えないんだけどね。
ただ個人的に、オリバーサックスの「火星の人類学者」は面白かった。読み物として。
実際にアスペの疑いがあると診断された人も居るだろうけど、
はっきりと医者に診断されたことはないんじゃないかな。あくまでも疑いだけで。
…もちろん僕の文章も科学的じゃあないんだけどね。
僕は「アスペルガーの疑いがある」診断を受けた人も、病院行かずに自称アスペの人も見てきたし、ADHDと診断された人や
診断も自称もせずにアスペルガー的な様相を表している人も見てきたけど、
それでも尚、アスペルガーって無いんじゃないか?と思ったから記事を投稿した。
強引な例えだと、仮に「ゾンビ映画は好きだけど和製ホラーは観れない現代音楽好き」をA症候群だとして、
人口の数パーセントはこのA症候群にあたる。確実に当てはまる人はいるんだよ。
自分の周りにも「ゾンビ映画が好きで和製ホラーが嫌いな現代音楽好き」がいるからね。
でもだからといって「A症候群は存在した!」って言うのって馬鹿げてない?
アスペルガーをある定義にして唱え、確かに当てはまる人が存在するからアスペルガーはある、
というのってどうなの?って感じだよ。僕の記事と同じくらいにどうかと思うよ。
まず、みんな凄く一般論が好きだということが言えると思う。
自分の経験から帰納して一般論を導くことに凄くこだわりがある。
もちろん、具体例から一般論を見つけ出そうとする努力は凄いものだし、人類はそうやって進歩してきたのだと思う。
例えば、モテの男性にバカにされた、という具体例から、すべてのモテ男性はすべての非モテ男性をバカにしている、という一般原則が導かれたりする。
これはいくらなんでもやりすぎだ。非モテをバカにしないモテもいるし、モテにバカにされない非モテもいる。どちらの具体例も俺は知っている。
自分の持っている一般論を尊重するあまり、単純すぎる二元論もまかり通る。
また、オサレなモテとダサい非モテという分かりやすい具体例から、オサレ対ダサという二元論も作り上げられる。
それぞれの間の断絶が物凄く強調される。そういう際立った格差が、今の格差社会の特徴だと言えるのかもしれない……。
けれど、街を歩く人たちは実際そんなにオサレなのか。彼女を持っている人たちは実際そんなにモテているのか。
彼女をゲットした人たちがみんな高度な恋愛テクニックを駆使したとは思えない。
むしろ、現実の恋愛なんてもっと散文的でみっともないものだと思う。
普通に服を着ている普通の人たちだって、ファッションに関して何か思想があるわけではないだろう。
恋愛テクニックを磨いたりファッションに思想があるのは一部の人だけではないか。
最近の恋愛やファッションが物凄く難しいものに思えるのは、それらが業界によって専門技術化されたせいだと思う。
昔は文豪の小説をみんな読んでいたけれど、今の時代に純文学を読むのは限られた人たちだけだ。文学が専門技術化されたからだ。
音楽もそうで、昔は(今で言う)クラシック音楽をみんな普通に楽しんでいた。いまそれらは専門技術化されて、限られた人だけの楽しみになってしまった。
それらと同じように、恋愛もファッションも敷居が上がってしまったのだと思う。仕事術とか「コミュニケーション能力」とかいうものも多分そうだ。
人間全体が底上げされていれば、専門技術化も悪くなかったかもしれない。
しかし、悲しいことに人間が身につけられる専門技術には限界があった……。
音楽や文学ならともかく、恋愛や服を着ることは普通の人が自然に行なっていることだ。
だから、モテでも非モテでもなく、オサレでもダサでもなく、グレーな普通の部分が実際には幅広くあるはずだ。
その幅の広い部分は、専門技術崇拝のはびこる昨今ではメディアが取り上げないので見えてこない。(あるいは、メディアが情報源として大きくなりすぎ、具体例が相対的に地位を下げたか……)
非モテからモテへ、ダサからオサレへ、何かとんでもない専門技術を身に付けて大変身しないといけないように思われているけれど、本当はグレーの諧調を少しずつ登っていけば良いのではないか。
まず靴をちゃんと磨くところから始めたり、職場の女性に対して顔を見ながら挨拶をするようにしたり。
中途半端で良いし、失敗して良いと思う。普通の人はみんな中途半端だし失敗しているのだから。
ごく限られた自分の境遇から一般論らしきものを引き出して、それで何かに勝った気になるのが一番危険だと思う。
理論というのは、それ自体の正しさや適用範囲とは無関係に人を動かすことがあるし、そうして誤らせる。
自分は非モテだからああなんだこうなるんだ、という理論に取り付かれて身動きが取れなくなってしまう。
一般論否定の文章を書いていて最後に一般論を述べてしまうけれど(汗)、非モテの人は理論が好きな人が多いと思う。
「論理」というよりは「理論」。あの場合こうなる、という法則を自分の中に蓄積し、それを頼りに生きようとしている人が多い。
敢えて反証を試みようとはしない。
実を言うと俺自身(非モテ)がそうなので、自戒を込めて。(汗)
(トラバの指摘を受けて改行を入れてみました(汗))
もしかしたらあのエントリーを、単純な二元論の話だと受け取る思慮の浅い奴がいるのでは、と書いたあと危惧していたのだが本当にそうなっていて笑った。
ザ・上から目線
もしかしたらあのエントリーを、単純な二元論の話だと受け取る思慮の浅い奴がいるのでは、と書いたあと危惧していたのだが本当にそうなっていて笑った。
まあ書き方が微妙だったのもあるだろうとは思う。
なにぶん伝えにくいことだから。
「マイナスじゃなくてゼロなんだ」って言ってる人もいたけど、それは本質的な問題じゃないわけ。
俺が問題にしているのは「差」。その差ゆえに生じるもの。
それを「貶める」などと便宜的に呼んだけれど、マイナスだとかゼロだとか貶めるだとかいや貶めるってとこまではいってないよ何も感じてないだけだよとか「どう呼ぶか」はどうでもいいのだ。
そこを分かりやすく書こうと思ったらうっかりさんたちに勘違いされちゃったけどね。
しかも「こういう考え方だとある人を好きになったらその人を好きになると他人を貶めることになる、と苦しむことになる」などとテンプレのようなおかしいことを言ってる人がいて笑った。
苦しまないよ。
他人を貶める、というとまた語弊があるかもしれないが
ある人を好きになると他者はその人より「差」が出るのは確かなのだ。
違う側面ではそうでないかもしれなくともある観点では確実にそうである。(わかるかな?この意味)
そして俺が実際誰かを好きになれば、必ず他者と「差」が出る。
しかし俺は苦しまない。そもそも「だからだめだ」なんて俺は一言も言っていないのだ。なぜそこを読まないのか、読めないのか、分からないが。
差が出ることを承知の上で俺は好きになる。そういうこと。
俺は別に博愛主義者ではない。
結婚に価値を置くのも別によい。ダメなどと一言も言っていない。
要は「差が出ていることを了解しているか?」という話だ。
了解していない。無邪気に(というか無知ゆえ)いいことだと手放しで喜ぶ。
そしてそうしないものに「なぜそうしない」と言う。
(勘違いしている人がいたが、おめでとう、といっただけで「俺たちの価値観コードに従え」と言っていることになるとはいっていない。「なぜ素直に喜べない」と言っている人がそうである、といっているのだ。ちゃんと読んで欲しいよほんとうに)
俺は「おめでとう」と言っている人に文句を言っているのではなく
「なぜ素直に喜ばない」と価値観を押し付けてくる「無邪気で」「素直な」人に言っているのを間違わないように。(あれだけかいたのに、勝手に「おめでとうと言うだけでそんな目で見られるのか!」と脊髄反射している人の多いことよ。なんで読んでからモノを言わないのか)ま、「被害妄想」もいい加減にしてくれってことだ(笑)
全部読んでみたけど、「む、これは痛いところをつかれた」という反論は一つもなかったな。ちょっとがっかりだ。これじゃ俺の得るものがないじゃないか。
田舎で生まれ育った俺には、元記事が釣りなのか、それともよっぽど適応力がないとしか思えないんだが。
でも、都市部で育った人に対しては、こういった明らかにおかしい情報でも田舎とはこういうものなんだと信じ込ませるには十分なんだろうな。
都会に住んでみて思ったことは、そこに住んでいるだけで「お客様」だということ。基本的に金さえ払えば誰かがやってくれる。賃貸住宅に住むのも電車に乗って移動するのもお客様。よく宅地やマンションの広告で「憧れの街に住む」ってあるでしょ。住民がお客様でないとそんなこと言えないもん。
それに比べれば田舎に行くほど自分でやらなければならないことが増えてくる。地元住民が自分でやっていることまで都会にいたときのようにお客様感覚で生活していては当然お金もかかるわけで。
あとは、田舎といっても千差万別だし、一律に都会>>田舎なんて決めつけて、気に入らないことがあると何でも「これだから田舎は」なんて言ってたら、ますます住みにくくなるから、もしそういう変なプライドに固執しているなら、早く考えを改めるのが自分のためにもなる。
ハローワークで求人票の給与帯を見るのも、優越感を持ちたいからじゃない?そんな考え方では対人関係もギクシャクするでしょ。田舎だと余計に顕著になるし、内心見下している相手だと余計に。
「住めば都」じゃないけど、これは都会と田舎の二元論ではなく、いかにその土地に適した生活をするかという問題だと思う。そこから脱却できないと、ただ都会に生まれたことだけで無駄にプライドの高い、つまらない人間として人生が終わってしまうでしょう。
逆に、ここでうまく地元に馴染めれば、将来出世して本社に戻ったときに、嫌味な感じが抜けて人望が厚くなると思うんだ。だから頑張れ。
あとそういうやからはDQN男とオタ男を完全に切り離したものと考えている所も気になる。オタ且つDQNという存在も結構いると思うが……「なぜ俺に彼女できなくてDQNに」っていうが、そういう奴に彼女ができたら、DQNな行為を彼女にするかもしれないのに。大体DQNは最初からDQNじゃないからね。付き合い始めはDQNさを見せないからひっかかるんであって。それを安全な第三者の目から「そんなのひっかかるなんて人間を見る目がない」とか嘲笑するのは簡単だけど、果たしていい人間か否か見分けるのってそんなに簡単なことなのだろうかね。「人間を見分けられる」ということじたいほとんど幻想な気がするが。フリーターに対してフリーターなのはお前だけのせい、という反論より酷い実体のなさ。
酷いのになるとDQNとオタの二元論になったり。それはあれだろ、ポンスでかぼすかすだちか争ってる社長二人へ、「待ってください、それはズレてるんじゃないですか?一般的な料理店では、ポンスには橙をメインに使います。かぼすもすだちも少数派です」という山岡の言葉をそのまま改変して、「それはズレてるんじゃないですか、一般的な男性は、ガチオタでもDQNでもないです。オタもDQNも少数派です」みたいにいいたくもなるっつーか。