まず、みんな凄く一般論が好きだということが言えると思う。
自分の経験から帰納して一般論を導くことに凄くこだわりがある。
もちろん、具体例から一般論を見つけ出そうとする努力は凄いものだし、人類はそうやって進歩してきたのだと思う。
例えば、モテの男性にバカにされた、という具体例から、すべてのモテ男性はすべての非モテ男性をバカにしている、という一般原則が導かれたりする。
これはいくらなんでもやりすぎだ。非モテをバカにしないモテもいるし、モテにバカにされない非モテもいる。どちらの具体例も俺は知っている。
自分の持っている一般論を尊重するあまり、単純すぎる二元論もまかり通る。
また、オサレなモテとダサい非モテという分かりやすい具体例から、オサレ対ダサという二元論も作り上げられる。
それぞれの間の断絶が物凄く強調される。そういう際立った格差が、今の格差社会の特徴だと言えるのかもしれない……。
けれど、街を歩く人たちは実際そんなにオサレなのか。彼女を持っている人たちは実際そんなにモテているのか。
彼女をゲットした人たちがみんな高度な恋愛テクニックを駆使したとは思えない。
むしろ、現実の恋愛なんてもっと散文的でみっともないものだと思う。
普通に服を着ている普通の人たちだって、ファッションに関して何か思想があるわけではないだろう。
恋愛テクニックを磨いたりファッションに思想があるのは一部の人だけではないか。
最近の恋愛やファッションが物凄く難しいものに思えるのは、それらが業界によって専門技術化されたせいだと思う。
昔は文豪の小説をみんな読んでいたけれど、今の時代に純文学を読むのは限られた人たちだけだ。文学が専門技術化されたからだ。
音楽もそうで、昔は(今で言う)クラシック音楽をみんな普通に楽しんでいた。いまそれらは専門技術化されて、限られた人だけの楽しみになってしまった。
それらと同じように、恋愛もファッションも敷居が上がってしまったのだと思う。仕事術とか「コミュニケーション能力」とかいうものも多分そうだ。
人間全体が底上げされていれば、専門技術化も悪くなかったかもしれない。
しかし、悲しいことに人間が身につけられる専門技術には限界があった……。
音楽や文学ならともかく、恋愛や服を着ることは普通の人が自然に行なっていることだ。
だから、モテでも非モテでもなく、オサレでもダサでもなく、グレーな普通の部分が実際には幅広くあるはずだ。
その幅の広い部分は、専門技術崇拝のはびこる昨今ではメディアが取り上げないので見えてこない。(あるいは、メディアが情報源として大きくなりすぎ、具体例が相対的に地位を下げたか……)
非モテからモテへ、ダサからオサレへ、何かとんでもない専門技術を身に付けて大変身しないといけないように思われているけれど、本当はグレーの諧調を少しずつ登っていけば良いのではないか。
まず靴をちゃんと磨くところから始めたり、職場の女性に対して顔を見ながら挨拶をするようにしたり。
中途半端で良いし、失敗して良いと思う。普通の人はみんな中途半端だし失敗しているのだから。
ごく限られた自分の境遇から一般論らしきものを引き出して、それで何かに勝った気になるのが一番危険だと思う。
理論というのは、それ自体の正しさや適用範囲とは無関係に人を動かすことがあるし、そうして誤らせる。
自分は非モテだからああなんだこうなるんだ、という理論に取り付かれて身動きが取れなくなってしまう。
一般論否定の文章を書いていて最後に一般論を述べてしまうけれど(汗)、非モテの人は理論が好きな人が多いと思う。
「論理」というよりは「理論」。あの場合こうなる、という法則を自分の中に蓄積し、それを頼りに生きようとしている人が多い。
敢えて反証を試みようとはしない。
実を言うと俺自身(非モテ)がそうなので、自戒を込めて。(汗)
(トラバの指摘を受けて改行を入れてみました(汗))
なんか読みにくい文章だな、と思ってその理由を考えてみたら適度な改行がないからだと思った
そこで重要なのは割合だと思うんだ。みんな適当な直感仮説でいいから割合を書けばいいのにと思う。 「○○だと△△だ」と断言してしまいがちだけど、実際には割合が高いという程度...
そこで重要なのは割合だと思うんだ。みんな適当な直感仮説でいいから割合を書けばいいのにと思う。 割合を書くときはソースを出せ、直感でいい加減なことを言うな と、余計に荒れ...
「理論」と言うか、自分はモテない→自分だってモテたい!って気持ちが何度か折れる経験をするうちに屈折して、 「恋愛はものすごく高度な理論と資質を必要とするもので、自分には...