2008-10-20

反婚中田氏ハッピー

この間京都で反婚掲げたデモとかあったし

中田氏ハッピーあたりの話でも

子供ができない人の事を考えろとかpgr」てな話がでてきたりしているが

こういうとき結構多数派を占めるのが

「いや普通にめでたいことなんだから素直に喜んでおけよ…いちいちケチつけんな」

とかいう感じのコメントなのな。

はてなでも(というとはてなを幾分変な目で見てしまっているかもしれないが)そうなのだから世間はなおさらそういう人の比率が高い気がする。

「素直に喜んで置けよ」的なことはしばしば言われるが

そもそも、「素直」ってそんなにいいことか?

素直に喜べばいいのに、というが、素直に喜ぶことっていいことなのか?

「素直に喜べばいいのに」というのは「素直に喜ぶ」ことが善だという前提が(すくなくとも言ってる側には)あるからこそ成り立っている言葉だ(じゃなかったら意味がわからん。「本がほしいなら盗めばいいのに」にはみな、「いやいやいや!何いってんの!」とつっこみたくなるだろう)。

しかしその前提である。

その前提がまずどうなんだと。

素直でありゃいいなんてまあんなわけないわけで。

おはようございます!先輩、今日ブサイクっすね!」とか素直に言われても困るしだな。

皆が皆素直であったらおそらくこの社会は成り立たない。

素直ってのはまず、そもそも別に「善」ではない。善になるときもあるが、善にならないときもたくさんあって、一概に善とは全く言えないのだ。だから、「素直に○○すればいいのに」という言い方は、その正しさが全く保障されていない。正しさというと、またあいまい概念で議論を呼び起こしそうなのだが、要は、「素直に○○すればいいのに」っていうのは「てか俺的にはハンバーグを食べればいいと思う」と同じレベルでしかない、個人的な好みをいってるだけのものにすぎないということだ。

そこにまず気がついて欲しい。

「素直に○○すればいいのに」

ときたら、だから、

「なんで?」と俺は聞きたい。

なんで素直にすればいいの?

問題はそこからなのだ。


結婚を祝福する。子供ができた人に「おめでとう」という。

なぜそれがいけないか。

(個人的にはいけないとか、結婚制度廃止すべしとまでは思っていないが)

要は、結婚を祝福すると、それは同時に、「結婚しない」ことを貶めることになるからである。

子供をおめでとうと称えると、子供がいないことを貶めることになるからである。

はぁ?!と思った人、ちょっとまぁ座ってくれ。

足が速い、というのは、一般的には「いいこと」とされている。

しかし、もともと、足が速いの遅いのということに、「いい」も「悪い」も存在しない。

「足が速い」のが「いい」とされているのは、人間が、そういった価値観定義したからである。

「足が速い」=「いい」ってことにしようぜ。

そう決めたからである(もちろんその定義はある日突然決まったのではなくゆるやかになんとなく根付いたのであるが)。

そう決めたから、足が速い子は称えられる。100メートル走でも足が速い方が「金メダル」なのである。

すべてそういったものは、自然にあったものでなく、人間勝手にそういった価値を付随させただけである。

もともとあるものは、ただ、「100メートルタイムが、10秒02である」という事実だけである。

「いい」とか「悪い」とか言うのはすべて人間が独自に決めたものだ。

あるのは、存在のみである。

そこで、「足が速い」というのを、「いいことだ」と決定するとする。

つまり「足が速い」ことに、価値を授ける。

そうすると、必然的に、その反対である「足が遅い」ことは、「価値がない」ことと「なってしまう」。

積極的に足が遅いことをけなそうとしたわけでなくとも、間接的にそうなってしまう。

価値を付随させる、あるものに価値を見出す、というのはそもそもそういうことなのだ。

あるものを際立たせるとき、それがそれだけで際立つことはない。

それに価値が出るのは、必ず「そうでない他のもの」との比較が根底にある。

結婚」「子ができた」ことを称える。

そこに価値を見出す。

そうするとそれは必然的に「そうでないもの」には、その観点においては、価値がない、ということになる。

勿論ほとんどの「結婚おめでとう!」と言っている人たちには、結婚していない人を貶めるつもりはないであろう。

しかしそういうつもりがあるかないかのレベルの話でなく、そもそもあるものに価値を見出す、あるものを喜ぶ、あるものを称えるということは、すなわちそうでないものを落とすことに等しいのだ。

落とす、というのは御幣があるかもしれない。どう見ても構わない。要は「差」の問題である。その「差」があるからこそ、価値が出るのだ。

人間は皆違うから、「差」が出るのはしかたがない。

問題は、その「差」に、人間たちが「いい」「わるい」をつけてしまうことだ。

そしておそらく反婚者や、子供ができない人のことも考えろ派は、その「価値観の前提」のところに疑問を投げかけているのである。

そこまで考えたことはないといっても、結婚をおめでとうという、子供が生まれたからおめでとうというこの社会は、明らかに「結婚出産はすばらしいものである」という価値観がある。

その価値観が、「間違っている」というのではない。

あらかじめその価値観が決定されており、そこに誰も何の疑問も抱かずその価値観コードに従っているということが問題なのだ。「この価値観で当たり前、何がダメなの?」といっていることこそが問題なのである。

「素直に祝っておけばいいのに」というのは、「このすでに存在する価値観コードにお前も問答無用で従え。なぜって?だってそうなってるから」っていうことなのだ。素直に、と無邪気に言う人のある種の怖さというか、なんか全体的に臭う「考えてなさぶり」というのはここに起因する。まー要は、そのまんま、(ほとんどの人がそうであろうが)何も考えてないのである。無邪気に既存の価値観コードに従って、それで満足なのだ(特に不便もないから)。自分が不便じゃないから、その価値観コードで不便な人が反婚だとか子供ができないひとのこともかんがえてくれと言ったところで、「知るか」「素直に従っておけ」なのである。少数派なんて知るか、俺達私達この既存の価値観で別に不便じゃないんだから、異論を唱えるあんた達がどうかしてる、こっちに有無を言わず従え、ってなことを、言っているのだ。しかしおそらく、本人達はそういうことを言っていることにすら気がついていない。「素直な良い人」であるつもりなのだ。

「でも、じゃあ、どうしろっていうんだ?そっちの価値観に変えればいいのか?そしたらそれはそれでまずいんじゃないか?一体どうすればいいんだ?何の価値も感じないまま、ただあるものを事実として受け止めていくだけってそれはあまりにつまらなくないか?そもそも実現が可能とは思えないし」

といいだす人がいるが、「じゃあどうするよ?」ってのはまた別の話だ。ここではそこまでやると時間がないのでやらない(てか俺にもわからんし)。

こういう話をするとろくに読まないまま「じゃあ隣のご夫婦子供が生まれても何も言うなというのか」とか反論になってない「つもり反論」を言ってくる人がいるのだが…そういう人はこんなエントリを読む前にまず詭弁論理学でも買って読んでいてくれ。

以下はつぶやき

…しかし、あの反婚デモは、言わんとすることは分かるのだが、戦略がまずかったよ。

この世の中に突然あれじゃ、そら伝わらんだろ。

あれじゃ「なんだか変なことを言ってる人たち」として消化されて終わりだ。

  • http://anond.hatelabo.jp/20081020032717 残念ながら足が速いことも子供ができて嬉しいことも 動物としての本能だから仕方ないな いわゆる論理と言う奴が100%有効となるのは人間が人間として機能...

  • http://anond.hatelabo.jp/20081020032717 要は、結婚を祝福すると、それは同時に、「結婚しない」ことを貶めることになるからである。 そうではない。 祝福する、と言うことは「プラスと評価...

    • お金で考えてみれば分かりやすいかと思う。 「貯金があるんだよ」これは「プラス」である。 「貯金がないんだよ」これは「0」である。 「借金があるんだよ」これは「マイナス...

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      • 自分が老齢に達したとき、年金や医療費、その他の社会リソースに伴う負担は、 次代の人間が背負うべきであるはず。 これは、自分の子供が居る・居ないとは関係なく 自分が若い...

  • この一連の流れの中で、素直が「善」なんて話あったっけ?

  • もしかしたらあのエントリーを、単純な二元論の話だと受け取る思慮の浅い奴がいるのでは、と書いたあと危惧していたのだが本当にそうなっていて笑った。 まあ書き方が微妙だったの...

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