はてなキーワード: ヱヴァとは
ヱヴァの破を見たんだけど、言いたいことはあるとしても、凄い出来だと思ったのは大体の人と同じだ。色々な議論があったし、その一部は読んだが、一つ思うのは、庵野は「守るものを守る」ために、金を稼ぐために己の全才能をつぎ込んだのであり、「媚び」に見える部分も含めて、観客が見たいもの(=驚きのある面白さ)を見せるために、最大限のサービス精神を発揮したと思う。もっとも、ひねくれ者のオタクの本性としての皮肉な部分はあったとしてもだ。
まー、そんなことはどうでも良いのだが、アニメ世代は、その下のゲーム世代に苦々しい思いを持っているのではないかというのは、私の直感だが、今回の件で、完全に、ゲーム世代は、アニメ世代に逆襲されてしまった。
ゲームというメディアの特徴が、インタラクティブ性、体験性にあるとしたら、映画館で見た破の体験性を超えられるゲームをゲーム世代は創れるんだろうか?栗きんとん事件の小鳩君ではないが、「体温が上がる」様なゲームを作れないなら、ゲームにこだわる意味が無くなってしまう。ドラクエ9は購入していないので分からないが、「体温が上がる」様なゲームだったんだろうか?
twitter のタイムラインから流れる都議会選の開票速報を横目に見ながら、時代錯誤な厚みと正方形に近い形状のブラウン管に映る政治家の無表情を装う苦しい顔を見つめると耳に入ってくる電車の音、ほのかな潮の香り、まとわり付くような湿った生暖かい空気を感じるとき、はてな民は自分のたるんだ白い腕が震えていることに気づき、その震えがクーラーもないような部屋や隣の住民が迷惑を省みない音量でサンボマスターがカヴァーした「あの鐘を鳴らすのはあなた」をヘビーローテーションしていることによるものではまったくないことを知る……。
はてな民はなにができるだろうか? 注目エントリー一覧から2chまとめブログの記事を探してきて読みふけること? アイマス動画をマイリストに叩き込んでいくこと? 自分のpostがさまざまなめりっとで取り上げられていないか定期的にチェックすること? ドラえもんに釘宮理恵がゲスト声優で出演したときに「くぎゅううううう」って叫ぶこと? はてなブックマークが付くことを期待して、アルファブロガーの記事を思いっきりDisる記事を書くこと? サブアカウントをプライベートモードで作ってエロサイトをブックマークしていくこと? はてサヲチスレに張り付いて特定個人を攻撃し続けること? 匿名ダイアリで「id:y_arim です。この前、美容室にいったんだけです。美容室。そしたらなんかもうヱヴァの話でいっぱいなんです。」と騙ること? 「リンクは許諾制です」という個人のファンサイトをブックマークして晒し者にすること? ブックマークにブックマークを重ねて、さらにブックマークを重ねて「馬鹿と煙は高いところに登る」とか書かれているコメントを一瞥だにせず、さらにブックマークを重ねること? ライフハック記事をブックマークして、「あとで読む」タグをつけて、あとで読まないこと? 上から目線の非現実的なブコメにはてなスターを連打すること? テレビを見ながら今までにやったことのないやり方でタダごとではない旨さのトマトソースを作ってしまうこと? ヨーロッパ旅行に行く日に空港まで行ってから、パスポートを忘れてしまっていたことに気付くこと? はてなキーワードの「子育て」を含む日記を追いかけて、主婦層の生活を夢想すること? あるいは twitter's fotolife に張り付いてかわいい女の子の写真を探すこと? 将棋オタクの取締役崩れにガツンと一言かますこと? 児童ポルノ単純所持違法問題に口は出すが、金と労力は出さないこと? 自分が炎上したら、プライベートモードに変更してアカウントを削除して何食わぬ顔で3日後にはてなに戻ってくること? 自分の書いた記事をプリントアウトして精神科に持って行くこと? 新サービスの開始と同時に XSS 脆弱性をついて遊ぶこと? あるいは CSRF のトラップを仕掛けること? 一旦ログアウトして、コメント欄で通りすがりざまに袈裟切りすること? 「原作の「櫻の園」は、簡単に言うと女子高生の同性愛を最大のテーマとしています」と書くこと? あるいは、ライトノベルに詳しくないのに「ゼロの使い魔」を「正統的なライトノベル」「非常にオーセンティックな、ライトノベルの鑑のような作品」と書くこと? iPhone を持って便座に座り、一本糞をひねり出すときの息みの勢いで 1get すること? その糞を流す前にプライベートアカウントに乗り換えて 2get して注目エントリー入りする素地を作ること? 流したらお尻を拭かずにパソコンで違うアカウントから 3get して注目エントリー入りさせること? id:finalvent の記事に100文字以内でクドクドとネガコメを書くこと? ネガコメを書きながら Air のトゥルーエンドを鑑賞すること? 病床の子供にネガコメを約束すること? あるいはたんにネガコメをすること……。
だが、できることといえば「死ねばいいのに」タグを付ける、ないしはたんにネガコメする。ネガコメする。ネガコメするのはきもちいい。ネガコメするのはいい。ネガコメはいい。あまったるくネガコメする。ねこのあたまをなでるようにネガコメする。きぬのようになめらかにネガコメする。めをとじてネガコメする。うたいながらネガコメする。きもちよくネガコメする。ブックマーク、きもちいい、ネガコメ、いい。やさしくネガコメする。どきどきしながらネガコメする。もえるようにネガコメする。かわいくネガコメする。さそうようにネガコメする。ネガタグ、めをほそめる、ほほがあがる、ネガコメ、あまったるい。ネガコメする。ネガコメにスターをつける。ネガコメにスター。へんなネガコメにスター。かわいくスター、へんな、ネガコメ、スター。ネガコメにスターネガコメにスターネガコメにスターネガコメにスターネガコメにスターネガコメにスターネガコメにスターネガコメにスター、へんな、ネガコメにスター。ネガコメにスターをつける。ネガコメにスター。ネガコメにスターネガコメにスターネガコメにスター、きもちいい、ネガコメにスターネガコメにスターネガコネガコメにスターネガコメにスターネガコメにスターネガコメにスターネガコメにスターネガコメにスターネガコメにスター、あまったるい、ネガコメにスターメにスターネガコメにスターネガコメにスターネガコメにスターネガコメにスターネガコメにスターネガコメにスターネガコメにスターネガコメにスターネガコメにスターネガコメにスターネガコメにスターネガコメにスターネガコメにスターネガコメにスターネガコメにスターネガコメにスター。
Qで初号機がシンジとレイの複座式になるのもAだから(シンジ=北斗、レイ=南)
ゴルゴダ基地からやってきたマリ(ゴルゴダの丘からやってきた聖母マリア)
で、この4体が「ゴルゴダ星」で磔にされる第14話で
男と女が合体した神人であるエースはそのコピーであるエースキラーと戦う羽目になる
ちなみにエースが変身した女のほうは実は月星人で終盤月に帰っていく 綾波がこの役目
というかTV版の当初のプロットはこれに近かった
Mk.6は、ウルトラマンタロウ(6番目の兄弟)の事
タロウはウルトラ兄弟の中で唯一ウルトラの父(アダム)と母(リリス)の直系の子
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「複座式になる」のソースってあるのかな?
本当かどうかわからないけど、面白かったので書き留めておく
一瞬俺のことかと思った(誘った男の方が)。
しかしよく読んでみたらディテールがかなり異なっているしそもそもヱヴァを見に行ったのは木曜のことだった。
ほっと胸を撫で下ろしたので応援しておく。なんというか、がんばってください。
http://anond.hatelabo.jp/20090705043823
「ああ、もうこいつら金儲けすることしか考えて無いんだな。」
と思ってそれ以降エヴァに金を出すことをやめたんだけど、
シト新生はそうだったかもな。
・・・ま、個人的には「ヱヴァをネタに無駄なおしゃべりする」ってのが第一目的だから
作り手が儲けてるだけだ、とかまでは考えてないなー
監督にとっては10年以上前の作品に改めて正面から向き合う、ってことで
「名探偵エヴァンゲリオン」とか「脱衣補完計画」とかより何百倍もましだと思うよ。
ヱヴァを昨日観た。まだ気分がもやもやする。増田で申し訳ないが、世間の絶賛の波に乗れなかった一人として感想を書き留めさせてほしい。(以下ネタバレを気にする人はスルー推奨)
旧作エヴァはとことん愚直に立ち止まって考えるアニメだった。「ぼくが何をやっても人を傷つけるだけだ、だったら何もしないほうがいい」。ロボットアニメの主人公がこんなことを言ってしまったら、物語はどこへも進まないのは誰が見てもわかる。あまりにミもフタもなさすぎる。だけどそこまで言ってしまうミもフタもなさに俺は惹かれた。ロボットに乗って戦う少年少女という「いかにもアニメ」な世界観を提示しながら、そこから視聴者を突き放すのがエヴァだった。
ああ、なのに。それなのに。10年経って帰ってきたのはいかにもヒーロー然とした碇シンジとそれを取り巻く生暖かい級友たち、そして予定調和がいっぱいの「いかにもアニメ」な世界だった。あのメガネ娘が空からシンジに衝突して「メガネ、メガネ…」と地面を撫で回し始めたところで俺はげんなりした。さんざんあれこれ遠回りして、結局戻ってきた場所がここかと。製作者は「アニメ的なお約束もネタとして楽しめるようになったんですよ」というつもりなのかもしれないが、単に居心地のいい世界に帰っただけにしか見えない。メガネ萌えというカルチャーや、美少女が主人公にぶつかるお約束を知らなければ、そもそもあのシーンの意味すらわからない。昔、あんなに「現実に帰れ」といっていたのは何だったのか。安野モヨコの漫画に対して「現実と向き合っている」とか「EVAでやりたくてできなかったことが実現されていた」と絶賛していたのに、そこから何も学ばなかったのか。
アニメの世界には、主人公にとって都合のいい女の子しか出してはいけないという憲法がある。旧作エヴァはその点を一応押さえつつも、あくまでも他者であるというエクスキューズを忘れていなかったと思う。アスカはシンジを最後の一線で拒絶していたし、レイもシンジに完全には心を開かなかった。それに比べて今作は、「シンジが望めば普通にやらせてくれそうな女子」が多すぎる。反吐がでそうだ。
そして何より、正真正銘のヒーローになってしまった碇シンジ。俺が思うヒーローの条件はいくつかあって、理由なく周囲から好かれていること、敵を倒すことに疑問を持たないこと、そしてストーリー上重要でない人の存在を簡単に無視できることだ。ハリー・ポッターは悪人にもそれ相応の事情があるかもしれないなんて考えもしない。「この卑怯者め!」と言って打ちのめすだけだ。エヴァはそんなアニメじゃなかった。敵である使徒も本来は人類と平等の可能性をもった兄弟であり、一方でシンジの一番の敵は父である碇ゲンドウだという背反する設定こそが、エヴァをのドラマ性を高めていたはずだ。それが今作の使徒の描き方はどうだろう。あれじゃただのモンスターだ。特にあの空に浮かぶ球体のあいつ、シンジに心理攻撃を仕掛けた16話の使徒のエピソードがカットされてしまったのが痛い。使徒は憎むべきモンスターだという、ただそれだけで、シンジの心を映す鏡ではなくなってしまった。そんなの悲しすぎる。
今作のシンジは紛れもなくヒーローだった。カッコよすぎるくらいカッコよかった。本当は俺もシンジ君のカッコよさに素直に感動したい。褒め称えたい。でも、最後に一番大事な人の名前を呼ぶのに忙しくてもう一人の重傷者のことを完全に忘れていたところで、俺は動揺してどうしたらいいかわからなくなったんだよ。一番嫌だったのはあの「せめて●●だけは助けたい」ってやつだ。なんだ、その都合よく話をまとめるためだけの安い台詞は。要するに「もう一人の話は次回の映画で伏線回収するので、いまはこっちの人に集中してくださいね」ってことか。物語的にはそれでよくても、俺はよくない。そんな製作者のご都合主義が匂ってくる台詞をシンジから聞きたくなかった。そうやって感情を整理できるようになったんだね君は。立ち止まって考えるのをやめて、物語のために必要な台詞だけを吐けるようになったんだね。それが「大人になる」ことだって言うのなら、エヴァにハマったあの頃の俺を返してほしい。
幸福の科学のアニメじゃあるまいし、あの程度の葛藤を乗り越えたくらいで頭から天使の輪が生えてくるのも気色悪い。こんな鈍感なヒーローが「人間を越えた天使」になるなんて、馬鹿も休み休み言え。正直に言えば、旧映画版でもシンジだけが特別な人間として生き残ることには違和感を感じていたんだが、あの時はシンジがあそこまで自己否定して追い詰められた後だったからまだ理解できた。それがどうだ。こんなに易々とカッコよく天使になってしまう今作のシンジ。現実世界にどれだけの絶望が転がってると思ってるんだ、もう一度「鳥についばまれて左目の飛び出た弐号機」からやり直して来い!
確かに旧作エヴァは病んでいた。エヴァを真面目に自分に当てはめようとすればするほど、自意識でがんじがらめになっていく感じはあった。だけどそこを出発点にして、みんな別のところに辿りついたはずじゃないのか、と思う。自分の場合、旧作エヴァを観ていた頃は熱に浮かされて「エヴァ的なもの」以外への興味をなくしていた。だけどそのあと、エヴァと全然違う面白さを持つ漫画や小説、映画とたくさん出会った。現実の生活にも10年分の変化があった。その中でエヴァという作品と距離を取れるようになり、エヴァを咀嚼して自分の血肉にできるようになっていったと思える。あの時エヴァにはまったほかの人も、それぞれ辿りついたんだろうと思っていた。その出発点が、今作で否定されている気がする。昔の友達にもらった手紙を大事にとっておいたのに、久しぶりに会ったら「あれ、なかったことにして」と言われた気分だ。
『序』『破』を見ていて飽きないのはわかる。映像に惹きこまれるのもわかる。だけど皆、こんな切実さのかけらもない馴れ合い世界で本当に満足なのか。スペクタクルと萌え要素があればそれでいいのか。こんなものが50年後に残る傑作だなんて、何かの悪い冗談じゃないかと俺は思う。
ヱヴァンゲリオン新劇場版、序を観たときは、そのあまりのつまらなさに驚愕した。
全く心に響くものも残るものもなく、「ああ頑張って絵を描いてるなー」としか思えないまま映画が終わった。
で、その時は「あ、俺はエヴァを卒業したんだな」となんとなく思ってた。
でも、破を観たら、やっぱり面白くないんだけど、それは「俺だけが卒業出来てなかった」んだと気付いた。
みんなエヴァなんてとっくに卒業していて、いやあシンジ君成長したねえ嬉しいよ、と余裕な態度で観ていることに驚愕した。
お前ら、いつの間に卒業したんだよ?
っつーか、最初から俺だけが卒業してなかったのか?
ま、だからといってこうなるともう今更卒業する気なんてのも起こらないし、今後エヴァがこっちの方向に行くならまあそれはそれで俺がどうこう言うことでもなく、今後は「いやあ俺はテレビ版と旧劇場版以外あんま好きじゃないんだよね、ああでも作画は新劇場版のがいいよね」と偏屈なオタクとして生きていくだけなんだが。
旧作のエピソードを引用しつつ全く違う話をしている、という感じ。例えが極めてアレですがファントム・メナスみたいだ。
とりあえずみやむー壮健でよかったというのと、式波エロいよ式波
あとイラストリアスさんはどうも何某ぽいですね、と思ったらこれみんなまとめて大化けするという寸法か?それはそれで凄い
んで思ったこと、98年当時俺は二十代前半ですからモロに影響されてしまい、その後の人生棒に振りかかったりで、今からすればバカだなあと思いますが正直申しまして二十代前半というのは比較的バカだよねと思う。俺ほどではないにせよ。それはまあしょうがないし、今は本題ではないのだが
それで今回見てみて、総じて新旧世代に対するダブルミーニング的な作りですが(偉業です)、これ旧世代に対する嫌がらせもしくはギャグなんでは、という場面もいくつか。つうかあの歌が始まったときは笑った。しかも二度までも。しかもなんだか赤木博士の長台詞始まってるし、うわこれひでー(苦笑)と思ったんだが
とはいえ、またぞろあすこでクラシックを持ってくるのも変だし、というか旧世紀版過ぎるし、尺延びちゃうよね、というのはわかる。旧版のあの痛い感じをさくっと後世に伝えようとしたのかわかりませんが、当時を知る者としては、お前らが鬱々としていたものは結局こんなもんだ、と言われているような気がしてむしろ救われた。ありがとう。そうなると、次は客席の大部分を埋めていた若者がどう思ったかが興味深いところ。
それで今後もだらだらと痛いのだろうかと考えると、小顔メガネの動向がわからない。
ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破を観てきた。
前半はただただ映像に圧倒されていた。
途中から段々と胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
「バカにされている」と思った。
はっきりとした理由は説明できない。
なんだかよく分からない敗北感を感じた。
観てしまったことを後悔した。
好きか嫌いかで言えば嫌いだと言える。
けど、もう一度観たいかどうかで言えばもう一度観たいと思う。
なんでだろうなぁ。
東のエデンを見ている最中は、これが新しい物語を作る00年代というものかと思ったが
あの最終話では終わらない物語を終わらせるという事にはならなかった。
終わらない物語というものは物語自体の繰り返しであり、物語の外へと広がる物語も
含まれるが、エヴァンゲリオンはその意味で終わらない物語のエポックメイキングだった。
そしてミームは広がりエヴァは終わらない物語を何やかんやで10年も続けたわけだ。
しかし世の中の大体が80年代、90年代で括られるように00年代というアニメがそろそろ
規定される頃だろう。そして00年代は東のエデンになる、という人も居た。
確かに東のエデンには、エポックメイキングたらしめる要素があっただろう。
特に、ノイタミナという枠は流行という面で他のアニメには真似できない要素である。
流行=面白さでない事は確かだろうが、流行⊆面白さという側面はある。
ガンダムは終わった物語だったが、流行したからこそ面白さはより深くなっていった。
時代を規定するものにはやはり流行というものが必要だろう。
しかし様々な要素を含んでいた東のエデンも結局物語を閉じて一つの面白いアニメ
で終わった(劇場版を残しているので現時点で)
結局物語のパッケージの中で引き出すものが無い時点で、象徴的なものにはならない
のだろう。
何故こんな事を思ったかというと、ヱヴァンゲリヲン 序に次いで破においても、終わ
らない物語を終わらせるという点を意識出来るからだ。何故かは破を見て欲しい。
庵野秀明は10年に渡ってエヴァを超えるアニメは無かったと書いていたが、終わらない
物語を終わらせる役割が居なかった事を言っている、と思う。だからこそヱヴァで
古い人類を消して新たな生命を誕生させるという試みを見せるのだろう。
(という事を誰かが書いていたような気がするものの見あたらなかったので頭を整理してみた
大事な話が抜けている気がする)
痛いニュース(ノ∀`):「もしもヱヴァを実写化するなら?」 アスカ役一位はしょこたん
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1174072.html
えーーーーーーーーーーーーー
<私の中vr>
碇シンジ: ?
惣流・アスカ・ラングレー:後藤真希(高校生頃)or沢尻エリカor榎本加奈子(昔)
碇ゲンドウ:?
碇ユイ:石田ゆり子
伊吹マヤ:?
青葉シゲル:?
加持リョウジ:韓流俳優 (オオカミの誘惑のチョ・ハンソンみたいな目つき)
鈴原トウジ:?
相田ケンスケ:
洞木ヒカリ:
こう考えてみると俳優の顔って思いつかないな・・・。
上のほとんど顔による印象です(苦笑)。
レイは本当はもっと薄い顔立ちの方がいいんですが
(上の二人は目がすごくぱっちりしていて大き過ぎるから)。
「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」を観に行った。2007/9/7金曜日歌舞伎町ミラノ1。仕事帰りだった。18:00に劇場に到着してチケットを購入し、そのままホワイエに通された。カウンターでパンフレットを購入してその後、モスでモスバーガーセットを購入。オレンジジュースを飲みながら時間を潰した。17:00の公演を逃して、次は19:15。公開時間まではあと1時間近くある。買ったパンフレットを眺めながら、まだ残暑の厳しい外に比べてエアコンディショニングされた劇場のホワイエで、ふと周りを見渡してみる。
そこに居たのは全く自分と同じ人々。年齢は20代後半から30代にかけて。それ程多くない。男女比率は同率程度。
10年前、僕は同じ劇場でエヴァ劇場版のAirを観た。それは高校時代後半の全てだったエヴァの最後を見届ける為、同時代のグルーヴ感を感じる為だったと思う。深夜、TV局が行列に並んでいる人に取材している姿を横目に見て僕は「お前らには絶対にわからねぇよ」なんて悪態をついていた。
あれから10年が経ち、僕はまた「ヱヴァ」を観に来ている。庵野秀明が全身全霊をかけて、僕達に叫んだ「お前ら、こんなもの観てるんじゃねぇ!」という叫びも虚しく僕は今、ここにいる。それは自分が選んだ道だけど、それでもスーツを着てここに並んでいる自分の姿は、傍から見て、とても滑稽だろう。
僕は携帯を取り出してさっき彼女から貰ったメールの返信を打つ。「大好きなのに・・・」と始まる彼女のメールを見て、お昼過ぎの痴話喧嘩を思い出す。二人はとても仲が良くてお互いがお互いの事を最も大切に思っているから、ちょっとした事で喧嘩をする。それは自分の気持ちが相手に上手く伝わらないジレンマのようなものだ。メールには友人と飲みに行くと書いてある。僕は「さっきはごめん。今日はゆっくり楽しんできてね」と携帯の単語予測から選択して手早くメールを作成し、彼女に送信した。
携帯の電源を落として改めてさっき並び始めた列の後ろを眺める。長蛇の列は劇場脇にある入口からホワイエまで続いている。優に40m近くはある。それが劇場両脇にあると思えば大した人数である事が予想される。
「何故僕は今、ヱヴァを観るのか。」
この問いはここに来る前からずっと僕の頭の中でループしている。その答えはきっと庵野秀明によってフィルムで示される筈である。でもそれ程多くは期待していない。何より僕は当時に比べて歳を取ったし人生経験も積んだ。離婚も経験した。それは僕の心に大きく影響して、僕の中から少しづつ童心の純粋さは失われていった。それを肌で感じていた。僕は十分に大人だ。それも随分腐った大人になっていた。当時とは違う。そんな事を考えながら立ち続ける。
凡そ40分後、劇場のドアは開けられた。中は比較的広く清潔だ。多分リニューアルしたのだろう。10年前とは違っていた。僕は中央付近の良い席を取る事ができた。席に荷物を置いてビールとポップコーンを買いに行く。ビールを飲む辺りに親父臭さを感じる。
席に戻ってポップコーンを摘みながらビールを飲む。果してどんな作品を観る事ができるのか。僕はとても楽しみに、少しの絶望を抱えながら、それでも楽しみにしていた。GAINAXの「トップをねらえ!2」に絶望し、「グレンラガン」に次世代性を読取った僕が、庵野秀明の最先端に触れられる瞬間である。時代を築いた映像作家の最新作。否が応にも期待が膨らむ。僕の前に「ヱヴァ」はどんな姿で現れるのか。ネット等で事前知識を何も仕込まずに観に来たのは、それが一番純粋に作品に触れられる方法と考えたからだ。僕はやっぱり何かが変わる事を期待していた。庵野秀明が何かを変えてくれることを期待していた。
映画は静かに始まって、劇的に幕を閉じた。
興奮する観客の中で一人僕はうっすらと涙を浮かべていた。それは感動の涙である。「ヱヴァ」は「エヴァ」ではなかった。それは全く同じキャラクターと世界観で描かれた純粋な二次創作物だった。「エヴァ」で面白かったと思われるエピソードを凝縮し、解像度を上げ、劇場作品として耐えられるクオリティにまでベースアップして新しく作られた「エヴァ」だった。「ヱヴァ」は「エヴァ」ではない。それは様々なガジェットで示されている。「エヴァ」が「ヱヴァ」としてリメイクされた理由、それは庵野秀明が「閉塞した時代」に風穴を空けようとした、という一点に収束する。「エヴァ」が批評的であり、文学的であり、映像芸術的であったことに比べて「ヱヴァ」は極めてアニメ的だった。それは「時をかける少女」が極めてアニメ的手法によってそれまでのアニメーション作品には無い全く新しい映像表現を目指した事とシンクロしつつも少しずれた感性である。
アニメ外の人間だった庵野秀明がアニメ内に入りエヴァで再びアニメ外に出て行ってしまった、しかし10年の時を経て再びアニメ内に戻ってきた。この波は彼が「ナディア」から「エヴァ」に到る際に経た道程と同じではないか?「ナディア」を撮って、もうアニメは撮れないと言っていた庵野が再びフィルムを撮ろうとした、あの「エヴァ」に到る道程と酷似してはいないか。
表現者・庵野秀明の本気は恐ろしい。彼の本気は時代を動かす。「ヱヴァ」は庵野秀明の憂さ晴らしでは終わらない。彼は再びアニメーションという表現を信じる事ができた。彼は再び物語が持つ強度を信じた。その事が僕にはとても嬉しかった。彼が10年前に三行半を突きつけたアニメーションを、どんなに蔑まれてもずっと追い駆けてきた僕は、そこに一筋の光明を見る事ができた。庵野秀明が再び信じたアニメーションという表現手法。それは日本が世界と鎖国し独自の文化として大切に育ててきた集団芸術、総合芸術である。宗教に並びうる文化的発明と言い切ってしまっても構わない。
アニメーションには未来がある。SFは子供たちに夢を届ける。ぼくらはそのファンクションを十分に生かして自らの人生を豊かにしなければならない。次世代へ繋ぐ夢を語り続けなければならない。素晴らしい芸術作品を創作し続けなければならない。素晴らしい芸術作品の下僕として作品に仕えなければならない。
ピラミッドが何故素晴らしいのか?万里の長城が何故人々に感動を与えるのか、東大寺の大仏や金剛力士像が何故現代でも価値を持ち続けているのか。その事について僕達は自覚的にならなければならない。ゴシックの大聖堂が持つ光と影が作り出すドレープの豊かさ、そういった表現が何故我々の心に届くのか。全てはたった一つの事に気づく事で理解できる。芸術とはそういうものだ。
「ヱヴァ」はその意味で十分に芸術作品足りうる。つまり「エヴァ」とは違った芸術的価値を持つ作品である。
「ヱヴァ」を観て涙を流した僕が思った事。それは「庵野秀明の帰還」と、「エヴァ」ではない全く素晴らしい作品の誕生の瞬間に立ち会えた事である。世界はまだまだ素晴らしい出来事で溢れている。