はてなキーワード: アジとは
>いつ過去の栄光にすがる様な事を評価したの?
わかりにくいかなとおもって削除したんだけどまぁいいや
>いつメディア出ること自体が凄い言うたの?
>>なんだかんだである一定の人気保って金稼げてるんだからそれはそれで評価できるんじゃねえのってことじゃ?
茂木に関しては、メディアに出ることも君のこの一文に十分含まれる
茂木の代表的金稼ぎ例として取りあげたんだけど、不満?
>あることないこと言ってアジんなや。
行間を僕なりに解釈したんだけど
じゃあ人気保って金稼げているとはどういうこと?
引用数が多いほうがいいとは言わないけど、無視にひとしい論文は価値無いよ。
旗振り(これもメディア露出みたいなのと似てるけど)みたいに、派手なことは言うけど
結局糞だからだれもついて行かない
斉藤さんにたいする反論も逃げ続けてるみたいだし。
もちおにパシフィカがあるってなにが?
それはそれで評価できるからなんなの?
>俺高校の時インターハイでベスト16に入りましたけど?みたいな
いつ過去の栄光にすがる様な事を評価したの?
>結果正しく伝えているかでしょ?
いつメディア出ること自体が凄い言うたの?
>脳科学やってる同業者からきちんと評価される人がメディアに出るべき
>だから元の増田はもちおは同業から見てどうなのか知りたいと書いてるんでしょ?
>タレント性は、あくまでも付加価値であって、本業が糞なら出ないほうが良いじゃん
一行目はわかるとして、彼らは本業糞なの?
梅田はパシフィカがあるし、茂木は一応学術機関で論文出してるけど「VCはじめたり論文学会に出すだけなら誰でもできる」ってか?
題名は半分釣りだが、梅田望夫の言いたいことって結局そういうことじゃないの。
これに始まる一件について騒動になってるようだけれど、何がそんなに騒ぎになることかわからない。こいつの言ってたことって前から変わってないじゃん。
だって、ネットが普及すればするほどその内実は実社会に近づいていくというのは自明の理なのに、畏れ多くもかけまくもかしこき知的エリート(笑)様がご創造あそばしたネットは知的エリート(笑)へのワナビーを導く高速道路(笑)でなければならぬ、という、要するに「世界は俺様の望むようになっているべきだ!」願望でしかないじゃん。
そんなの、いったい誰が望んでるんだよ。それだけ考えても、こいつの思い通りになるわけがないのは自明だったわけでさ。
誰もが成長(笑)を目指して自己啓発(笑)に励むべきだと思ってるのは、梅田のようなコンサル(笑)だけだってのに。本当に頭がいいならなんでそんなことがわからんのだろうかね。
つーか、こいつが裸の王様だってことに今まで気づかなかった連中は今まで何考えてんだ?「日本語が亡びるとき」みたいなトンデモ本を激賞して、そのアジ宣伝文が冷笑されるとヒステリックにぶち切れてる時点でこいつがどれほど「知」(笑)を極めているかは明らかだったじゃない。
こいつの言ってることって結局こういうことでしょ。
僕自身がはてなの取締役でいる限り、「(ネットユーザーに対して)お前たち、こうしろよ」とか「こういうこと言ってるやつはよくない」と言うことは許されないんだなと思ったんです。
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0906/01/news045_2.html
言い換えれば、そういうこと言いたかったわけでしょ。
だけど、なんだよこれ。誰も突っ込んでないみたいだから言うけど、自分の顧客であるはてなユーザにたいして「お前たち」とか「やつ」とか、どんな暴言?どんな上から目線?
要するに、自分はネットユーザに対し、相手がお客様であっても偉そうに命令して指図する資格があると勘違いしてる奴なんでしょこいつは。
どうしてこんな傲慢な奴を今まで支持してた奴が多くいたわけだ?
先日のオーストラリア戦で感じたのはコンセプトとシステムの限界である。
前回のユーロでのスペイン、C.ロナウドやメッシー、カカ、ロナウジーニョに代表されるようにサイド攻撃重視のコンセプトとシステムは世界を席巻している。
サイドを制するものが世界を制すと言う言葉はもはや常識とまで言える。
報道ではアジリティ(笑)を活かした日本のサッカーなどと持ち上げているが、実は世界の流行そのままのコンセプトであることは多くの人が気づいているだろう。
それでも、このコンセプトに誰も文句を言わないのは日本にとってそれ以上のコンセプトが存在しないせいだ。
日本サッカーはこれまで、コンセプトとシステムに泣かされてきた。
主戦場であるヨーロッパで活躍する選手が少ない日本にとっては、流行遅れも大きな弱点であった。
加茂は当時流行したプレッシングサッカー(ゾーンプレス)をコンセプトとしたが、それに見合わないシステムを導入したことで流行に乗ることが出来なかった。
トルシエは、3バック&司令塔システムをサイド攻撃ガン無視超守備的5バック&司令塔システムに進化させたが、結局は4バック&司令塔システムにはかなわなかった。
ジーコは、スタープレーヤを並べることだけを考え、超時代遅れブラジル型個人技重視ボックス型中盤システムを構築した。「システム(笑)?自由最強!」だった。
オシムは世界で最先端のコンセプトとシステムを日本に残してくれた。
しかし、このコンセプトとシステムもいつ時代遅れになるか分からない。
その証拠に、このコンセプトとシステムは、もはや珍しいものではなくなっている。
全く日本独自のものではない。
なんて難しいことだろうか。
今のコンセプトとシステムそして選手であれば、昨日のオーストラリア戦がベストなのではないか?
今のコンセプトとシステムで行くならば選手がレベルアップするしかない。
それも、C.ロナウドやメッシー、カカ、ロナウジーニョに肩を並べるほどに。
理屈的と感情的の間にある、ちょうどいいバランスの取れる場所を探している。
ひどいのになると「赤ちゃんがかわいい」ことについて理屈を求めたりする。
(学問の分野としてはもちろんありだけど、日常会話でそれってどうよ?)
理屈が先行、暴走するのはよくあることだし、俺も時々そうなるときはある。
例えば、女性のよく使う「生理的に無理」に理屈を当てはめてしまいたくなる。
「生理的に無理ってなんだ?別にこいつ顔がキモいわけじゃないのになんでそんな風に感じるんだ?」的な。
あと、感情から出てるものに理屈をつけたしていく人とかもいるよね。
(でも、理論ってのは主張に理屈をつけたしていってできたものだったりするんだよなぁ。)
男同士でもこうなのに男女になるとさらに難しい。
思うに、女性は感情という言葉を良く使うし、感情が生まれること自体を『手放しで』肯定する傾向がある。
かく言う俺も女性に「理屈的すぎる」とか、もっとすごい言い方だと「俯瞰的すぎる」とか言われたことがある。
俯瞰的すぎるってなんだよそれー!
いつも不思議に思うんだが、何かにつけて池田大作は在日だとか、「フランスではセクト指定」みたいな言い草であの人の教団を一笑に付す人居るよね。
俺の職場にも一人居たんだが理由を聞いてみると、中国の温家宝首相と会談したときの「庶民の王者」発言が気に入らなかったらしい。それ以来カルト宗教としてレッテルを貼っているようだ。あの学会は確かに末端のレベルではおかしなことをやってる(たとえば選挙直前になると同じ学校だっただけで話したこともない奴から投票依頼の電話が来るとか)が、一個人があのレベルまで信者を押し広げて政治を動かせられるというのは俺からすれば賞賛に値するし、あんなアジテーターが経営陣に居たら俺は安心して仕事ができる(直属上司としては何とも言えんけど)。あの定額給付金についてここでどうこう言うつもりは無いので置いとくとして、俺が言いたいのは、なぜ人は政治家や宗教人の発言だと容赦なく辛口になり、ともすれば重箱の隅をつつくことに尽力するんだろうかとうこと。
プロで三割ヒットを打てば優秀な打者と評される世界がある一方、100政策中100政策で突っ込みどころの無い正論を実行できない政党が三流だと言われる世界なんだろうか。みんな名誉会長を仏様か何かと勘違いしてないか。ただのおっさんだぞ。
あめちゃんのCMじゃないけど、彼らにとって池田大作はどうやら特別な存在らしい。10割打者であるべき聖職者が、たまに変なことやってると許せないんだろうか。聖職者に対する劣等意識が根底にあることは間違いないとは思うけど、それにしても何の反論にもなっていない脊髄反射ブコメを見てると情けなくなってくる。威勢よく啖呵切ってる奴がいるかと思うと、そいつの投票行動は大抵棄権だったりするし、あんな脊髄反射コメを1行書いただけで鬱憤が解消できるのだとしたら随分と人生楽にやっていけるだろうな。反論はできないけど、なんか気に食わないからとりあえず「政教分離」だとか適当に本筋とは別のところからダメ出ししときゃ気が晴れるっていうのもお手軽な精神構造だなぁ。羨ましいよ、「そうかそうか」って6文字書いておくだけで気持ちに折り合いが付くんだもん。俺の場合反論できないと悔しくて夜も寝られん。
新興宗教でも民主主義国なら政治のことでもどんどん好きなことやりゃあいいと思うんだけどな。学術活動のつもりでやってるわけでもないでしょうに。政治を楽しんでるよあの人。みんなは票を入れるときに、候補者の宗教や所属組織がどうだとか、そんなつまらないことが足かせになって投票を躊躇するの?
それを言い出すと、はてブや増田ならいいの?という突っ込みを入れたくなるんだが。
追記:
つうか、一部にせよ、大した話でもないのにあんだけヒステリックつうかアジテーショナルにブチ切れてる人間がいると正面切って反論はしにくいよ、正直。だからいいとか悪いとかはまた別の話だろうけどさ。
追記2:
東さんが道徳家でないのは「まー、そうだよな……」という感じでスルーしちゃいますが、求めることも不可能ではない。でもそれはリベラリズムの批判にはならんと思うのでした。
「Apなんとか」っていう表現自体が人格批判を含意してしまっているから、この意見全体が意見に対する半数じゃなくて人格そのもののあり方に対する批判という形を取っていると見られても仕方がない状況だよねー。
まっとうな論評だと思うんだが、この程度で深読みして人格攻撃呼ばわりってどうよというか、「だよねー」ってのは誰に同意を求めてるんだか。
http://anond.hatelabo.jp/20081213141956
これにも関連しているけれども。
常野さん、こんなことばっかりしてたら、英語圏であろうが日本語圏であろうが「一流」になんかなれっこないよ。こんなことしてる暇があったら、論文書いて投稿するとか、知り合いの編集者さんに原稿読んでもらって、企画きちんと立てて売り込んで、とにかくちゃんとやろうよ。ちゃんとやろうと思えばやれる人なんでしょうあなたは。今だって語学教師としてはそれなりの自負があるんでしょう。だったら研究者として、あるいはライターとして、まともな仕事をしようよ。
ネットジャンキーでブログがやめられないんだったら、こんな下らない煽りじゃなくて、それ自体活字にできてお金を出して読んでもらえるようなコンテンツをきちんとあげようよ。
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20081214/p1
稲葉先生は確かに御親切で、常野氏にこう説かれているのだろうとは思うけれども、それはあまりにも相手に対して残酷だと思います。常野氏はもう31、分別がある年齢です。自分の能力も見えてきた年頃の人間が、精一杯考えて、自分がもっとも目立てる手法を選んだのがあの自爆テロだったのですよ。31ですよ、いい大人じゃないですか。そんな人間が、
「ブログを通して出てるんです、入っていいでしょう」
とまで幼稚な詭弁を口にしたんですよ。傍から見たらどうみても「みっともなさ」の極致です。でもそれは、常野雄次郎という人間が、現実に持っている存在感、レトリック能力、それを最大限駆使して、自分でもっとも適切な言動だと思って選び取ったものですよ。しかし、確かにこれが彼にできる精一杯のところでしょう。
常野氏の新しいエントリーで、
最後にあずまんへ個人的なメッセージ。
「煽る」っていうのはこういうことだよ。
井口先生じゃいい人すぎるから。
http://d.hatena.ne.jp/toled/20081215/p1
こう書いている。姜尚中ですよ。東さんと今回の件でなんの関係があるのか。要は、常野氏は論壇の有名人なら誰でもいいのか。次は黒柳徹子でも呼ぶのか。みのもんたか。これを読めばよくわかるように、常野氏はもう言論人として真面目に名を成そうとかそういう努力は、投げちゃった人なんですよ。彼がいま考えているのは、「論壇」の「顔役」と絡みたい、それで目立ちたい、しかしそのために自分の言葉を磨く、そういう努力は一切しない、そんなことです。なんでこうなるのか。彼がもう自分の能力を見切ったからですよ。本人がそうである以上、他人がどうこう言っても詮無いことです。稲葉先生のエントリーのコメント論で書いていますが、
私信よりもこうしてブログに書いてくれる方が百万倍うれしい。アクセスが増えるから。ただ、これはあずまんにも再三お願いしたことなんだけど、リンク貼ってくれませんか。Nさんの件で経験したんだけど、稲葉さんに紹介されるとアクセスすごいんだよ。できれば、↓にお願い。
なんというアクセス乞食の成れの果て。でも、もう常野氏には手段を選ぶ余裕はないのです。31ではもう、過去の彼のように、不登校ネタを売りにすることは無理がある。そもそも不登校なんて珍しくなくなってきている。彼は彼の売名欲的上昇志向を(敢えてここでは成功妄想とは言わないですが)支える手段が、齢31にしてなくなってしまって、難しいポジションなのですよ。
いや、こういうことはもう、稲葉先生は百も承知でしょうね。その稲葉先生に対して常野氏は叫び続ける。
僕は本気で「一流」になりたいと思ってる。しかもその素質があるような気がする。ただ努力を怠っている。勉強をサボっている。何かやっても、とんちんかんな方向に行ってしまって、進歩しない。それについて悩んでいる。
僕は「一流」になりたい。ちやほやされたい。500年後の図書館に本を残したい。強い願望です。
赤の他人からこんなこと言われても困りますよね、誰だって。常野氏のこの発言を目にしたら、大人なら誰でも思うでしょう。
「努力を怠っている。勉強をサボっている。」自分でもそうわかっているような人間が、なんで「一流」になれると思うのか、素質があると信じられるのか?
夢見る中学生じゃないんですから。いや、こういうことを言うと真面目に勉学やスポーツや芸術に励んでいる中学生に失礼だ。たとえ素質があっても、なにかの分野で「一流」とみなされる存在になることは簡単なことではない。つい易きに流れるのが人間でしょう。でもそれを省みて、また頑張ってみるのも人間で、多くの人はそうやって一流とまでは行かずとも準一流、二流くらいにはなる。常野氏は31にしてその入り口にさえ立っていない。立つことはできない。彼は立たないことを売りにして生きてきたからです。
「登校拒否系」の常野氏は、言論人である東さんに対して、言論人志望者としてまともに対することをしなかった。東さんの発言を批判したいなら、普通に一人で大岡山に行って、「東さん、あなたの発言にわたしは異論があります、それについてはこのような形でまとめてきました、この場は東さんが責任を持たれている講義の場ですからここですぐ対応をされるのは難しいでしょうから、自分のブログでもこの意見を発表しようと思います、よろしければご覧になって下さい」と言わなかったのか?代わりに常野氏はどう言ったか。
あずまんと波長が合いそうなネット右翼の諸君もたくさん来たらさらに楽しくなると思うよ。
糾弾会みたいなのは今回はやめとこうね。
こう言ったのです。誰がどう見てもこれは威嚇であり、脅迫です。東さんがこんなことを書いているのが来ると知らされて、友好的に対応するはずがない。学生になにかあったらどうするか、考えるのが当然です。それを見越して常野氏はこう書いたのです。後から言い訳はなんとでも言えるが、「そんなつもりはなかった」と後から言うのは脅迫者の常套手段です。
なぜこう言ったか?結局は常野氏が避けたのですよ、まともな議論を促すのを。彼は自ら望んで、「下らない煽り」に終始したのです。
それはなぜか。常野氏はもう、まともな言論人志望者であることさえかなぐり捨てているのですよ。彼はとにかくアジテーターとして目立って、名を売って、「ちやほやされたい」だけなのです。つまり、かつての不登校児が自分の無様なプライドを慰撫したいだけなのですよ。
言論のプロを目指すことは、悪いことではないでしょう。それならば、質の高い議論をする、そのことで少しずつ自分の存在感を高めることが王道でしょう。それをしたならば、図書館に五年なり五十年なり、その議論は痕跡を残すでしょう。その道を目指さない常野氏は、もう、負けたんですよ。そしてそれをいうならば彼は、これまで勝とうとしたことがない人生ですよ。それで「とんちんかんな方向に行ってしまって、進歩しない」でいないはずがない。それでなにか成果が上がれば、それは奇跡です。稲葉先生くらいのキャリアをお持ちの方なら、そんなことはもう、見えている。でも稲葉先生はこう呼びかける。
常野さん、こんなことばっかりしてたら、英語圏であろうが日本語圏であろうが「一流」になんかなれっこないよ。こんなことしてる暇があったら、論文書いて投稿するとか、知り合いの編集者さんに原稿読んでもらって、企画きちんと立てて売り込んで、とにかくちゃんとやろうよ。ちゃんとやろうと思えばやれる人なんでしょうあなたは。今だって語学教師としてはそれなりの自負があるんでしょう。だったら研究者として、あるいはライターとして、まともな仕事をしようよ。
ネットジャンキーでブログがやめられないんだったら、こんな下らない煽りじゃなくて、それ自体活字にできてお金を出して読んでもらえるようなコンテンツをきちんとあげようよ。
常野氏を擁護する人は、いろんなことを言う。例えば東さんだって、柄谷さんの法政の講義に潜り込んで、それでデビューのきっかけをつかんだという。でも東さんは、ちゃんと潜り学生なりの作法を踏んで、威儀を整えて、ソルジェニーツィンについての原稿を見て下さいと持って行ったわけでしょう。そのときの東さんは、柄谷さんに「彼の原稿なら読んでみよう」と思わせるだけのアピールをしたんでしょう。これは卑屈とか取り入るとか言うことではない。真っ当な手順を踏むと言うことです。
かたや、常野氏はなにをやったか。
あずまんと波長が合いそうなネット右翼の諸君もたくさん来たらさらに楽しくなると思うよ。
糾弾会みたいなのは今回はやめとこうね。
「ブログを通して出てるんです、入っていいでしょう」
といじましい嘘をついたのです。そして自分は最初、この経緯を隠して、常野氏の取り巻きは東さんを「ださい」だのなんだの罵った。「はてサ紅衛兵」は今回は東さんをリンチすることには失敗したようですが、その代わりにこういうかばい合いは発達しているのですね。でも、こういうデビューをする「言論人」なんてありえないでしょう。
あずまん、そうとう男を下げちゃったな。今回。
そこで僕から超ウルトラスーパーCの挽回策を提案します。
僕をゼロアカ優勝者にしてください。
知らない人のために言うと、講談社から10,000部の本が出せるというコンテストです。
そしたら、みんな思うと思う。あずまん、大人だなって。器として。これだけのいきさつがあった上でそうしたら。思わん?
常野氏のはなしは、なんでもやっぱりここに戻ってくる。目立ちたいよう、お金が欲しいよう、みんな僕のことをかまってよう(涙)。僕の話を聞いてくれよう、だからみんなで押しかけるよ。
どこまで虫がいいんだろう(呆)。教室を騒がせてここまで迷惑をかけた相手に、なお自分の売名への協力を呼びかける。もともとこれが言いたくって、東さんに絡んだんだろう。でもこれは、常野氏がもう他人が見えなくなっている、他者の心情を忖度できなくなっていることを実証しているだけですね。「これだけのいきさつがあった上で」「大人だなって」思わせるとかいうのは、正々堂々論陣を張って批判された場合であって、なんで「プンスカ、プンスカ、ピュー!」とか東さんをいかにも戯画化して書いていたアジテーターがその当の相手にまともな対応を期待できるのか、わからない。まして、SF大会なんかから何年も東さんに粘着しているストーカーまで同行して、これは嫌がらせ以外の何者でもない。まして常野氏はなおもこうも書いている。
糾弾っていうのは、たんに相手を傷つけるためにやるものではない。そうではなくて、相手に自分が間違っているということを自覚させることが重要とされる。だからそれは愛情と憎悪が複雑に絡み合った興奮から始まる。
けど、僕は歴史修正主義者に対して1%の希望も持っていない。必要なのは、対話でも説得でも論争でも、まして糾弾ではなく、暴力だ。
これはまたはっきりとした脅迫だなあ。「自分が間違っていると言うことを自覚させる」ために必要なのは「暴力だ」そうですが。常野氏にはもう、良心なんか残っていると期待はできないね。
稲葉先生はd:id:NakanishiB氏にも「まとまった原稿を書いて持ち込む」ことを勧めるけれども、自分が書きたいように書ける自費出版の同人誌に書いてなおパッとしない人に、いまさら広い土俵に連れ出してもなにもできないでしょう。かつてNakanishiB氏は小田島隆さんにもその悪文をたしなめられていましたが、残念なことだけれども、文章を書く力があまりにも独特な発達を遂げた人は、もう、まともな文章は書けない。
id:gerlingがこれもコメント欄に書いていたけれど、
> それ自体活字にできてお金を出して読んでもらえるようなコンテンツ
そんなものできないから東とかはあんな惨めな真似をしてるんですよ。
これは東さんではなく、常野氏やNakanishiB氏への当てつけに読めてしまう。人が悪いなあ。東氏の本はお金を出す人に読んでもらえているでしょう。それへの真っ当な批判なら、またそれにもお金を出す人がいるでしょうが、
「ブログを通して出てるんです、入っていいでしょう」
こういう人には誰もお金を出さない。常野氏は、この先、どうのたうち回って「一流」の夢を断念するまで足掻くのでしょうかね。それまで、いろんな人に迷惑をかけそうですが。
http://anond.hatelabo.jp/20081123161858
そこから話は突然「今年だけで法政大学の学生が20人逮捕された」という話に。
しかもほぼ起訴されたと。
20人てけっこうな人数だ。早稲田の麻薬禍よりひどいではないか。
しかしアジる人たちいわくそれは冤罪であり国家権力の横暴であり
保釈金を1人400万要求されている、彼らは何も悪いことしてないのに!
逮捕された理由一覧
政治活動したいなら別に大学の敷地内に拘る必要ねえじゃんという当たり前の状況判断すら出来なくなってる連中だから、なるべく(物理的に)近づかない方がいいよ。
大学側から再三止めろと言われてた点は無視するんだよな、こいつらって。
1Fにいると、おちおち本も選べない……くらいの音量。
とか言っていました。
せっかく目の前が本屋なのだから
そういった本をかたっぱしから読み
他の意見を取り入った結果としてそういう思考になったのか
非常に気になるところではあったのですが
そこから話は突然「今年だけで法政大学の学生が20人逮捕された」という話に。
しかもほぼ起訴されたと。
20人てけっこうな人数だ。早稲田の麻薬禍よりひどいではないか。
しかしアジる人たちいわくそれは冤罪であり国家権力の横暴であり
保釈金を1人400万要求されている、彼らは何も悪いことしてないのに!
……だからカンパしてくださいと。
目標金額は1億円。
400万×20人=……?
うーん、何から突っ込めば良いのかわからない。
とりあえず目当ての本が見つからなかったので手ぶらのまま本屋を出ると
さっそくその中の一人のおっさんがビラをもって近づいてきた。
とりあえず主張を聞いてみようとビラを受け取ると二言が「カンパお願いします」。
わたし「彼らは何をして逮捕されたんですか?」
わたし「親の金で行った大学で。大学は勉強するところじゃないんですか?」
おっさん「勉強もしてましたよ!」
わたし「そんなことしてて彼らは卒業後に働けるんですか?」
おっさん「わたしだって働きながらこうして活動してますから」
わたし「じゃあそのお金で保釈金出してあげればいいじゃないですか。
わたしは賛同できないな」
そういうと、おっさんのほうから離れて行った。
「最高の学生運動」といいながら(ビラに書いてる)、
アジってる人は皆一定の世代のおっさん&おばさんだった。
そういう大人が介入してる時点でもう、純然たる学生運動とはいえない気がするし、
お金の計算もおかしい時点で
「難病で海外での臓器移植をする○○ちゃんを助けよう」よりうさんくささがいっぱいだ。
あるとしてもこのおっさんのように冴えない感じの会社しかないのではないか。
と思ってよくビラを読むと1億の中には
誰も頼んでいないのに「闘う金がないからください」。なんというご都合主義。
セックスをしたいから風俗代をカンパしてくださいといっていのと大差ない気がする。
彼らが言うところの横暴な国家は、なかなか懐が広いと思うんですが、どうなんだろう。
梅田もっちーとダンコーガイの自己啓発(笑)の両巨頭が紹介した本には無批判に絶賛がつくといういつもの流れ。はてな村民がいかに自分の頭で考えない人間かよくわかるね。ちょっと前には、英語嫌いの益川先生が歴史に名を残す研究をしたという話が流れたばっかりなのに、すぐ忘れてしまってるんだから。
ま、そんなことはともかくとして、言語学を新書レベルに読みかじった経験があれば、この両氏の書評と著者のインタビューを読んだだけで、モチヲや弾のお勧めを期待してこの本を読めば期待はずれに終わることがよくわかる。誤解なきよう、私は「日本語が亡びるとき」が面白くない本だとは思わない。何しろ相手は小説家、本当のことであろうが嘘のことであろうが面白く書いて読み手に深い印象を与えるプロなのだから、それは期待してもよい。ただし、著者に言語学のバックグラウンドがない時点で、論としての面白さを期待するのは諦めるべきだ。SFとして面白いものが科学理論としてよくできているわけではないのと同様、純文学作家の言語論に学術的レベルを期待するのは酷というものだ。もともとそういうものなのだから、モチヲや弾のようにあの本を絶賛する人というのは、アジテーターとしての自分を売り込みたいだけか、アフィリエイトで稼ぎたいだけか、あるいはまともな議論とトンデモの区別が付かない程度の知的素養しかないか、そのどれかだろうと思ってしまうのは私だけか(そういえば一部のはてな界隈で人気な「温暖化懐疑論」の論者に気象学者が一人もいないのはどういうことなんだろうね?)。
そもそも、著者が言うような意味で日本語が亡びるというのが先走りにすぎるのは英語の歴史自体が証明している。英語がどうして、同じゲルマン語のドイツ語よりも、ロマンス語のフランス語に見た目が似ているかと気になったことはないだろうか。あれはノルマン・コンクエストの帰結である。英語は文化的外圧に曝されるどころか外敵に征服され、日本語と同じかそれ以上に外来語に「汚染」された言語なのだ。しかしその伝統からシェイクスピアをはじめとする華麗な英文学の伝統が花開いた。
日本語も、実際に「地域語」であり、現代と比べものにならない外圧に曝された時代があった。飛鳥・奈良時代や、明治維新期などはそれぞれ強大な帝国の圧倒的な文化力・軍事力の前に日本は存亡の危機に瀕していた。しかしそれらの時代に外の文化を大きく導入したことで、逆に日本語の文化は大きく栄えた。
単なる「国力」だけで、言語が「地域語」に堕し、その結果衰退するなどというのが俗論にすぎないことがよくわかるだろう。
そもそも、「日本語が亡びる」という問題意識自体、日本列島の言語を「日本語」という名で無自覚にひとくくりにしてしまうことの問題が現れている。アイヌ語や琉球語を考えてみるがよい。これらを「方言」と呼ぶのは無理があるだろう。しかしながら「日本語」の隆盛のもと、これらの言語文化は危機に瀕している。
いや、言い直す。そもそも何を「方言」とよび何を「国語」「標準語」と呼ぶかは政治的な産物でしかない。ポルトガル語やオランダ語は、かつてはスペイン語やドイツ語の一方言でしかなかった。デンマークでは読み書きができる知識人はドイツ語やフランス語を使っていて、アンデルセンやキルケゴールが現れる前の「デンマーク語」は「汚い方言」でしかなかった。
その意味で、日本の文化を見直してみるとよい。「遠野物語」のような地域の民話を語れるのは一部の語り部に過ぎないのではないか?いや、かつて日本の「中央」を荷った「上方文化」でさえ、衰退が甚だしい。関西弁はラジオ・テレビの成立以降、急速に流入した「標準語」の影響によって激しく変質し、江戸時代後期から明治時代にかけて成立した上方落語でさえ、若者や子供のかなり多くはまともに聴き取りができない。上方落語が日本の言語文化の貴重な財産であることは誰も否定しまいが、これを日本人は自ら衰退に追い込んでいるのである。人間国宝の米朝師匠が事実上現役を退いた今、その前途ははなはだ暗い。
あるいは地域的な変化でなく時間的な変化を見てみるとよい。能は勿論、狂言や歌舞伎でさえまともに聴き取れない日本人がどれほどいるか。源氏物語はおろか、明治期の擬古文でさえ現代語訳なしで読めない日本人がどれほどいるか。いやそればかりか、旧字体・旧仮名遣いの文章ですらろくに読めない人間とて決して珍しくあるまい。
このようなことになったのも、一つには近代化の推進のため我々が明治期と戦後に「国語」の成立と普及を強引に推進したせいだというと言い過ぎだろうか。世界に誇る日本文学などと言うが、我々が現代「日本語」を通じて享受できる文化遺産など、たかだか百年分ぐらいしかないのである。
というか、元々これはそういうものなのである。「国語」という概念は「近代国家」が政治的に成立させるものだ。「江戸の歴史は大正時代にねじ曲げられた」という本があるが、これによると実際、江戸時代では各地の方言を通訳する商売が成立していたという。あるいはフランスでは近代化以前、知識人はもっぱらラテン語で読み書きをしており、フランス語は単なる「俗ラテン語」のなれの果てでしかなかった。日本ではもっとひどく、仮名文字さえ実は統一されていなかった。変体仮名というのを聞いたことがあるだろうか。うなぎ屋の看板などで今もその名残を見ることができる。これらがきちんとした正書法と文法を揃えたのは疑いもなく時の権力の政治的な措置なのだ。
それを思えば、「今の」日本語がどういう形であれ変容するのは当然であり、むしろ「近代国家」という枠組みが溶解しかかっている(EUを見ればそれは明らかだろう)現在、無理に「国語」を防衛しようとする思想はまさに時代遅れのナショナリズム、保守反動でしかないとさえ言えるのだ。
からかい半分で書き始めた文章につい力がこもってしまったが、いずれにせよ、「守るべき国語」というのはかくのごとく、大いなる虚構だ。関西人である私がこのように完璧な「標準語」で読み書きができるように、北欧あたりではテレビを通じて完璧な英語を多くの人が身につけている。だがそれがいったいなんであろうか。言語の遣い手としては、一つの言語しか使えないよりも複数の言語が使えた方が楽しいに決まっている。考えてみれば、何の問題もないのではないか。
仮にそうした時代になろうとも、日本語でしか書けないような優れた文学作品があるのならば、日本語が読める人は必ずや読むであろう。日本語でなくても書けるものは、日本語で読む必要はない。そうなって困るのはいったい誰なのだろうか。「普遍語」を寡占してグローバリズムの伝道を行うことで糧を得ていた人、昔日の栄光に浸る老人、それぐらいしか私には思いつかないのだが。
b:id:Nean えっと、だいたいの論旨に異議はないんだけれど、水村は「国語」が「虚構」ということを知った上で書いてるってのがいつの間にか飛んでるんでない? 「国力」の論点も変ですぜぃ。
水村は「国語」の虚構性を半分ぐらいしか理解していなかったと私は思います。たとえばここで挙げたような方言の視点はほとんどなかったのではないでしょうか。水村は東京生まれということなのでおそらく気づかなかったのでしょう。私のような方言話者にしてみれば「母語が『現地語』でしかない状況」なんて「なにをいまさら」でしかない、というのがこの記事を書いた大きな動機の一つでもあります。
「国力」についてはその辺の地方人バイアスが入っているかもしれませんが、正直あまり自覚はできていません。