2023-08-09

ポリコレはどこに向かうのか

最近流行りのポリティカル・コレクトネス

この考え自体自分は好きだ。不当な差別は無くなるべきであり、どんな人間であっても幸せに生きる権利がある。

私もそう思う。私は、個人的には、自分の周りの人間もそうでない他人も、皆幸せに生きてほしいと思う。

そして自分も善良で正しい人間としてありたいと思う。そこで問題が発生する。

まず、いわゆる「弱者」について考えてみる。

大学特定役職などで増やされる女性LGBT割合。それは良いことだ。彼らにもその役職に立つチャンスを用意するべきだ。

しかポストの数には限界がある。切り捨てられる男性が出てくる。

私は女性LGBTはもちろん、男性幸せに生きてほしいと願っている。

さて。ではもし、自分社会的成功して何らかのポストを得たら。

自分の中で疑問が出てくるだろう。「なぜそのポストを恵まれない他人提供して降りることをしない?それが正しいと思っているのに。」

現時点でポスト他人に譲らない人についてはとくに批判しない。自分の考えを他人にも強要するのは正しくない。

では強要できない正義とは何か。それもわからない。

とにかく。

私には両親がいる。ならば、孤児院の子供たちと変わってあげるべきだったのではないか

私には多少貯金できるほどの経済的余裕がある。ならば、貧困で苦しんでいる人達にその金を渡すべきではないのか。

私は食べるものに困らない程度の環境で暮らせている。ならば、食うに困って衰弱している人達にその食べ物を渡すべきではないのか。

私は比較安全で豊かな国で暮らしている。ならば、そうでない国の人と変わってあげるべきではないのか。

この社会搾取される人間がいることで成り立っている。ならば、少しでも彼らの負担が軽くなるように、自分はいなくなるべきではないのか。

ポストや金はもちろん、食料や資源は限られている。ならば、少しでも多くの人に行き渡るように、自分はいなくなるべきではないのか。

現時点でポスト他人に譲らない人についてはとくに批判しない。自分の考えを他人にも強要するのは正しくない。

では強要できない正義とは何か。

文化の違いや考え方の違い。知能の差。これらを無視して一方的定義するのが本当の正義か。

私の心の中にしかない正義とは、本当の正義なのか。

本当の正義なのであれば、上記の通り、私はいなくなるべきだ。

長くなってしまったのでここで終わらせよう。

他の生命を喰らうことでしか生きられず、他人の上に立つことでしか生きられず、搾取される他人がいることで成り立っている社会しか生きられない我々にとって、本当に正しい世界を作ることなんて、はたしてできるのか。

ただ、諦めてしまったらきっともっと悪化してしまうであろう。叶わない夢を願い続けて、偽善に目をつむり続けるしかないのか。

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