子供のころ、大臣が「女性は産む機械」と言ったことで辞任を迫られたことを何故か思い出した。確かに、公職にある人が、体質的に子供を産めない方への配慮が無い発言をするのはまずかったのだろう。
歳を重ねると、どのような異性と居るときが楽しく感じるか、大体自分のパターンが分かるようになってきた。だが、そもそもプライベートの時間に異性と楽しい時間を過ごしたいのか。そもそもプライベートの時間に他人と時間を過ごしたいのか。。。
突き詰めると、結局自分が欲しているのは、自分のDNAを最も高尚に次の世代に残してくれる何かだと思うようになってきた。そして、その何かとは異性との楽しい時間とは全く無関係なのではないか。もちろん価値観やコミニュケーションのコードが近いことは、子供を育てるフェーズでは重要なのだろう。一方、育てるフェーズで関係に亀裂が入るのは大抵は当初は予期していなかったことに由来すると思われる。子供の病気、子供の人間関係、地域トラブル、介護、仕事。。。そうした想定外の出来事が発生したときに、楽しかった時間で確認したはずの諸々は意味があるのか。寧ろ、そうしたときに、挫折せずに前を向ける強い意思の源泉にあるもの、それは自分のDNAが最も良い形で残されることに対する確信なのではないか。
その確信はきっと、その何かの機械性に対するあこがれのようなものであり、もっと本能的な生物学的なところにあるのだろう。楽しい時間を過ごした二人が関係を深めてその象徴として子供が産まれて育てられるというストーリー、が現代社会では想定されているのだと思うが、その前提となるような「楽しい時間」を維持するコストが結局は化粧なりファッションなりSNSなりある種のフェイクを形成するコストに思えて、寧ろあるべき出会いのあり方を阻害している。もっとストレートで野蛮な、そんな出会いで良いのに。