国葬に反対するなら日本人じゃないというSNSの誰かのコメントをみた。
日本国籍を持つもの、もしくは日本列島に居住する民族を血統としてもつもの。
nationalityもしくはtribeの問題であるということらしい。
国葬という分断を広げた行事を契機に、日本人における新たな定義が生まれたらしい。
そういった定義を設けて私を枠の外へ追いやった人は私をどう定義するのだろうか。
その人が私を日本人じゃないと言い捨てれば、私は日本国の定める義務と権利から自由になれるのだろうか。
決してそうじゃない。
誰かがそんなことを言ったとしても、私は国の定義上は日本人のままだ。
だからこそ、そんな感情的なだけの言葉にはなんの意味もないのだ。
日本人ならば黙って国葬を行うという国の決定に従え、という一つの意見が出たときに、それを正しいものとして受容する人がいることが悲しい。
その悲しい人達と対話を図ることが、(言い負かすのではなく)分断を防ぐ唯一の道だと思うけれどそれを誰も望んでいないという時代に生きている。
だれかと自分の立場をそうやって決めつけて相手の鼻を明かしたいとか、同じ考えしか認めないとか、そう思ってしまう自分の考えだけが敵なのに。
私はリベラルじゃない。1960年代のヒッピーの血をひく(もちろんこれはもののたとえである)ラディカル左翼だからそう思う。
彼の死を契機とした日本の政治家とカルトとの関係が明らかになったとき私は右翼に同情した。
政治家たちがなぜそんなにも国外のカルトとずぶずぶだったのか。
政治家たちがカルトを信じていればまだマシだったのかもしれない。
政治家たちの多くはただ単にお金だとか地位のためだけにカルトに利用されたのだ。
右翼と呼ばれる人たちがその政治家を彼らの政治信条のために支持していたとしたら、手ひどく裏切られた気持ちになったに違いない。
どのように折り合いをつけて、ただ国葬に黙って賛成しろとまだいい続けているのだろうか。
異なる考えを持つだけで、何かの枠組みから私を排除しようとする人がいる。
その人は排除した私がどこに行くことを望んでいるのだろう。