最初に言っておくべきだが、私は村上春樹の熱心なファンである。
スプートニクの恋人以降、発売された長編は発売日に買って読んでいるし、短編も購入するようにしている。
だが、最近なんか違うなと思ってきた。最新の三人称単数に関しては、内容のつまらなさ自体が一種の文学的仕掛けなのかと勘ぐってしまったくらいだ。
それで例の発言だ。
誰もまずいものや健康に悪いものは食べたくないし、読みたくない。
言うまでもないがSNSは不味いどころか、モノによっては有害でさえある。
だが、育った環境や経済状況によってはまずいものしか身の回りにないという場合も充分にある。
善し悪しの判断基準を持たないということも充分にありえる。
そういう人に本物を届けるのも作家の役割だと思うのだが、村上春樹の視点からはそういう「市民」が欠落しているように見える。
誰もがクラシックを聴いて批評したり、ジャガーに乗ったり、ボストンマラソンを走れたり、アイルランドでウィスキーを飲めるわけではない。
例の発言は、読者のQAに答えた形の内容なので、恐らく本人は「個人的には〜〜だと思います。なぜなら〜〜だからです。ですが、別にSNSを日常的に利用している人に含むところはありません」
という気持ちで書いたのだろう。
とはいえ、村上春樹の視野のなかにストゼロを飲みながらふわっちを見ている人はいない。
村上春樹はかつて、「全体小説を書きたい」と言っていた。彼の「全体」のなかに、ストゼロとふわっちは含まれないのか。
文学とは、42歳の派遣社員がお見合いパーティーで3回連続で誰ともカップル成立しなかった時に、心の支えとなるようなものではないのか。