人生を振り返ると、
私はずっと推しに何らかの形で金をかけるということをよりどころにしていたんだなぁと気がつきました。
学生時代は「ふるまい」としてやってる部分が多くて、個人的に反省したりしてる部分もあるんだけど、
「推しにお金をかける」ことを支えにして労働をしていたんです。
「推しに金をかける」こと、あと「世界を解釈する」ことが重要で、ここがあったから何とかなってきた。
私にとって、金銭と解釈の対象になる推しは背骨にも等しいんです。
推しは唯一である必要はないし、唯一にするとリスクがあるから複数推しをキープしておいたりするけど、結局「その時の一番」は存在して、かなり私の中で重要な役割を持つわけです。最近読んだ文章を引っ張ってくると、「推しは逃避でも依存でもなく、背骨」なんです。
推しを突然推せなくなるリスクに備えて、複数の背骨をキープしてたりもしたけど、
先週からずっと薄い膜の内側にいるみたいに情緒が遠いところにあるんです。嬉しいも悲しいも、確かにあるけど、ぼやけて、反響して、掴めない。
お金をかける衝動も解釈する情熱も行き場がなくなって、「何かを頑張らなくちゃいけない」という焦りだけがあります。
頑張らなくちゃいけないのに、仕事は好きじゃないし、好きは見失ったし、そもそも好きなんて風邪みたいなものでいつか好きの気持ちは薄れるからそれを誤魔化す為に馬鹿みたいにいろんなコンテンツ見て触れて次の風邪をひきに行ってただけなんです。
皆だって、結婚や出産や出世みたいな「社会に善しとされるふるまい」ごしに社会と関わろうとしているんじゃないですかね。
そうして、「人生をやっている」感を得ようとしてるんじゃないんですか。
私がそれをできないだけで。
私が「それは私の背骨じゃない」と言っただけで。
まあ、結局推測でしかないですが。
「推し」や「善しとされるふるまい」の持つフィクション性に依って現実と関わる私達は、大した違いはないんですよね。
でも、私はその向こう側に行きたいんです。行きたかったんです。
フィクション性を自覚して、その先にある社会について現実について思考できるようになりたかったんです。
なれると思ったんです。
推しがフィクションであることは、私が何も考えずに微笑みを浮かべて遊ぶことができる公園だよってことじゃないって、知っていたかったんです。
抗おうとした熱が、今はもうよく分からない焦りとしてしか残っていないですが。
何が起きたか理解しようとしてないから、すぐ死にたくなっちゃうのかな。
何かを頑張りたい。努力したいよね。
猫でも飼ってみたらいいんじゃないですかね