もっといっちゃえば「コミュニケーション能力はないんだけどコミュニケーションをとりたがるし事実とってる人たち」ね。
ぶっちゃけ自覚のないセクハラ加害者って多くはこれでしょ。コミュニケーションって双方向通信だから、片方が劣っていても、もう片方が負担を大きくすればとりあえず成立するんだよ。この負担の一形態が「たまのセクハラを我慢する」とかだったりする。地方の中小企業の偉い人とか、あれがコミュニケーションだと思ってるし、実際その人にとっては出せる数少ないコミュニケーションのカードだったりする。
そういう人は(その本人が認識していない相手側の多大な負担の上であっても)とりあえずは自分が参加してるコミュニケーションが成立しているんで、自分にはコミュニケーション能力が当然のようにあると信じ込んでいて、その能力が低いだなんて思っていない。
これは才能ある芸術家とかもそうだよね。手塚治虫の自伝とか読むと、もう、明らかにコミュ能力に問題がある。けれど、周囲が負担して合わせているから集団として成立してる。
世の中の対人関係なんて厳密に見れば、殆どがこの片務的関係であって、今までそれが問題にならなかったのは組織における下側に受忍精神があったから(そういう人間関係がプリインストールされてたから)。組織に限らず、男女関係でも(どちらが上かは対象問題によるけれど)片務的/受忍的な関係が「当たり前」とされてきた。
村社会を回すためにはそういう関係を受容したほうが効率がいい(なぜならその関係を解消しても逃げ場所がないから)んだけど、世界が都市化して選択肢が増えて個人主義になったんで我慢する必要がなくなったって話なんだと思う。
問題はこういう「コミュニケーションにおいて負担許容量が高い(=多くの人とコミュニケーションを成立させられる、いわゆるコミュ強)人々」が「私らは確かにそういう負担ができるけれど、別に負担したいわけじゃねえんで、もっと居心地の良い関係の場所に行くよ」って一斉に移動したら、あとに残るのは、周囲に負担をかけてきたいばりんぼや怒鳴り屋や気難しい人や職人気質という言葉でコミュ負担をさけてきた人々なわけで、そんな人々が取り残された組織どうすんの? 速攻ギスギスオンラインだよ! っていうか、それが今の田舎の現状だよ! 田舎はどんどん居心地悪くなるよ! って話でさ。
なんかもう、その分解能がもう辛くてさ。 世の中は「コミュニケーション能力がある(そしてとってる)」と「コミュニケーション能力がない(そしてとってない)」の二象限じゃない...
あとは「コミュニケーションをとりたいし悪意は全くないんだけどその能力がない」者たちな。
もっといっちゃえば「コミュニケーション能力はないんだけどコミュニケーションをとりたがるし事実とってる人たち」ね。 ぶっちゃけ自覚のないセクハラ加害者って多くはこれでしょ...
でもキモくて金のないおっさんがハラスメントを受けたりや差別的な態度を取られる片務的コミュニケーションを強いられ続けても キモくて金のないおっさんにコミュニケーション能力...
「コミュニケーションとれてるつもりの発達障害者」みたいなのが厄介だったりするもんな。感情抑制機能がぶっ壊れてるから、本人は取れてるつもりでも定期的に噴火するから周りは...
「自覚のないセクハラ加害者」って概念怖すぎ 加害意図のあるなしに関わらず殺されるとか
でもさー「Aちゃん綺麗になったねえ、やっぱ結婚して旦那様に抱かれると変わるねえ!」とかもう、これ完全にキモい親父のセクハラ発言なんだけど、ほんの十何年かまえまでは、多分...
ぜひ近づかないでください!よろしくお願いいたします(*^^*)