最近話題のパラリンピックのポスターだけどさ、あれって結局の所はスポーツ選手の人生にやたらと感情移入しまくる風潮の成れの果てんじゃないかな?
スーパープレーにすげーすげーと驚くだけで良かったのにいつの間にか、『ベーブルースがホームラン打ったら手術をするよ』みたいな事をメディアと視聴者が繰り返しまくって何かあったら『勇気をもらった』になっちゃうからこんなに話が拗れるんじゃないかね。
もし皆がスポーツに対してもっとドライだったなら「せやな。まあ頑張れよ」で終わったんじゃないの。
まあでも、もしもそうなら今ほどスポーツ観戦って分野が盛り上がってなかった可能性は大いにあるよね。
スポーツの観戦において、勇気を貰いたいからルールはよく分からないけど試合を見に行きましったてにわかファンがどれだけいるんだろうか。
今ファンになった人の何割が最初はそういった形で入ってきたんだろう。
そういう人たちが払った入場料とか寄付とかでスポーツ業界の何割が支えられているんだろう。
そして、パラリンピックなんてまさにその「勇気をもらいたい」の集大成じゃない?
運動会で脚の遅い子が頑張って走るのを応援するような気持ちの延長線上にある感情を多くの人がぶつけてると思うよ。
そうじゃない人もいるだろうけどそれはきっと少数派だね。
大部分の人は可愛そうな人たちが頑張って体を動かす姿に感動したくて応援しているのが分かるよ。
少なくともメディアはそういう方向に誘導しているし、「障害があるからじゃなくて純粋に凄いんですよ」と口にするときでさえも「障害があるのに障害を抜きにしたプレーが出来るなんて凄い」が見え隠れしてる。
そしてその中には「あの人も(障害があるのに)頑張っているんだから自分も頑張らなきゃ」がタップリと含まれているんだよね。
そうして「私も頑張ろうって気持ちを貰いました」の応援が降り注ぐがゆえに大きな大会を開いてもらったりサポートを受けている立場にいるのに、「アレはあくまで私の個人的な感想」って言うのはなんか酷くない?
じゃあ今まで「障害があるけど頑張る人たち」に対して「苦手な事があるけど頑張って生きる自分たち」を重ねたからこそ応援していた人たちはどうなるの?
今更、まるごと切り捨てるの?
それって流石にちょっと酷じゃない?