もし読む人がいるとしたらそういうつもりで読んでいただきたい。
要するにsacrificeである。
要するにというかそのままなんですが。
で、この自己犠牲というのはとても男性的というか、逆に女性的というか、
女性の体の仕組みとして実に自己犠牲的であるのかなと思ったというのは、
要するに(時に命を賭して)子供を産むということです。
種を生かすための仕組みが個体を殺すことがあるってどうなんだろ。
で、その仕組みを体に持たない男性(主語が非常に大きいがここはあくまで体の仕組みのあるなしの話なのでご容赦いただきたいし、女性であるがそういう仕組みがそもそもない、あるいはもはやない人についてははしょらせていただきたいし、あとそんな難しく考えられない)は、なんというか反動的に女性性に対してそういったものを求めてしまいがちなのかなと思ったわけです。
んでこう、求めるというのは押し付けがちということなんですけど、
まぁ三歩下がってなんたらとかね、奥さんは家に入ってなんたらとかね、
特に日本にありがちなんだろうかこう(他の国を知らないだけだが)、
女性に対して自己犠牲を強いるというのはつまりそういうことなのかなぁと思ったわけだが、
基本それは女の人が我慢してるわけじゃん、いやいややってるわけですよね。
そういう女性の行動について「愛情かな?」みたく思ってんじゃねーのかと思ったわけです。
(思ってるのかな? と思う理由も考えたりしたけどはしょります)
しかもそれは尊い、すげぇ尊いと「自己〜略〜男」は多分思ってて、
愛情だと思ってるから女の人が我慢してるなんて全然思ってないから
(そぶりを見せてもそぶりだけだと思ってて)
なんかもうそれでよし! ウィンウィン! とか思ってんじゃないかと思ってて。
で、これが一番言いたいんだけど、
その「尊さ」に憧れるあまりの気持ちの具現化がつまり「切腹」なのかなって思ったんですよ。
そこからピンキーなのをドバドバと、つまり「産む」ことの模倣なのかなって。
憧れるあまり「それになりたい」と、
おしまい。
A.いないと思います。
いないとは思うけど「やんなきゃいけない! おれ死なないといけなくなった!」てなった時に、
じゃあどういう形で死にますかっていろいろあったうえであの形になっているのは、
なにかしらの意味というか理由というか紆余曲折があってのあれなのかなと思うと、
そこにあてはまる話が今回書いたようなことなのかなと思いました。
「産める生物」というよりも「自己犠牲できる生物」という点で憧れの対象ということでは。
となると逆に「産む仕組みを持った生物」としての女性について、
そもそも憧れているのか? どう思っているのかもわからないけど、
どういうふうに感じていて、それをどう表現しているのか、
というのは考えてみるのもおもしろいでしょうな。全然思いつかないけど。
となるとそこで「生」と「死」が繋がるわけかね。知らんけど。
今日も女は意味不明