のうりんポスター問題で批判側の態度が少し気になりました。抽象性の高い理屈と、個々の事例の話を分けて考えてない人が多いのではないでしょうか。
たとえば信号無視は良くない行為ですが、夜中で車が全くいないのに道を渡るときに赤信号で待つかどうか、ということです。理屈ではダメな事だが実際には状況によってほぼ問題ないということはよくあるわけです。
理屈は個々の事例すべてに同じように適用できるわけではありません。それぞれの事例の状況を鑑みて判断をする必要があります。
たとえば今回のポスターのイラストがアニメショップののうりんコーナーで使われてる、なら問題視されなかったでしょう。アニメショップは誰でも出入りできる場所ですが、実際に訪れる人でイラストに強い不快感を感じる人は少ないからです。
同じように美濃加茂市のイベントでも理解のある地元民かイベント参加者以外がほとんど目にすることがないのであれば、問題はないはずです。
それを判断するためには実際の利用のされ方や地元の状況を理解してる必要があるはずですが、残念なことに情報がほとんど無いうちから多くの批判が行われてました。
状況を十分理解したうえでポスターの使用をやめるべきと判断したのなら良いのですがどうもそうではないらしく、ポスターについてもどういう目的のものか、どこにどれだけ貼られているかなど理解されないまま批判されていたようです。
つまりそれぞれ事情も環境も違う個々の事例に対し、一般化された理屈だけで良し悪しを決めてしまってるということです。
理屈部分を議論したり、個々の事例に対して「こういう問題の可能性があるが大丈夫だろうか?」と疑問を提示したり確認を取ったりすることは良いと思うのですが、批判非難するのであればきちんと状況を把握してから行うべきでしょう。
理屈だけで物事を判断すると「どの程度問題がありそうか」という頻度や程度の面が抜け落ちやすくなります。大きな問題になりそうだとか、実際に苦情が来たという話でなければ今回のイベントは続行しつつ、次回から改善するという選択肢もあるはずです。
大事なのはそもそも何のための話なのか考えることであり、それは「性的表現で誰かが傷つかないようにするため」だったはずです。もしその可能性がたいして無いだろうといえるのなら、特に問題は無いはずです。
なのに「完全に問題が起きないようにしなければダメ」「可能性を生み出しただけでアウト」となってるように見えます。
日本のマネジメントは予防に重点を置きすぎでコストが高くなってしまい、チャレンジできない社会になってることが、よく問題となってます。
もっとアメリカのように問題の期待効用が大きくないならとりあえずやってみて、何かあったら対応するというやり方でもいいのではないでしょうか。
あれってイベント自体中止になったの?
些細でも役所に後退させたことで批判的ネット言論の勝利と見るか 零細の田舎自治体相手に批判的ネット言論が火付けを仕掛けてもその程度のボヤにしかできなかったと見るか
理論的に正しくても、実際問題としては間違った理屈というのは、たしかにあると思います。 しかし今回のケースは、理論的にも実際問題としても、批難が起きて然るべきではないでし...
増田で引用ってどうやるんだっけ? > しかし今回のケースは、理論的にも実際問題としても、批難が起きて然るべきではないでしょうか。 元エントリはあくまで批判において守られる...
半角で >>引用文<< と書けば 引用文 となります