ついに最近、淫夢ミームを批評した淫夢論なるものが参加評論集というかたちで出版されたらしい。読んでないけど…。
今のところ自分の基本的な立場としては、ゲイポルノビデオの二次創作とかいう時点で正気の沙汰じゃないし、根底に同性愛者への「嘲笑」があることは、まぁ否定できないだろう。全く褒められたコンテンツじゃない。
でもある時期から、なにか「嘲笑」以上の原動力が、淫夢というネットミームにはあるような気がし始めていた。意味不明なBBは日々量産され続け、多分今後もずっと見ることもないであろう野獣先輩に執着し、その正体を暴く新説が懲りずに唱え続けられている。なぜ淫夢に固執するか、何か理由付けをしたいと思った。
いろいろ考えた結果として、なんとなく自分はこう思っている。
淫夢民はおそらく、男特有の"うんこやちんこ"で友達同士笑い合っていた「ガキのころの感覚」を回顧して共有したがっている。
そのため、"ゲイポルノビデオに特有のシチュエーションと素人じみた演技"は、そんな「社会人になってからは決して築くことのできない男同士の交友」の姿を、歪んだ形であれ投影する対象として都合が良かったんじゃないかと。
成長とともに学生時代みたいな友達ができなくなる嘆きはサイゾーのいつかの記事で目にした。
で、嘲笑だけが目的なら「単純に性行為をする作品」でも良いはずで、そうでなく「学生・部活が背景となるストーリー仕立ての作品」が淫夢の土台として絶大な人気を誇るのは、性行為そのものの描写以上に、主に行為以外のシーンに漂う「男子学生同士の生々しい空気感」が映像作品として図らずも世に現れてしまったことがあまりに斬新だったからじゃないのか。
単純に言い換えりゃ、淫夢民は「男友達同士で楽しかった幼いころ」に退行するために淫夢というコンテンツを耕し続けている、そんなところか…?
まぁ最初に言ったけど淫夢ってのは下らないコンテンツで、エア本や恒心教と同じみたいに、結局のところ"社会のタブーをかすめてやったぜ"なドヤ感を内輪で楽しんでるだけなのかもしれない。でも、淫夢に特有な社会への切り口があるとすれば、画面越しの"非"同性愛者が望む「男同士の交友や友情」ってなんだ?って論点じゃないかと自分は思う。
嫌々洗っていた事にショックを受けるMUR大先輩.rnp4 ‐ ニコニコ動画:GINZA