2019-11-15

まだ見ぬ推し作家

 私はあなたに滅茶苦茶にされたい。

 私はあなたの雑じり気のない狂気でズタズタにされたい。

 私の心に一生消えない爪痕を残してほしいし、あなた作品に触れる度に情緒を乱されたい。

 あなた感性に触れたい。

“こんな風にキャラクターを作るといい”

“最低でもこういう風に作品を作れ”

キャラの口調はこういう風に設定するといい”

 近頃一時創作における「創作論」を目にすることが多くなった。“小説家になろう”みたいなサイト一般の人でもうまくいけば出版してもらえることが増えたからだと思う。得れる作品を作ってワンチャンwannabe。俗にいうワナビが増えたんだろう。

 前述のアドバイスは“売れるため”にこうしたらいい、というアドバイスであるらしい。売れたいけど売れていない作家向けの善意アドバイスなんだと思う。

 こんな風に作ったら皆に読んでもらえるよ、皆に愛される作品になるよ。売れるよ。

 本当にそうだったら素晴らしい。

 私自身、作品を作っているから「読んでもらいたい」という気持ちはわかる。作者としてはいろんな人に自分作品に触れてほしいし、愛されたい。作品を愛してほしい。「この話いいよね、刺さるよ」って言われたい。そういうものを作りたい。誰かの心に一生消えない爪痕を残したい。

 だから、“作者としての私”は、“作家としての私”はそのアドバイス積極的否定しようとは思わない。

 おそらく、作品を作る人なら誰だって自分作品に触れてもらいたい」からだ。

 その一方で読者としての私は「他人創作論にすがるくらいなら筆を折ってしまえよ」と思う。

 本当にそうなるか(売れるか、愛されるか)どうかわからない誰かのメソッド安易自分スタンスぶれるなら、筆を折ってしまえよと思う。

 私は作家が好きだ。

 作品を作る人が好きだ。

 自分の内側にある世界を、自分の外側に作り上げる人達が好きだ。

 だからこそ余計に筆を折ってほしい。

 自分ではない第三者の、“当たるかどうかわからない”メソッドスタンスがぶれて唯一無二のあなた世界が歪むくらいなら。だったら今すぐ筆を折って、そのままのあなたで私の永遠になってほしい。あなた世界を他の誰かのあやふやメソッドで薄めて欲しくない。

 これは持論だけれど、作品とは作家もつ狂気実体を得たものではないかと私は考えている。

 絵画などの実際に形をなした作品でも、音楽文章などの実際には形のないものでもそうだと思っている。

 作家の持つ人生観倫理観、何かに対する考察や愛、執着、すべてが入り交じって生み出されたもの。それが狂気であり、作品だと思っている。

 その人が持つ、その人だけの世界。唯一無二で換えがたいもの

 自分の内側にある世界自分の外側に生み出す行為。それに狂気がないなどとは思えない。

 作品を作ることは自分世界とを繋げる行為であって、いわば“呼吸”であって、第三者の目に触れることで作家作家としての自己を得ていく。作家として生きられる。

 作品とは作家のものの“概念”だと思う。作家が今まで経験してきたもの概念レベルにまで落としこんで表現したのが作品だと思う。だから、同じ作家作品には同じ匂いを感じる。共通する世界観がある。作家を感じられる。

 その“作品”を、美しい狂気を、麗しく鋭く研がれた爪を、誰かのメソッド一般化されたくはない。私はそう思ってしまう。

 作家の持つ“感性”という雑じり気のない狂気に私は触れたいし、“作品”という爪でズタズタにされたいから。

 まだ出会えていない作家の、まだ見ぬ推し作家の、本気の“狂気”を理論で塗りつぶされたくない。

 作品から垣間見える人間性人生観作品へのスタンス。そういうものを鋭く尖らせた“表現”という爪を丸く整えてほしくないのだ。

 作品として成立させるためにある程度の“理論”は必要だと思う。読みやす日本語、情景をより伝えやすくするためのレトリック。そういう意味での“理論”を伝えるというなら私は大賛成だ。より多くの作家の“狂気”をより効率的摂取できるから作家の構築した世界をより分かりやすく感じられるようになるから

 でも、作品本質にまで“理論”を出すのはやめてくれと思う。思ってしまった。キャラクターの“キャラ”の口調はこうした方がいい、こういう性格の方が取っつきやすい、世界観を作り上げるなら最低でもこれとこれとこれが必要だ──。

 全部しゃらくせえ。好きなように書いてくれ。好きなように書いて好きなように狂え。あなた狂気で私を満たしてくれ。あなたが考えた世界で私を狂わせてくれ。

 分かりやすキャラクター、分かりやすい話運び、そういうのは読みやすくて分かりやすくなるかもしれないが、結局“一般化”だ。誰が見ても何となくわかって、誰が触れてもまあ大丈夫もの。量産品。いつものやつ。

 でもそこに作家の持つ“色”はあるんだろうか。そこに作家個人の“感性”はあるんだろうか。

 “売れるように”量産されて一般化された作品に何を感じればいい?

 “どこかで見た”何かは誰かの心に爪痕を残せるか?刺せるか?

 前提として“売りたくて作る”作家と“作りたくて作る”作家がいることははっきり認識している。私は後者だ。作りたいから作る。

 でも前述のアドバイス自分に取り入れるのは前者だろう。売れる方法があるなら試さな道理はない。売りたいんだもの。だからそれを積極的否定しようとは思わない。合理的から目的に対する手段が一致しているから。

 でもそれ、“作家”なのかなあ。

 そんなことをずっと考えている。

  • うんち

  • 狂気?爪痕?宇宙の真理を掘り出すのが目指すべきあるべき姿であり俗人性だとか感性に頼りきったやり口でそこに至れるとは思えない。

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん