2014-02-21

村田の教えに学ぶ、貯められない人でも絶対貯められる貯蓄法

村田惣右衛門という商人を知っているだろうか。

正確に言えば彼は匿名旗本三男坊だ。

幕末ともなれば穀潰しを遊ばせる余裕も世情も無く、結局のところ彼は糊口を凌ぐ為に己の才能を切り売りした。

どうやら武に纏わる技芸はさほど優れたものではなかったようだ。さりとて彼には商売の才能はなかった。

しかし彼には類まれなる発想と、稀有な才能があった。

それは、勘定をし、その勘定結果がどのような未来を描くか、どうすれば違う未来を描けるかを、説明する才能だった。

今で言う、ファイナンシャル・プランナーである

彼が歴史に名を残したのは単なる偶然でしか無く、江戸醤油から東北豪商に至るまでそこここの日記や書付にその偽名が残るのみである

幅広い人脈を築いた結果得られたものが何だったのかも、どこの誰だったのかも結局判らない。

しかし、大店の影にその人ありと実しやかに囁かれた風聞は、今も色褪せることのない伝説として語り継がれている。

今日は、その伝説の一端を開陳しようと思う。

村田の教え

  1. 分は弁え難し
  2. 無いとして考えよ
  3. 如何に使うかが肝要
  4. 数えるだけでは丁稚に劣る
  5. 大風呂敷を広げ、小さく繕え

分は弁え難し

村田は、常にここから始めたようだ。

分を弁えよ、ではない。

弁え難し、つまり弁えることは出来ないと喝破したのだ。

人が贅沢を夢見たり、買えなかったものが買えるようになるのは良いことだとした。

一定石高を常に保証される武士にとっては、倹約を旨とすればその分貯まる。

武士にとっては、勤めを果たすことが上向く方法からだ。後は倹約しか無い。

しかし、町人商人は異なる。己の才覚で事業を行う必要があるからだ。

ケチケチと貯めるばかりでは、生活は全く変わらず何のための商いか分から

しかし、稼いだ分を使ってしまってばかりでは、商いを大きくすることは出来ぬ。

こう、説いたのである

すると、分相応な使い方は出来ないが、使え、と言っていることになる。

これはどういうことか。

無いとして考えよ

貯めてばかりでなく使え、使ってばかりでは貯まらぬ。

そして、その加減は余人にも当人にも図りがたし。

から、そもそも無いものとして考え、ある分を使えば良いと、こう伝えられている。

これは意外なことに好評だったようだ。

元々宵越しの銭は持たない気っ風の良さを心情とする江戸っ子以外にも、粋や趣味には金がかかる。

これを抑えるのではなく、存分に使えと言うわけである

圓朝の芝浜と偶然にも結果は同じことを言っているわけであるが、後世の創作を加味すると、村田の方が時代を先んじていたと言えよう。

如何に使うかが肝要

使うと言ってもここでは、無かったものとした貯めた分のことである

そもそも無いものとして生活せよ、とする場合、言ってみれば稼ぎよりも貧乏になれ、と言っているのと同じである

誰しも貧乏よりは裕福が良い。

程度はあれど銭金があって困ることは少ない。

から、如何に使うかを考え、決してあるものとして勘定してはならぬ、それは無いものだ。

なぜならば、使い処が別にあるからだと、こう言っていたようだ。

この使い方指南こそが村田真骨頂であったようだが、商売の正に秘伝とも言うべき部分の事で、手に入る資料の中にはさほど面白い事由は残されていない。

数えるだけでは丁稚に劣る

さて、よほど複雑なものでもない限り、商売の基本は数を数えることになる。

いくらのものを、いくつ仕入れ、手間賃をいくら払って、いくらで売る。

この管理ができなければ店の維持も難しいが、といって、数を数えてピッタリに合わせるだけではそれこそ丁稚にも出来る仕事である

まず数を数え、その数を増やすのか減らすのか、増やせばいくら儲かり、減らせばいくら損するのか。

安く仕入れ高く売れればそれが一番良いが、なかなかそうはいかない。

手間賃を削れば儲かるが、果たして削って良いものか、

さな損に怯えず、最後に儲かる為には使うことを恐れるなと、指南していたようである

大風呂敷を広げ、小さく繕え

どうやら、村田は積み上げて説明するのが好きだったようである

これは、昨今の結論から話せという風潮からすれば迂遠に聞こえるが、相手には伝わりやすかったようだ。

使う加減は難しい、だから無いものとして使え。

無いとはいえ実はある、だから理由をしっかり考えて手をつけるな。

使い処を考えるのであれば、損することを恐れず最後に儲かるようにせよ。

こう話していけば、ではどうすれば儲かるのか、と、儲かるためには貯めねばならぬということが前提として相手に伝わっている。

先に述べたように、実際の使い方指南は、秘伝として秘されてしまい、伝わっていない。

しかし、その大本の考え方自体はどうやらこういうことのようだ。

  • まず、壮大な夢を描け
  • 壮大な夢をいま実行する絵図を描け
  • すると、どう捻っても、出来ない処、足りない処がある
  • どうすれば出来るか、足りないところはどう補えるか考えろ
  • それに必要な分を貯めよ

大風呂敷を広げるだけ広げてしまい、その穴だらけでボロボロ風呂敷の穴を、繕って埋めていけ、

小さく着実に繕っていけば、いずれ大きな風呂敷が完成すると、こういうことのようだ。

現代に生きる、村田の教え

商売の形態は大きく変わり、今となっては古臭い考え方でもある。

しかし、こと家計に関しては、今も村田の教えを活かす部分は大いにある。

分は弁え難し

コンビニお菓子を買ってしまっても良い、

ボーナスでご褒美を買っても良いだろう、

偶には飲みに行くのも構うまいと、

人は自分がどれだけ使っても良いかを客観的に知り、それを見極めるのが酷く難しい。

高収入でも貯められないのは、その人が自堕落であるというよりも、使い方を知らないからだと言える。

もちろん、低収入でも同じことである

無いとして考えよ

余ったぶんを貯金しようという考え方では、貯められないというのは良く聞く話である

勤労者に対して天引きで貯蓄を促すというのは、財形等で政府が主導した手法でもある。

結局、分相応が難しいのであれば、元々給与が少ないものとして考えるのが良いわけだ。

本当に困窮している人間は、貯めようとは思うまい

貯めようと思って貯められない人間は、困窮してはいないのだ。

ならば、最初からある中でやりくりすることは、出来るはずだ。

如何に使うかが肝要

とは言え、やはり無目的に貯めるのは精神衛生上良くなかろう。

貯めるのが目的なのではなく、使い処を考えろということなのだ。

そして、しっかりと考えた使い処があれば、今月の呑み代に窮して手を付けることは無い。

逆に言えば、手をつける程度の使い処は、余りしっかり考えたとは言えないのだ。

数えるだけでは丁稚に劣る

ここが、昨今の風潮とは一線を画すると言える。

村田は、まずは数えよとは言わなかった。どうやらどんぶり勘定の相手もしていたようである

家計簿をつけて家計を見直すのは、もっとずっと後のことだと、つまりはこう言っているわけである

家計簿をつけるのが目的ではない、無駄を見つけて節約することだ、というのは良く言われることである

村田は、手順としてそれは後のことだと言っているのだ。

無駄を見つけて節約するのは、無いものとして考えた残りで自由にやりくりすれば良い。

最初に、何に使うかをしっかり考え、それは最初から無いものとして意識から外せと、繰り返し言っているのだ。

大風呂敷を広げ、小さく繕え

そして、単純に今欲しい物を考えよとも言わなかった。

大風呂敷を広げよと、こう言っている。

欲しい物のために我慢するのは馬鹿げていると手を付ければ元の木阿弥なのだ

これは、大風呂敷を広げるだけの甲斐性がなければ、貯める必要がないという突き放した目線でもある。

日々の生活に事欠く人間に、夢を描け無いものとして貯めよと言っても虚しく聞こえるのは重々承知の上だろう。

享楽に行き、明日路傍に倒れるとも已む無しという無宿人も多かった時代だ。

これは現代でも変わらない。

小さくとも庭付きの一軒家で犬と子供に囲まれた幸せな家庭を築きたい、今は何もかも欠けている。

その夢を描くには、何が足りないのか、何を足してどうなればそこに辿り着けるのか。

からこそ、使い処のために、給与から天引きして貯める。

無いものとして考え、ある中で使ってやりくりをする。

まずは夢こそが大切であるのだ。

結びに変えて

村田惣右衛門という商人は、夢を描く手助けをし、それを現実に落としこむ手腕が鮮やかだったのだろう。

現代にも通づるそのファイナンシャルの考え方は、まず夢ありきであった。

夢を見つけ、具体的な道筋を立て、その手段として帳簿を使う。

帳簿を使って無駄を探るノウハウを伝授しても、無駄に使ってしまっては何にもならない。

最後までお付き合いいただいた読者諸兄におかれては、

是非、夢を描きその具体的な筋道を考えた後に、定期預金なり財形貯蓄を利用して、風呂敷の繕いを始めて欲しいと思う。

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん