はてなキーワード: 忘却とは
脳内物質の分泌に問題を抱えた女の子たちの、衝動に任せた刹那的な生活の物語。
公共の場で暴力行為や罵り合い繰り返す彼女たちに対し、周りの大人は冷たい目を向けるだけで何もしようとしない。
社交性が欠落しやたらと攻撃的で、互いの事を何も説明しないせいですれ違っていく感じは、ある意味で実際のバンドマンらしさもある。
いまのところ話の進展はほぼないが、なぜか主人公たちのバンドは人気が高まりつつあるらしい。
その前に登場人物の誰かしらの預金残高が尽きる気がするのだが。
性格がピーキーな登場人物をキャットファイトさせることで、何か物語が進展しているように見せかける手際は、いかにも花田十輝らしい。
ただ、見せ場のために非現実的で衝動的な行動をキャラクターに取らせる悪癖が、このアニメにおいては奇跡的にマッチしている。
最新話で、雨の中、軽トラの前に飛び出す主人公や、メジャーアーティストがステージ衣装のまま楽屋裏から屋外に駆けてくるシーンは、
思わず「そうはならんやろ」とモニターにツッコミを入れてしまった。
1話で切った。1話はよくできていたが、オリジナルストーリーで再スタートを切れなかったのは致命的失敗だろう。
原作に詰め込まれた小ネタのキモになる部分を巧みに採用しつつ、映像化に際してテンポを落とさないようにチューニングされている。
カットされているセリフが聞きたかった、と思うことはしばしばあるが、大きな不満はまったく無い。
「今期の覇権アニメ」といった刹那的なポジションではなく、耐用年数が長く何度も見返せる作品を意識しているのだろうか。
映像化に際してかなりの準備期間・制作期間をもって作られているらしいところがあるので、
3クール目がまだまだ先になるのでは無いかと懸念している。できれば、迫力のある絵で劇場でやってほしい。
制作会社が変わったせいか、どうも会話のテンポ感にハマりきらないところがある。
パッと見は作画が変わったくらいで、劇伴や声優はこれまでと変わらないだけに、この「ハマらなさ」がどこから来るのかがよく分からない。
たしかに、原作でもこのあたりの話は間延びしている感じはあったのだが、広角レンズを使った大コマの迫力があるぶんあまり気にならなかった。
アニメの場合、広角のシーンでもパンが振られていたり、キャラクターが動いているせいで逆に安っぽく見えるときがある。
視覚のすごみに欠けるせいで、見せ場となるシーンが単なる長回しになってしまい、テンポが悪く感じられるのかも。
予断だが、賛否両論あった映画のオリジナルストーリーは、個人的には大好きです。本編に影響がない未来の話だし、あれくらいやったほうがよい。
冬のオフィスに出社したときのひんやりとした空気感などがよく伝わってきたところが良かった。
3期は、キャラクターに「寒い」と言わせなければ寒さが伝わってこないような感じがある。いちゃもんっぽい批判ですが。
前回のアニメ化は1話しか見ていないので、話も含めて実質初見視聴。
概ね楽しく見ているが、街の風景や旅路、宿屋や酒場の描画が、全て同じに見える。リアリティが無いというか、生活感を感じられない点がちょっと気になる。
もっとも、この作品の面白さは何と言っても会話劇にあるから、背景の描き込みはほとんど気にならない。
主役の二人はもちろん、モブも交えた会話でも、小粋なセリフ回しで心地がよい。セリフそのものの魅力に、声優のバフがかかっている感じ。
この作品なら、動くアニメではなくて、朗読劇や舞台で見ても面白そう。
原作未読で、アニメで初見。さすが横手美智子とうなる軽妙な脚本。宮野の当て書きじゃねえか、とツッコミを入れたくなるくらい、宮野がハマっている。
記憶喪失の人物を通じて、野球という題材の汗臭さや泥臭さをメタにネタにしつつも、
当事者たちが取り込まれるある種の狂気も、野球未経験者にも分かりやすく伝わってくる。
うっとうしいくらいのギャグが脳に残ったところで、登場人物のシリアスな過去もばっちりと魅せてくる。
ダンジョン飯もそうだが、このアニメもキャラクターの作画上の演技が細かくて見入ってしまう。
アクションシーンが長いのではなく、さりげなく差し込まれる捕球のシーンなどの動きがよい。
グローブに球が収まるときの反動や、投げるときの重心移動の身体感覚が、視聴者に自然に伝わってくる。
増田は野球未経験だが、バッティングセンターに行ってみたくなる。打てるのかな。
吹奏楽部を題材にした学園サスペンスもの。ファムファタールに出てきそうな新キャラを交えて、陰湿さにもオーバードライブがかかっている。どう考えてもNHKの日曜夕方17時に放送していいアニメではない。なんとなくだが、売上の一部を不登校支援の寄付などに回したほうがいいと思う。
要するに、そのくらい心理描写が細かいアニメだと思う。破綻の無い作画もさることながら、表情やカメラワークが良い。黒沢ともよは化け物。アニメの黒沢ともよの演技が凄すぎるせいで、この作品は実写化できないんだと思う。
原作は未読だが、ねちっこい女性同士のからみにフォーカスして構成するあたりが花田十輝らしい。
それと、京アニのキャラクターの演技ってやたらとわざとらしいよね。顔の前で手を合わせたり、わざとらしく頭を掻いたり。変に心理描写が細かいから、そういうアニメっぽい仕草が浮いて見える。
勘違いしないで欲しいが、「女」という性そのものが悪いという話はしていない。
現状の「女の文化」(つまりそれはジェンダーバイアス社会が生み出したものでもある)に問題があるという話をしている。
だから、「女」という性でも、「女の同調圧力がきらい」という個人には全然問題はないし、そういう人は同じような批判を女の側からしているのをよく見る。
しかし、そういう「女」は、残念ながらびっくりするほど女の中で発言権がない。SNSでいうなら、まったくRT等はされない。(どうやってそれを見つけるか? エコーチェンバーに籠らず、個別の問題についてキーワードをまんべんなく検索してみるという地道な見識の広げ方をしていればいくらでも見つかる。)
つまりここが問題なのだ。現状の「女」というコミュニティがもつ同調圧力、そこで無批判に培われるある言論の傾向、そういうところに明らかに問題がある。
「女」の自称リベラルが差別を広げる問題の原因は主に以下のようなところにある。
これらは、「女」という性とイコールではないが、傾向として明らかに現状の「女」文化の影響があるといえる問題点である。
結果として、「女」の関心に比重がおかれるようになった現状の「リベラル」運動は、歴史を忘れた差別的な主張が平気で通る有様になっている。
これらは一例でしかないが、このように、人類が歴史上培ってきた「弱者の保護」を全部ひっくり返してゼロベースで書き直すような暴論を平気でやるのが昨今のSNSを中心に広がる「リベラル」運動の問題である。
一方で、男社会だった「オールド左翼」にももちろん問題はある。(学生運動の中で「女はサポート」として炊き出しや繕い仕事をする役目を与えられていた例など。)しかしこれはまあ、世代交代とともに消えつつあるものでもある。
繰り返すが、現状の「リベラル」の問題が「女」の参画によって出てきたものであるということは、「女を排除すれば良い」ということをもちろん意味しない。
ジェンダーバイアスをなくすということは、「女の文化」というものとも戦わなければいけないということである。
「女性誌」を見よ。ファッション、コスメ、芸能、恋愛、占い。そんな話題でページが占められている。
「少女漫画」を見よ。主人公は美少女でなければならず、また美男子と恋愛をしなければならない。少女がただ仕事や部活に精を出すだけの漫画は、少年漫画と違って存在を許されていない。
SNSを見よ。「女の話題」は芸能人やら子育てやら「推し活」やら。ただ学問や仕事の興味をつぶやくだけの女は、いても「女コミュニティ」からは存在を無視される。
「女」が「女」(ジェンダーバイアス社会で、無知な側という地位に落ち着いて生きた「女」)であること自体を否定し戦わない限り、本当のジェンダー平等なんてある得るはずがないのは、合理的に考えれば明らかである。
「有害な女らしさ」とでも言おうか。
「価値観のアップデート」とは、これまで人類がひとつひとつ改善してきた差別問題もすべてなかったことにして、ガラガラポンで「弱者ランキング」を一から書き直すことなのか?
そんなわけはない。女性だけが不当に貶められてもいけないのと同様に、今まで弱者であったものを突然弱者でないと見なすような暴論もあってはならない。
現状のリベラルの問題をより一般的にいうならば、大衆化、ファッション化(歴史の忘却)、無知化(非学術的な感情論の横行)が急速に進んでいることにある。これは(無知な側という地位の)「女」文化を、それ自体進歩させずにいきなり「リベラル」の優先順位の上位に上げてしまったことからくる問題に他ならない。
性差別は、他の差別問題と排他的に選ばなければ解決できない問題ではない。「今は女性問題が話題だから」で他の差別問題を軽視するような「リベラル」などあってはならないし、こんな状況を野放しにしていては、いずれ全体的な問題意識は、性差別含め悪化する方向にしかいかないだろう。
願わくば、「リベラル意識の普及」が「社会全体の知性の底上げ」という意味になって、「バカに合わせる」方向には行かないで欲しいものである。
予言しておくが、こんな言葉は「リベラル」には届かないだろう。
彼らは痛いと思ったら無視するし、どこか隙が見つけられたと思ったらそこをせめて言葉尻を取り誤摩化すだけだろう。
「女の問題を口実に「部落差別」や「地方差別」「子供の人権無視」を肯定するな」と言っているだけなのに、彼らは自分のそういう傾向には一切反省をしようという考えをもたないだろう。
人生の地獄はきっと誰にでもあるが、自分にとっては「健常な社会」こそが人生の地獄だった。
「健常な社会」に適応するくらいなら犯罪を犯すか自死した方がまだ自分の人生を手に入れられる。そう思う人間が生まれる必然は「健常な社会」を維持するシステムに組み込まれており、つまるところ何をしても堂々巡りな訳で、やっぱり世の中の未熟さと本能のどうしようもなさに揺さぶられながら、忘却を繰り返して日和見主義で他人に干渉しすぎず生きていくのが幸せなんだろうなという結論に達する。
健常な社会が設けた「児童養護施設」というシステムは、内部で虐待が横行しており、児童の中でもイジメがあり、「何のための施設なのだろう」と気を病んだ私に何度も「そんなんじゃ社会でやっていけないよ」と声をかける健常な社会人であるところの職員は、気を病んだ私から見てもキチガイであった。
養護施設では勉強時間が確保できないので勉強して逆転するような子は少ない。
施設の規則に従って規律正しい生活を送れば、自由時間などほとんどないに等しい。
自分の部屋でダラダラ夜更かししてゲームしたり、本を読んだり、そんな時間も個人の発達には必要であることも全く理解されていない。家畜や囚人以下の扱いである。一般家庭の人間の特権が羨ましくて仕方ない。
さて、こんなひねくれた性格であったせいか、基本子供嫌いな施設職員からも取り分け嫌われていた私は、さらに人に対する恨み辛みを募らせて、どんどん人格が歪んだ。
信頼できる人間に悩みや苦痛を打ち明けても、「辛かったね、大丈夫だよ」と声をかけられても救われない事は明白で、というかあの時の私にアドバイスをするなら「悩み相談をするなら優しい人間ではなく、態度が悪くても解決する能力を持った人間を見極めて選べ。それ以外は屑のようなもの」という事だろうか。こういう境遇の人間は頷くと思うが、「人に優しくしよう」なんて考える人間にロクな奴はいない。
自死を何度も考えた。正直、世に生きる価値があるとは全く思わなかったし、自分より恵まれた人間から受ける説教ほど価値のないものはなかった。恵まれた人間に、人を救済できるだけの知性があればこんなことにはならなかった、肥えただけだろうが。頼むから今後、人命に関わる組織の運営は全てAIとかにやらせて欲しい。その方がまだマシな社会になるだろう。
「普通の人間」にアレルギー反応が出てしまった私は、行政や福祉や一般就労のようなものからなるべく遠い所で生きて行きたいと思い、案の定水商売を始めた。
あらゆる業種を転々としたが、1番面白かったのは性産業で、取り分け「客もキャストもどんな職種の人間でも脱げば同じ」「美人でもブサイクでもどんな人間にも扉が開かれている」という世界が、私に人間性を取り戻させた。ここは誰に対しても優しく、最も平等で、寛容で、安心をくれる社会そのものだ。
私の在籍していた店は多様で、子供に当たり前の生活を渡すために稼ぐシングルマザー、奨学金を返すために働く高学歴の大学生、障害があるけど作業所で働きたくない女の子、銀行に頼らず起業資金を集めたい50代の女性、若いうちに好きに海外に行きたいアラサーの女性など、あらゆる年齢の人が自分の自由と自立のために働いていた。そんなキャストさん達と話す穏やかで豊かな時間が私は好きだ。
ネットでは風俗業の過激さに目が当てられがちな為、ふとこういう話もしてみたくなった。
「死ねば同じ、脱げば同じ」
この仕事で体得したそんな精神は、私の人生にとって大きな慰めであり、今は生きる意味にもなっている。
私の指名客は官僚からホームレスまで様々だ。普通の人間なんて、私の幻想だった。
幼い頃の痛みも恨みも悲しみも、きっと一生癒えることはないけれどしばらくここで頑張ってみようと思う。