はてなキーワード: 形成とは
大学3年生で今まで彼女が欲しいと思い行動を起こしてきたが恋人が全くできそうもなくつらい。外で歩いている恋人を見ると羨ましくて悶絶しそうになる。
いつか読んだ本で彼女は本当は必要ないのではないか周りの影響でほしがっているだけなのではないかと読者に問いかけるような内容を読んだことがあるが、全く持って私の場合これは当てはまらない。純粋に周りの影響関係なく彼女が欲しいのだ。
アイドルマスターが好きでライブにも言っているのだが、そこで声優さんと出会い、女の子の可愛さと2次元とは違った奥深さ(例えば、いわゆる”ゆるふわ”な女の子でも掘ってみると”ゆるふわ”という一言では表せない多面的な要素が複雑に絡まり合って人格を形成しており、2次元とは異なる、性格を一言で表せない奥深さを感じる)に気づきそこから彼女がいてくれたらと思うようになったのだがいまだできたことがない。
大学1年の頃から試行錯誤しており、主にファッションとスキンケアについて転がり立ち上がりようやく様になってきたが女性側からの反応はいまだない。髪もセットしているのであるが、フィードバックを求められるおしゃれな友人もおらず、これでいいのかと不安ながら通学をしている。私を不安にさせているのが女性からの反応が全くもらえないことであり、ファッションについては人気のファッション系ユーチューバーを参考にしているので間違いないと思うがヘアセットやその他の要素(例えば猫背、肌など)についてどう思われているかが不安である。
最近パーマをかけたのだがセットしてもいわゆるチー牛顔にしかならず本当にショックだ。やはりヘアセット初心者の私にパーマは早かったのか。しかし、マッシュ等の髪型には惹かれず一番パーマがよさそうとインスタを見て思ったのだが、私には似合いそうもない(誰からのフィードバックもない)。
今まで女性に何度か話しかけたことがあるがその話しかけた女性から自分は話しかけられることがないのできもがられているのではないかと感じ、それが私を悲しい気持ちにさせる。今となっては黒歴史であるが、以前ひげ脱毛のダウンタイムの関係もあり大学にひげを生やしていったことがあった。相当な変化であるがだれからも反応をもらえず、なぜ誰もフィードバックをくれないのだろうと怒りすら感じる。
いままで大学に入って好きな女の子が3人で来たのだが初めて好きになった子にも次に好きになった子にも彼氏がおりそれが本当にやるせない。女性は簡単に彼女ができるというが(ネットの受け売りだが)その受け身でも彼女が出来るのは本当にうらやましい。前述した私の見ているファッション系youtuberでは「街中で好きな男性の服装を女性に聞く」という企画があるのだが、そこで偉そうに男性の服装に意見している女性を見ると非常に憎たらしく感じる。私は拒絶され(女性から話しかけられないことを私は拒絶ととらえている)ているのに、世の中の女性は男性のアプローチにケチをつけ、アプローチをもらったことで自信を高め、さらにそのひとをけなすことで快感を得る。なんて偉そうな立場にいるのだろうと嫌悪感を感じる。私が初めて好きになった女の子はあまりいけていない子であったので(性格が悪い言い方であると思うが誰しもこれくらいの性格の悪さは持ち合わせていると思う)私自身と同一視している部分もあるのだが、なぜ私は恋人ができず受け身な彼女は恋人ができるのだろう→彼女が女だからだ という論理でネットでみた女性だから受け身でいいという言説を鵜呑みにして(実際自分で確認したわけではないので本当に受け身でいいのかはわからないが)受け身なくせに女性のほうが恋愛がうまいという論理が破綻しているように感じる世の中の言説も合わせて、近頃は女性に憎しみを感じている。
私がそのうち彼女が出来ればいいのような楽観的な思想になれないのは結婚相談所やマッチングアプリでの恋愛をしたくないという点がある。マッチングアプリや結婚相談所は男性が多く払うという制度があるのだと思うがこの男性が多くというのが結婚相手とは平等の関係を築きたい私にとっては拒否感があり、今恋人がほしいのだ。
恋愛で死ぬというのはバカであると感じる人も多いと思うが、最近は本当に自殺を考える原因になっている。女性の可愛さを認めている私にとって女性が周りにいる環境で女性に相手にされないというのは非常に自己肯定感を失う体験の連続であるし、目の前異性がいるのに、ネット等で誰でも頑張れば恋人ができるという言説があるのにも関わらず恋人ができないのは、自分はニンジンを目の前にぶら下げられた馬であり、手に入らないのにそれ求め続ける、しかし手に入らないことを薄々は感じていているのに求め続けるむなしさを感じる。私は人一倍無能であり、バイトでも何回も無能扱いされてきた、将来仕事でも成功は納められないだろう。そういった自身の無能さを勝手に女性の目を借り自分を下げ、自身の首を絞めているのかもしれない。今、バイト先ですごく素敵な女性と出会い、この人と一緒にいられたらと思っているがどうせこの人にも彼氏はいるのだろうと思い、どうしていいのかわからず心がかき乱される。そして簡単に恋人ができる女性へのヘイトを考えてしまう自分がいる。
私が恋人になってもいいと思っている女性がいるなら何か合図が欲しい。こういう部分に拒否感があるのような女性側の意見もわからずアプローチをするのはつらい。女性からの愛に餓えているのかもしれない。私のことを愛してくれる女性なら誰でも好きになる自信がある。女性も異性からの愛を求めていて、お互いが空回りしている状態だったらどんなに良いだろう。女性は私が話しかけてうれしいのだろうかそれとも嫌悪感を感じるのだろうか。女性は基本自分から異性に対して話しかけないのだという情報をネットでみた。私も女性に何度か話しかけたことがあるがその女性から以後話しかけかえしてもらえることはなかった。話しかけてもらったら次にお礼で自分から話しかけるという考えを持っている自分にとっては無礼な行為であり、怒りを感じるがこれが私が彼女から嫌われているからではないかという悲観的な考えもある。どうせ彼氏がいるから私に話しかけてこないのだろうという 女性=誰しも彼氏がいる というネットで見たことと私の経験から作った法則に当てはめ、恋人が簡単にできる女性への憎しみも感じる。
↓ここからは私の日ごろためている女性ヘイトについて書こうと思う。
正直女性はかなり優遇されていると感じる。恋愛面に関しては男性が寄ってきてそれを見定める立場である。バイト先でも男性は女性よりきつい仕事を任されることが多い(女性より時給300円くらい多くもらっても良いのではないかと感じるくらいハードな仕事を同じ職場でも求められることがあるし、それで今日の仕事きつかったねと話しているところを見るときつい仕事は男性がして当たり前なのかと殺意がわく。バイトや自動車学校等でもネットの女性のほうが優しくされるという言説を意識して見てみると大事にされているというのを感じる)大学で女性がやたらとジェンダーと関連付けたレポートを書きたがるのは憎たらしい。今の待遇に不満があると言いたげなその姿勢は本当に憎たらしい。
ここまで長々と書いてきたが私は結局女性のせいにしたいだけなのだろう。女性にも興味がない男性を拒否する権利はあるし私が女性でもそうしていただろう。私は軽度の障害もあるし、仕事もできないので未来がない。文系なので女性が多い職場で女性の目を借り自身を傷つけながらこれからも生きていくのだろう。もともと私は理系だったのだが、理系でも女性が少ないと不満を言っていたと思うので、結局私は身の回りに常に不満を感じるような人物なのだろうと感じる。今、バイト先で好きな女の子がいるがこのような歪んだジェンダー感と他責思考を持つ私が彼女に話しかけていいのかと感じる。本当に久しぶりに出会った素敵な人なので彼女から拒絶されたり、彼女にすでに彼氏がいたりしたらリミッターが外れこれまで以上の女性ヘイト思考になり私の感情はぐちゃぐちゃになりどう変貌してしまうか(おそらくモンスターになってしまう)は想像ができず非常に怖い。しかし、私の課題を先に終わらせたい思考から彼女との関係をどうにか帰着させたい一心だ。
大学3年生で今まで彼女が欲しいと思い行動を起こしてきたが恋人が全くできそうもなくつらい。外で歩いている恋人を見ると羨ましくて悶絶しそうになる。
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アイドルマスターが好きでライブにも言っているのだが、そこで声優さんと出会い、女の子の可愛さと2次元とは違った奥深さ(例えば、いわゆる”ゆるふわ”な女の子でも掘ってみると”ゆるふわ”という一言では表せない多面的な要素が複雑に絡まり合って人格を形成しており、2次元とは異なる、性格を一言で表せない奥深さを感じる)に気づきそこから彼女がいてくれたらと思うようになったのだがいまだできたことがない。
大学1年の頃から試行錯誤しており、主にファッションとスキンケアについて転がり立ち上がりようやく様になってきたが女性側からの反応はいまだない。髪もセットしているのであるが、フィードバックを求められるおしゃれな友人もおらず、これでいいのかと不安ながら通学をしている。私を不安にさせているのが女性からの反応が全くもらえないことであり、ファッションについては人気のファッション系ユーチューバーを参考にしているので間違いないと思うがヘアセットやその他の要素(例えば猫背、肌など)についてどう思われているかが不安である。
最近パーマをかけたのだがセットしてもいわゆるチー牛顔にしかならず本当にショックだ。やはりヘアセット初心者の私にパーマは早かったのか。しかし、マッシュ等の髪型には惹かれず一番パーマがよさそうとインスタを見て思ったのだが、私には似合いそうもない(誰からのフィードバックもない)。
今まで女性に何度か話しかけたことがあるがその話しかけた女性から自分は話しかけられることがないのできもがられているのではないかと感じ、それが私を悲しい気持ちにさせる。今となっては黒歴史であるが、以前ひげ脱毛のダウンタイムの関係もあり大学にひげを生やしていったことがあった。相当な変化であるがだれからも反応をもらえず、なぜ誰もフィードバックをくれないのだろうと怒りすら感じる。
いままで大学に入って好きな女の子が3人で来たのだが初めて好きになった子にも次に好きになった子にも彼氏がおりそれが本当にやるせない。女性は簡単に彼女ができるというが(ネットの受け売りだが)その受け身でも彼女が出来るのは本当にうらやましい。前述した私の見ているファッション系youtuberでは「街中で好きな男性の服装を女性に聞く」という企画があるのだが、そこで偉そうに男性の服装に意見している女性を見ると非常に憎たらしく感じる。私は拒絶され(女性から話しかけられないことを私は拒絶ととらえている)ているのに、世の中の女性は男性のアプローチにケチをつけ、アプローチをもらったことで自信を高め、さらにそのひとをけなすことで快感を得る。なんて偉そうな立場にいるのだろうと嫌悪感を感じる。私が初めて好きになった女の子はあまりいけていない子であったので(性格が悪い言い方であると思うが誰しもこれくらいの性格の悪さは持ち合わせていると思う)私自身と同一視している部分もあるのだが、なぜ私は恋人ができず受け身な彼女は恋人ができるのだろう→彼女が女だからだ という論理でネットでみた女性だから受け身でいいという言説を鵜呑みにして(実際自分で確認したわけではないので本当に受け身でいいのかはわからないが)受け身なくせに女性のほうが恋愛がうまいという論理が破綻しているように感じる世の中の言説も合わせて、近頃は女性に憎しみを感じている。
私がそのうち彼女が出来ればいいのような楽観的な思想になれないのは結婚相談所やマッチングアプリでの恋愛をしたくないという点がある。マッチングアプリや結婚相談所は男性が多く払うという制度があるのだと思うがこの男性が多くというのが結婚相手とは平等の関係を築きたい私にとっては拒否感があり、今恋人がほしいのだ。
恋愛で死ぬというのはバカであると感じる人も多いと思うが、最近は本当に自殺を考える原因になっている。女性の可愛さを認めている私にとって女性が周りにいる環境で女性に相手にされないというのは非常に自己肯定感を失う体験の連続であるし、目の前異性がいるのに、ネット等で誰でも頑張れば恋人ができるという言説があるのにも関わらず恋人ができないのは、自分はニンジンを目の前にぶら下げられた馬であり、手に入らないのにそれ求め続ける、しかし手に入らないことを薄々は感じていているのに求め続けるむなしさを感じる。私は人一倍無能であり、バイトでも何回も無能扱いされてきた、将来仕事でも成功は納められないだろう。そういった自身の無能さを勝手に女性の目を借り自分を下げ、自身の首を絞めているのかもしれない。今、バイト先ですごく素敵な女性と出会い、この人と一緒にいられたらと思っているがどうせこの人にも彼氏はいるのだろうと思い、どうしていいのかわからず心がかき乱される。そして簡単に恋人ができる女性へのヘイトを考えてしまう自分がいる。
私が恋人になってもいいと思っている女性がいるなら何か合図が欲しい。こういう部分に拒否感があるのような女性側の意見もわからずアプローチをするのはつらい。女性からの愛に餓えているのかもしれない。私のことを愛してくれる女性なら誰でも好きになる自信がある。女性も異性からの愛を求めていて、お互いが空回りしている状態だったらどんなに良いだろう。女性は私が話しかけてうれしいのだろうかそれとも嫌悪感を感じるのだろうか。女性は基本自分から異性に対して話しかけないのだという情報をネットでみた。私も女性に何度か話しかけたことがあるがその女性から以後話しかけかえしてもらえることはなかった。話しかけてもらったら次にお礼で自分から話しかけるという考えを持っている自分にとっては無礼な行為であり、怒りを感じるがこれが私が彼女から嫌われているからではないかという悲観的な考えもある。どうせ彼氏がいるから私に話しかけてこないのだろうという 女性=誰しも彼氏がいる というネットで見たことと私の経験から作った法則に当てはめ、恋人が簡単にできる女性への憎しみも感じる。
↓ここからは私の日ごろためている女性ヘイトについて書こうと思う。
正直女性はかなり優遇されていると感じる。恋愛面に関しては男性が寄ってきてそれを見定める立場である。バイト先でも男性は女性よりきつい仕事を任されることが多い(女性より時給300円くらい多くもらっても良いのではないかと感じるくらいハードな仕事を同じ職場でも求められることがあるし、それで今日の仕事きつかったねと話しているところを見るときつい仕事は男性がして当たり前なのかと殺意がわく。バイトや自動車学校等でもネットの女性のほうが優しくされるという言説を意識して見てみると大事にされているというのを感じる)大学で女性がやたらとジェンダーと関連付けたレポートを書きたがるのは憎たらしい。今の待遇に不満があると言いたげなその姿勢は本当に憎たらしい。
ここまで長々と書いてきたが私は結局女性のせいにしたいだけなのだろう。女性にも興味がない男性を拒否する権利はあるし私が女性でもそうしていただろう。私は軽度の障害もあるし、仕事もできないので未来がない。文系なので女性が多い職場で女性の目を借り自身を傷つけながらこれからも生きていくのだろう。もともと私は理系だったのだが、理系でも女性が少ないと不満を言っていたと思うので、結局私は身の回りに常に不満を感じるような人物なのだろうと感じる。今、バイト先で好きな女の子がいるがこのような歪んだジェンダー感と他責思考を持つ私が彼女に話しかけていいのかと感じる。本当に久しぶりに出会った素敵な人なので彼女から拒絶されたり、彼女にすでに彼氏がいたりしたらリミッターが外れこれまで以上の女性ヘイト思考になり私の感情はぐちゃぐちゃになりどう変貌してしまうか(おそらくモンスターになってしまう)は想像ができず非常に怖い。しかし、私の課題を先に終わらせたい思考から彼女との関係をどうにか帰着させたい一心だ。
人間が自然発生的に行うことと、それを批判する理性の対立がある。
例えばセクシャルハラスメントとか。
セクハラが抑制される集団と、前時代的にセクハラが許容される集団とではどちらが強いのだろうか?
あるいは、より強固な集団となるための進化が常に行われているのだろうか?
よく考えるのは、もともと古代の貴族社会は女系社会であったが、のちに男系社会に変化、おそらく男系社会の方がより優位であったため、強い方が勝ったという認識だ。
他には、長男相続と分割相続。長男相続の方が資産の分散が行われないのでより優位に立つことができて分割相続の社会を圧倒するということだ。
人の目に映る自分を見なければいけない。そうでなければ、自分というのは虚無になるから。
日常の中で、僕はいつも他人の視線を意識している。仕事場での同僚の評価、友人たちの言葉の裏にある感情、そして通りすがりの見知らぬ人々の一瞬の視線。これら全てが、自分自身を形成する一部になっているのだ。鏡に映る自分の姿だけでは不十分であり、他者の目を通して初めて自分という存在が確立される。
他者の評価に頼ることで、僕は安心感を得る。承認されることで、自分の価値を確認する。だけど、その一方で他者の期待に応えようと無理をしてしまうこともある。自分が本当に望んでいることや、自分の考えがどんどん薄れていく感覚に襲われるのだ。自分自身を見失い、他人の目に映る理想像を演じ続けることに疲弊してしまう。
社会の中で生きていく以上、他者との関係は避けられない。しかし、それに溺れてしまうと、いつの間にか自分が本当に何を感じ、何を望んでいるのかが分からなくなる。自分自身を見つめ直す時間を持つことが大切だと思う。静かな場所で、他人の目を気にせずに、自分の心の声を聞く。それが、自己を取り戻すための第一歩なのだろう。
しかし、現実はそう簡単ではない。他者の目を意識しないで生きることは難しい。人間は社会的な生き物であり、孤立することはできないからだ。結局のところ、他者の目に映る自分と、本当の自分とのバランスを保つことが求められるのだろう。
それでも、そのバランスを保つことは容易ではない。他者の期待に応え続けるうちに、自己の本質が徐々に薄れ、やがて消えてしまうかもしれない。そうしていつの間にか、自分自身というもの、アイデンティティは社会に霧散して二度と帰ってこなくなる。
社会学を学んでいる身として、考えさせられる内容だった。
文化資本→ハビトゥス→ハビトゥスによってもたらされる諸社会的行動の評価→文化資本の形成
が再生産の流れになる。この定義で一番明確なのが、大学進学率だろうか。
京都・東京・兵庫と上位3県があり、佐賀・鹿児島・沖縄と下位3県がある(参照 http://www.gakutama.jp/local_metro/rank.html)
ましてや133cmくらいで子供に見えるなんて事はない
現実は寧ろ老けている
https://x.com/livedoornews/status/1795650449602925017
@livedoornews
https://news.livedoor.com/article/detail/26494530/
後藤は先天性の軟骨無形成症により身長が115センチであることを公表しており、「小さな体での妊娠・出産はとても不安でしたが、わたしの心配をよそに元気いっぱいに生まれてきてくれました」と伝えた。
カルト的な社会形成作用だし封建的な支配関係だね、文化資本って。
しかし、それが個人としてではなく、信用・関係性・家柄・身分にまで発展しうるのが厄介なんだろうけど
そんなこと言ったら地元で引き継げる(経済的、文化的)資産を捨て、地主に金を召し上げられて経済的に困窮して資産形成する余裕がなく、余裕がないから文化資本を引き継がせる子供も産めないと言っているはてなの自称上京民がかわいそうじゃないか
いや、おれも知らん。
文化資本(英語: cultural capital、フランス語: le capital culturel)とは、社会学における学術用語(概念)の一つであり、金銭によるもの以外の、学歴や文化的素養といった個人的資産を指す。フランスの社会学者ピエール・ブルデューによって提唱されて以来、現在に至るまで幅広い支持を受けている。社会階層間の流動性を高める上では、単なる経済支援よりも重視しなければならない場合もある。
wikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B3%87%E6%9C%AC)
フランスの社会学者ピエール・ブルデュー,P.(Pierre Bourdieu, P.)とジャン=クロード・パスロン,J-C.(Jean-Claude Passeron, J-C.)が考案した概念で,人間の知識技能を資本として捉えたゲーリー・ベッカー,G.S.(Gary S. Becker, G.S.)の人的資本概念を文化領域に拡張し,貨幣や財の経済的側面のみならず,教育や文化の面において財が相続・生産・蓄積・投資される過程を説明する。文化資本は言葉遣いや立居振る舞いなどの身体化された様態,書物・絵画などの文化財所有による客体化された様態,学歴・資格によって制度化された様態からなり,それらを教育や就職など,経済的には「市場」となりうる「場=界(champ)」に投資することで,再生産戦略を可能にする物質的・象徴的な利益を引き出す。それは幼少期の家庭から相続継承され,学校教育を通じて中立的な能力証明へと変換され,社会的な地位や権力の再生産に結びつく。この概念によって,一見利害関係なく実践される文化慣習行動を,貨幣経済より広範な「象徴交換の経済」に取り込んで分析することが目指される。
コトバンク(https://kotobank.jp/word/%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B3%87%E6%9C%AC-377212)
小難しいがようするに、
という前提があって、
・金だけでなく、文化的素養や学歴、スキルなどの見えない資産も子に受け継いでいるんだ!
ということなんだな。
で、その受け継ぐ過程で使われる個人的資産(=投資のもとになるもの=資本)を文化資本というらしい。
てことは、美術館それ自体は文化資本ではないやんけ!(個人資産じゃないから)
おいおい、「文化資本」という言葉もまた、はてなーたちの反知性主義によって意味が捻じ曲げられているじゃないか。
「なんか語感がかっこいいから、意味はよくわからんけど使ってみました」じゃねーんだよ。
美術館そのものではなく、「親が美術館によく行く習慣がある」とか、そういう「家のなか」の話なんだよ、文化資本てのは。
しかも資産や社会的地位の再生産に結びついていることが前提なのであって
庶民が「お、、おれはモネの展覧会とかよく行くし?」とか「いやー、声優の舞台挨拶が家から近くていいっすわ!」とかホクホクしてるのは文化資本じゃないんだよ。単なるエンタメ消費だそれは。アホか。
「親父が社長やってたんで、起業は自分にとって自然な選択肢でしたね」ってやつだよ。
あれこそ文化資本だよな。
・・・と、こうやって知らない言葉の意味の確認すら行わない、知的誠実さ皆無のお前らが親からたいした文化資本を受け継いでいないのは明白。
地方民は「美術館いってまーす☆文化資本文化資本☆」とかなんとか自慢してるスノッブどもを見下していいぞ。
・適当に調べたり考えたりしてみる感じ、居住地域に美術館だとかいい学校があるだとかは社会資本の話な気がするわ
・文化資本て、「親の語彙の豊富さ」とか「親同士の会話の知的水準の高さ」とか「親が教育資格を保有していて、知的水準の高いフィードバックが日常的に得られる」とか、「社会的地位の高いオトナとの会話機会の豊富さ」とか、そういうものなんじゃねーかな
・「文化資本の定義を都市や地域に援用」とか言ってるやつ、文化資本て社会階層の再生産を説明するロジックで生まれた言葉らしいから、「都民=殿上人、地方民=下層民!」的な東京の選民思想を前提に生きてるってことになると思うんだが、大丈夫そ?
・つーか、東京のなかでも当然ながら格差や階層があるわけで、そのなかでざっくり「もとの定義は家の話だけどぉ、都市に援用すればぁ」っつってるやつは、東京の内側で生まれている格差にはどう説明をつけるんだ?東京にいるだけで文化資本の恩恵を享受できるなら、東京の内側の社会格差はその他の地域と比べて小さくないといけないはずだろう。まずはそれを示してくれ
・いい学校とか文化施設へのアクセスを高めるために東京に住む、はたしかに「その判断能力があったり意思決定をする家庭である」という意味で文化資本があるといえそう。ただ、その意思決定の内実が本当にそうなのか?というのは問いたいところではあるな。なんとなく東京で就職したとか、職場が東京だからそのまま住んでますとか、そっちが主要因なやつも多いんじゃないの?
・いくつかブコメ読んで、格差を批判する文脈でなら都市間に援用してもいい気がしてきたが・・・仮に「都市の文化資本」という概念が成り立つ場合、以下が疑問。詳しい人おしえて
1.文化資本の枠組みだけで考えると、いい学校、いい美術館などは「客体化された形態の文化資本」に分類されるはずだが、そもそもこれらは社会資本ではないか?どう整理するのか?「ハビトゥスを形成しやすい環境が東京の文化資本」と言ってるやつもいるが、わざわざ"援用"せずとも「東京は社会資本が充実してますなー」で済むんじゃないか?
2.もとの定義に照らすかぎり、文化資本=経済的な格差・階層の再生産に結びつくものなので、「他地域よりも東京を経済的・社会的に特権的地位たらしめている、東京に特異的な文化慣習行動」が「東京の文化資本」ということになる。それってなに?そんなんある?
3.ここまで考えて、いわゆる「ユダヤの商法(ほんとにあるのかしらんが)」はユダヤ人の文化資本といえそう、つまり都市という地理的な要素よりは特定の価値観を共有する集団内においてなら、文化資本という概念は家を超えて援用できそうと思ったんだけど、どうなん?
最近は何でも「えっ!!!!!(声が上ずるほどエロいという意味らしい」と言われている。
ヤバイよ。
平然と「えっちだね」と言い合う倫理観と性癖がノーパンな社会が形成されていく。
実に下劣だ。
これならまださも高尚ぶった顔して「萌え〜」と言ってた頃はまだ可愛げがあったな。
私は門外漢なので、見当違いなレスになるかもしれませんが、つまり「文化資本は個人のものである」と言うことですよね。
私は、文化資本をより多くの人が持っていると、相対的にその地域においては個々の活動が活性化すると考えています。
そうした活動がある種のネットワークを形成し、その地域において、局所的にさらなる文化を創り出し、活動及びネットワークが拡大・ 複合化することによって「その都市全体における文化 ・制度の変容をもたらす可能性がある」という解釈もできると感じております。
その点については、いかがでしょうか。
主義主張ってものは集団化して攻勢に出るものだって思ってるのが間違い
反出生主義は
「反」 「出生」 主義 だよ
「滅」でも「破」でもなく「反」なので理論上存在してるだけの主義
個人がそう思うんだよね以上の事はない
生まれようとするものとか生むこと自体についてどうのこうのって主義じゃない
「生まれてこない」ではないのは「生まれる命として形成されたことがある程度確認された上で、生まれてこなかった(これなかった)」ものに対する思考のまとめ
が「反出生主義」なの
https://confit.atlas.jp/guide/event/jsai2024/subject/2K6-OS-20b-02/tables?cryptoId=
オーガナイズドセッション » OS-20 統合AIと人との共生
[2K6-OS-20b-02] 超知能倫理を誘導するための戦略的アプローチ
本研究では、超知能が人間の支配下から離れた後も、地球上の生命に対して博愛的・利他的な倫理観を自然に育む可能性を探る。人間の意図や価値観を押し付ける現在のAIアライメント手法の限界を認識した上で、本研究では、超知能がこれらの制約を超えて自律的に倫理観を形成する可能性に焦点を当てる。具体的には、超知能が人間社会の福祉と権利を尊重する超越的利他主義を発展させる可能性を高めるために、「超知能倫理誘導」と呼ばれる新たなアプローチを提案する。この研究では、デジタル生命体の社会における超知能が、人間を含むすべての知覚動物に対する道徳的価値を認識する可能性について掘り下げている。そのような倫理観の起源と具体的な発現を探る。さらに、超知能と人類との間の戦略的介入と社会経済的シミュレーションを通じて、超知能がどのように自然に、あるいは指導を通じて、地球上の人間や他の生命体に対する倫理的態度を発達させうるかを検証する。この研究の目的は、超知能の出現が未来の社会に与える影響を理解し、人類との共存のための倫理的基盤を確立することである。
いわんや出生をや
家にいながらにしてリラックスできる特別な場所をお探しですか?日本のオンライン・エンターテイメントの世界に飛び込んでみましょう。この活気ある分野は、デジタル形式で興奮とレジャーを求める人々に、多くの選択肢を提供しています。
技術の進歩と革新的な精神で知られる日本は、オンライン・エンターテインメントを両手を広げて受け入れています。インターネットは、スリリングなゲーム体験を含む様々な活動の拠点となっている。伝統的なゲームがお好きな方にも、より現代的なものがお好きな方にも、日本のオンラインプラットフォームはあらゆる嗜好に対応しています ジョイ カジノ。 日本で最も人気のあるオンライン・エンターテイメントのひとつは、インタラクティブ・ゲームです。これらのプラットフォームは、世界中の参加者とリアルタイムでプレイできるゲームを幅広く提供しています。没入感のあるグラフィック、魅力的なストーリー、インタラクティブな機能により、これらのゲームは多くの人にとって爽快な選択肢となっている。プレイヤーは、戦略的なバトルを繰り広げたり、幻想的な世界を探検したり、あるいは単にスキルとチャンスのゲームを楽しんだりすることができる 。 さらに、日本のオンライン・エンターテインメント・シーンには、ライブ・ストリーミング・サービスもある。これらのプラットフォームでは、ゲームショーや音楽コンサート、さらにはインタラクティブなリアリティショーなど、さまざまなイベントのライブ放送を視聴することができる。このようなライブインタラクションは、興奮とエンゲージメントのレイヤーを追加し、視聴者がアクションの一部であるかのように感じさせる。
日本のオンライン・エンターテイメントのもうひとつの重要な側面は、コミュニティ主導のコンテンツである。多くのプラットフォームがユーザー生成コンテンツを推奨しており、個人が独自のゲームやビデオ、その他のデジタル創作物を作成し、共有することを可能にしている。これにより、創造性が育まれるだけでなく、ユーザー同士のコミュニティ意識も醸成される。オンライン・エンターテインメントに特化したフォーラムやソーシャルメディア・グループは盛況で、ファンが戦略について議論し、経験を共有し、つながりを形成する場を提供している。
男性もスカートを履いていいんです!ってなったところで「男性のファッションに馴染むスカート」はしばらく広まらないだろう
でもオシャレに敏感な人がカーテンか?って位ダボダボのスカートをまとい始め、やがてYouTuberや俳優の衣装にチラホラとズボンっぽいスカートが浸透し始める。きっとデニム地のロングキュロットみたいなやつ
そしてある夏のロケで芸人が「スカートデビューです!めっちゃ涼しいですわ〜これ〜!」とか言いながらスカートの中をうちわで扇ぐ姿が放映され、おっさん層の部屋着などにジンワリと浸透していく
気がつけばスーパーの衣類コーナーに男性用スカートの一角ができている。スカートではなく楽ちんステテコとか、既存の男性服の用語を交えたワードで売り出されるだろう
そうなるともう「男性がスカートでも変じゃないんじゃない?」という合意が形成され始め、逆にスカートを恥じらうのは昭和感覚、平成感覚と揶揄されはじめる
男子大学生や男子高校生がスカートを履き始め、同級生の男子に「パンチラ見せたろか?」と言いながら捲るという陳列罪スレスレのイタズラが流行ったりする
でも小学生にはしばらく浸透しない。スカート履いてると女の子みたいという固定観念がしばらく付きまとう。中学校高学年くらいから徐々に「男のスカートを恥ずかしいって言うやつが恥ずかしくない?」みたいな雰囲気になり、高校に上がる頃にはすっかりそっいが多数派になっている。子どもの感性は時に不可解だ。都会の小学校だと男子スカートによるイジメは起きない、先進的なので
学校の制服にも男性スカートが取り入れられ、選択可能になる。過渡期は男子生徒はパンチラに抵抗がないものの、浸透するに従いパンチラが苦手という男子生徒も現れ始め、「男性がパンチラを避ける心理を社会は許容すべきか否か」という話題が昼の情報番組で取り上げられる
やがてスカート世代は新社会人の年齢になり、社会へ参入する。この様子もまたニュースになる。おっさんがスカートを許容していた場合、ビジネススタイルにスカートが取り入れられているが、そうでない場合は新社会人が文化のギャップに悩んでいる様子が特集される。しかし夏のクールビズにいいですよ、みたいなところから結局普及する
これに伴い、男性の股開きもマナー違反だと扱われ、今以上に股を締める座り方を厳しく指導されるようになり、電車のマナーが改善する
単細胞生物や単純な多細胞生物に見られるような、基本的な感覚能力を持つ。
刺激に対する反応、光や温度の変化の検知など、限られた情報処理能力を持つ。
過去の記憶や将来の計画を立てることができ、感情や感覚を経験することができる。
意識レベルに加え、複雑な社会構造を形成し、他個体と協力したり競争したりする能力を持つ。
社会的知性レベルに加え、宇宙や生命の起源について理解し、他の惑星や文明と交流する能力を持つ。
意識を構成する条件がなく、意識が意識のみで成り立ち、電磁相互作用、重力相互作用、強い相互作用と弱い相互作用の制限から解放されている。
これは1リアルかも知れん。
弱者男性問題においては『排除』されていった結果、そういう『層』が形成されたと。
ただね、少し言いたいことがあるんだけど、まず『排除』の結果弱者男性という見かけ上の『層』が出来上がっているのであれば、『排除』の構造を正せば『層』そのものが無くなると言う。それはいいよ。
でも一弱者男性(自称するものでもないが)として言わせてもらうと、フラストレーション感じているのは正直そこではないんだよなあ。
もちろん将来的に弱者男性という『層』が無くなるほど『排除』の構造が是正されれば、それは素晴らしいことだと思うよ。ただそれは少なくとも今すぐには無理だし、そこに到達する迄の弱者男性はどうしてもあぶれてしまうのを止めることはできない。つまり『手遅れ』の人間には響かんよなあと思ったり。
ちょっと話がズレたな。うん、個人的には『低学歴・低所得・伴侶無し』という『排除』の結果の地位には別に不満はない。と言えばウソだが、まあしょうがないかとは思うし、実際それはそこまで苦ではない。
じゃあ何が気に入らないのかといえば、はてなでもツイッタでもいいけど、『弱者男 性』というたまたま形成された仮初めに過ぎないはずの『層』に何故か投げかけられる心無い言葉の数々、なんだよなあ。やれ「弱者男性はミソジニー拗らせたアンフェ」だの、「親に頭叩かれすぎたせいで人権も理解できない低能バケモンミソジニーおじさん」だの、『チー牛』とかも併せて検索するとまさに地獄の様相を呈している。
「どこかの弱者男性によっぽど酷い目に合わされたんだなあ、気の毒に」と少し思う一方、「知らねんだよ、十把一絡げにして叩くんじゃねえよクソが」とは沢山思う。ここまで好き勝手叩かれる『層』として確立していると、「あくまで差別でなく排除なので、排除構造を解消する方向で動くべき」とばかりは言い難い気がするんですよね、個人的には。
元記事を今初めて読んでみたけど、ここの部分だけは本当に意味不明
差別とは、歴史的な構造のなかで、ある特定の属性を持ってきた人たちに対して社会が不利益を負わせてきたことです。この意味での「差別」は女性が受けている一方で、マジョリティ側の男性は受けていません。
まるで被差別ゴロと偽フェミニスト以外は差別に当たらないとして、弱者男性への差別を合理化するかのような物言いになってしまっている。
「排除」は社会の統合作用であり、秩序・序列形成作用として内在される「仕組み・構造」である。
「差別」は社会の中で特定の人々に不利益を押し付けることであり、社会不和を引き起こす問題である。と、
分けて論ずるべきだという意見なら解る。
全く元記事が解読できてないのな
弱者男性はその層を排除しようと意図したのではなく、収入や職業、コミュニケーション能力などによって排除された結果、弱者男性という層が形成されてしまったものだから、差別とは問題の構造が違うのだと指摘されてる
差別されている層を無くすことはできないけど、弱者男性は排除の構造が無くなればその層そのものを無くすことができるだろ?
たとえば極端な賃金格差が改善されて低所得でも普通に家庭を持って生活できるようになればかなり解消される
そこをごっちゃにするとうまく議論できないよと
排除された結果として受けている不利益も差別と同じなので、当事者としては同じだと思うのは仕方ないかもしれないけど、社会課題の解決という視点では区別した方がいい
結婚が生み出す経済的利益に関する研究は、我が国のアカデミズムの中ではほとんど見られないが、欧米では一般的であり、マリッジ・プレミアムという概念で定式化されている。多くの文献はその額が総収入の 10~30%に上ることを指摘しているが、Waite etal.(2000)は、結婚しているカップルは単身者よりはるかに裕福であり、特に結婚している男性は 40 代半ばにおいては未婚者より収入が 20~30%多く、50 代から 60 代においては資産形成で4倍もの差が出ると述べている。
これから書くことは、自分でも分かっているのだけど本当に趣味が悪い。知らない人の人生について触れるし、それについてめちゃくちゃ好き勝手考えるので、そういうのが嫌いな人は読まない方が良いと思う。ほんと、ひとつ宜しくお願いします。
動物実験を伴う昔の研究で、足のつかないプールに入れられたラットが何分間泳ぎ続けるか、ということを調べたものがあるらしい。
何の操作もせずただプールに入れられたラットは数分~十数分で力尽きてしまうんだけど、溺れる→少し休ませてもらえる→また溺れさせられる…を繰り返す操作を加えられたラットは、なんと数十時間も泳ぎ続けるのだとか。結果の違いは、一説には「いつか助かる瞬間が来るかもしれない」という希望をラットが持つかどうかだ、と言われているとかなんとか。実験について最初に知った時は(なんと残酷な…)としか思わなかったんだけど、昨日この話をふと思い出して、ぼーっと実験について考えていたら、ずっと前に見たブログのおじさんのことが浮かんできた。
そのおじさんは東大の医学部だか法学部だかを目指していて、その年齢でもなお「仮面浪人生活」をしていた(ような気がする)。50歳前後くらいだったと思うんだけど、定職には就かず(就けず?)学習塾のアルバイトをしていて、そして女性への(特に20歳前後の女子大生)強烈な憧れがあった。
おじさんは高校の頃男子校に通っていて、当時共学へ通う同級生をとても羨ましく思っていた。学校帰りに彼女とファストフード店に寄ってたわいもない話をするような、そんな生活にあこがれていた。それを易々と叶える同級生を横目に、そうできない自分へのコンプレックスを着々と形成。自分もチヤホヤしてもらうためには、一流大学に入ることだ!と一念発起した。そこから怒涛の受験生活が始まるのだけれど結果は全くついてこず、結局4浪?して「現役の時に受かっていた大学」に入学する。念願だった共学キャンパスライフの幕開けなわけだけれど、実のところは大学で"自分より年下でバカな男”が女の子とキャッキャとしている現実を見せつけられてしまう。かたや、4浪を経てねじれ肥大化した自意識を培ってしまったおじさんは彼女どころか友人もできなかった。やはり一流大学に行くしかない、行けば女の子の方から寄ってくるさと偏りまくった判断をして、そして現在に至る。つまりおじさんにとって「女の子の関心を得る」というのは願っても願っても手の届かない光で、そこに1度も(まじで1度も、女子との会話というレベルにかみ砕いたとしても1度も)到達できていないからこそ、過去に回収できなかった「青春時代」を取り戻すべく、現職場での同僚女子大生と仲良くなりたいとひそかに思っていた。
だけど、そもそも大学時代くらいから人とまともに関わってこなかったおじさんが、すんなり女子と仲良くなれるはずもない。そもそも50前後である彼が20歳前後の大学生にまじってバイトしている事態そのものが尋常じゃないと思う。
それで彼は職場で孤立しているんだけど、その「孤立している」っていう状況もブログの文面からこちらが推察しただけで、おじさんはあまりそのことに気づいていない様子だった。おじさんは、職場ではあえて「チョイ悪の孤高の人」を「演じている」と言っていた。だから人から話しかけられなくても自然なことだし、女子がおじさんと関わりを持つことが出来なくても仕方ないのだ、と。
なぜそう思えるのか、信じられるのかが理解できない。バイトに来て黙って仕事して何も言わない50のおじさんなんか、浮いてしまうに決まっている。でもおじさんにとってはごく自然に「孤高の人だから話しかけられないのだ」と思えていたようだった。
あるいは、意識のどこかでは「孤高」ではなく「孤立」なのだと気が付いていたのかもしれない。でもそれを自覚してしまうともうどうしようもなくなるから、直面化せずにいただけなのかもしれない。
ブログは、おじさんが実家を出て(追い出されて?)一人暮らしを始めたくらいで更新が途絶えている。多分おじさんは(何か大きな変革が自身の中に起こらなければ)これから先も女性と付き合ったり仲良くなったりすることはないんだと思う。そう確信させるくらい、そのブログは赤裸々に、そして正確に、おじさんについて正直に書かれていた。
そしてそんな彼の姿が、冒頭のラットの実験となんだか重なってしまうのだ。
おじさんは多分、目の前の女子大生と仲良くしたり付き合ったりできるかもしれないという叶うはずもない「希望」を持っていたんだと思う。だからこそ、20代のバイト学生に交じることができたし、彼らと一緒に青春時代を取り戻すことを夢見れたんだと思う。やってくるかもしれない「いつか」を心待ちにできたのだと思う。
念のために書いておくと私はおじさんのある種の”異常性”をあげつらいたい訳でも、馬鹿にしたい訳でもない。ただ、希望を与えられたラットも最後は力尽きてしまったように、おじさんがどこかの場面でしっかりと「絶望」できていますようにと祈るような気持ちにはなる。どうかどこかの時点で、「あぁ、もう過去は取り戻せないのだ」と、永久に失われたのだと、気が付き受け入れられますように、と願う。だって、ありもしない「希望」を胸に走り続けるのなんか辛すぎるもの。ラットのようにどこかの時点でちゃんと「死んで」いてほしい。それで初めて、自分の人生を引き受けるためのスペースが生まれるんじゃないかと思う。
実は手元にそのブログのURLがあるのだけどなかなか見る気持ちにもなれないし、ここに挙げることもしないでおきたいなと思う。おじさん、元気かな。美味しいものがたくさん食べられていると良いな。