はてなキーワード: コマとは
だって悪のオンカジを叩くのに「ほぼ24時間ネットから遊べて現金がなくてもクレカでOK」という実質オンラインギャンブル化して、バカスカテレビコマーシャルまでやってる昨今の公営ギャンブルの存在はすげぇ都合悪いから。
オンラインカジノユーザーが急増してるんじゃなくてギャン中毒が増えてるって話だったりで、オンカジの批判は実はほぼ公営ギャンブルに当てはまる
だから公演ギャンブルもまとめて批判するならともかく、オンカジだけ批判しようとすると「違法」の1点突破するしかできなくなってぼんやりとした批判になっちゃう
まぁ自分からギャンブルのコマやろうギャンブル中毒から金巻き上げて生活しようって考えるキチガイ乞食たちのお気持ち当てゲーで運営も糞、お気持ち当てても実力が足らねぇのか八百長なのかしらんがあたらないという公営ギャンブルやるなら、
何も考えないサイコロの目あてるほうが楽しい、というのはまともな人間ならみんな感じることなわけで、そらギャンブル中毒が増えれば公営ギャンブルじゃなくてオンラインカジノが伸びるよなっていう話でしかないんだよな
・攻殻機動隊 THE GHOST IN THE SHELL(原作漫画)
情報量が多い!コマの外にまで溢れてる。一通りアニメ見た後に読んだので、なんかキャラクターの性格が軽い感じがする。意外とギャグテイストを感じる。
・劇場版 GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊
サイバーパンク感満載。劇画的なディテールの細かさと、体重を感じるような作画が美しい。アーティスティックな部分と、アクションの派手さがうまいバランスで成り立ってる。シリーズ入り口はやっぱこれだわ。
・攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX(S.A.C.)
テレビ版だから作画が粗いところもあるけど、1話完結の話も色んな映画オマージュを感じられて楽しい。公安9課のメンバーそれぞれにスポットがあたるから、だんだんと彼らが好きになる。少佐ってなんだかんだ面倒見がいいし、先生みたいなところあるな。
笑い男の社会風刺的な側面も特徴的で、物語に現実感を持ち込んだのは後のシリーズにも影響が大きいのでは。
・攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG
悪役がなんか面白い男。今の時代に放送されてたら、だいぶバズりそう。ファーストシーズンよりも政治的な話を扱っていて、難民問題とか今の世の中にも通じるという意味では未来を予見してるのかも。
難解、難解とは言うけど、まぁ耐性ついてるから大丈夫だろ→初見、途中で寝てしまう… 一緒に見ていた友達も寝てた。作画がすごいのは分かる、金と時間がすごくかかってるよね、でももう少しなんというか手心を…!
・攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX Solid State Society(S.A.C. SSS)
よくまとまっていてバランスがいい。難解さは少なくエンタメしているので、初見がこれでもいいのかも。
・攻殻機動隊 ARISE
少佐の声がいつもと違うけど、若い頃だから違和感ないわ。むしろ好き。あと公安9課の面々も、いつもとデザイン違うけど、若いんだからそんなもんかもな。だがサイトー!お前はそんなに軽いキャラクターから寡黙な男になれたのか!?
現実的なテクノロジーの先にある未来を予感させてくれるし、一貫したテーマ性が感じられて好き。過去のシリーズへのオマージュも好きだが、やややり過ぎ…?
・攻殻機動隊 SAC_2045
3Dアニメが嫌いなわけではないんだけど、やっぱりキャラクターの表情が乏しいという点で、他の作品に比べて入り込みにくい感じがある。
ポストヒューマン、持続可能戦争とか、出てくる言葉にはすごくワクワクさせられるが、それらが何の意図でどういう背景で現れたのかという点が飛び飛びで情報開示されるので、いまいいち頭に入ってこない…
少佐はいつもより若い(幼い)デザインに見えるが、サイボーグの特権だわな
・攻殻機動隊(仮)
楽しみにしてます!
描いてる人が漫画家じゃなくてアニメーターだからだと思うんだけど、次のコマを視界に入れずに、1コマを凝視しては、次に次のコマ、次のコマ、とみていくのを強制される。
私は鳥山明以降の漫画に慣れてるので、ページ全体を見ただけで流れがわかるようにしてほしい。あの漫画は、ページに10コマあったら、10枚の絵だ。
絵は一見雑だ。1コマずつ凝視するのは疲れる。あんなに雑だが、コマごとに微妙にオブジェクトがズレていく様が、アニメのようだ。エンジンの振動が伝わってくる。
普通、ラフなのに動きが見えるような漫画って、すいすい読める。でも、この漫画はコマごとに見ることを強制する。つらい
漫画でなく、全てのコマを引き伸ばして紙芝居にしたらよかったのかもしれない。
最後のほう、とにかく理屈っぽい展開だけど、それはたぶん作者も作品を通してなにが描きたいのかわかってなくて、主人公を通して怒りをぶつけてくる。お前が始めた物語だろと。
これを、わりと政治ネタに反応している方まで言っているを目につくのだけれど、どうしてかと思えば、原因となった問題からもう35年とかたってるからなんだな。
上の世代は知ってるから当たり前だと思ってるけど、下の世代は規制後しかしらないから、当時何があったか知らないんだとわかった。
ロッキードと言うアメリカの飛行機屋が、新作飛行機が売れなかったからと言って各国の政治家に金を賄賂をばらまき買わせたと言う事件。
収賄で当時の首相田中角栄ほか大物政治家がごそっと逮捕される。
当時は不動産などもやっていたリクルートが不動産開発で目を付けた土地の規制解除等を目的として多数の政治家に未公開株を配った事件。
当時は暴力団の公然経済活動を行う組織の一つであった東京佐川急便と大物政治家が共存関係にあった事件。
金丸信は東京佐川急便を通じて今で言う反社会的組織をコマとして動かしていた一方で、政治献金も受け取っており、最終的に内閣総辞職に追い込まれた。
政治家個人と企業が献金等を通じて近くなりすぎ、共依存関係になると問題が大きいとして、企業政治献金が勤仕されるという経緯がある。
一度政党や政治資金管理団体が受けろという事になったわけだ。これはそれなりに効果があって、ここまでエグい、企業献金が関わる汚職事件はその後しばらくは起きていなかった。
ただ、それがパーティー券という形で迂回される事態になっており、それがエスカレートした挙げ句、裏金として流通していたというのが今回の話で、
政治資金規正をしたら汚職が大きく減ったのだが、その迂回方法があって規制に穴が開いていたのでまた問題が発生した、と言う事で、このような規制逃れは辞めるべきだ、という話になっていると言うのが今の話。
ちなみに、政治資金の質は、特に大企業はコンプライアンス遵守のため大きく様変わりしている。
大抵の大手企業は、主な政党全てに、法律で許容される限度額を目安に均等に政治献金を行っていて、それは多くは「社会貢献である」と答えている。
こう言う横並びの状況の中で、パーティー券の購入は数少ない政治家個人にアプローチできる手段になっている面があって、企業は頼まれたら断れない場合も多いと思われ、
献金している大手企業は冷めた目で見て、さっさと規制してくれた法が面倒がないと思っている。故に、政治家側が資金源がたたれるため、ジタバタしている面がある模様だ。
脳内物質の分泌に問題を抱えた女の子たちの、衝動に任せた刹那的な生活の物語。
公共の場で暴力行為や罵り合い繰り返す彼女たちに対し、周りの大人は冷たい目を向けるだけで何もしようとしない。
社交性が欠落しやたらと攻撃的で、互いの事を何も説明しないせいですれ違っていく感じは、ある意味で実際のバンドマンらしさもある。
いまのところ話の進展はほぼないが、なぜか主人公たちのバンドは人気が高まりつつあるらしい。
その前に登場人物の誰かしらの預金残高が尽きる気がするのだが。
性格がピーキーな登場人物をキャットファイトさせることで、何か物語が進展しているように見せかける手際は、いかにも花田十輝らしい。
ただ、見せ場のために非現実的で衝動的な行動をキャラクターに取らせる悪癖が、このアニメにおいては奇跡的にマッチしている。
最新話で、雨の中、軽トラの前に飛び出す主人公や、メジャーアーティストがステージ衣装のまま楽屋裏から屋外に駆けてくるシーンは、
思わず「そうはならんやろ」とモニターにツッコミを入れてしまった。
1話で切った。1話はよくできていたが、オリジナルストーリーで再スタートを切れなかったのは致命的失敗だろう。
原作に詰め込まれた小ネタのキモになる部分を巧みに採用しつつ、映像化に際してテンポを落とさないようにチューニングされている。
カットされているセリフが聞きたかった、と思うことはしばしばあるが、大きな不満はまったく無い。
「今期の覇権アニメ」といった刹那的なポジションではなく、耐用年数が長く何度も見返せる作品を意識しているのだろうか。
映像化に際してかなりの準備期間・制作期間をもって作られているらしいところがあるので、
3クール目がまだまだ先になるのでは無いかと懸念している。できれば、迫力のある絵で劇場でやってほしい。
制作会社が変わったせいか、どうも会話のテンポ感にハマりきらないところがある。
パッと見は作画が変わったくらいで、劇伴や声優はこれまでと変わらないだけに、この「ハマらなさ」がどこから来るのかがよく分からない。
たしかに、原作でもこのあたりの話は間延びしている感じはあったのだが、広角レンズを使った大コマの迫力があるぶんあまり気にならなかった。
アニメの場合、広角のシーンでもパンが振られていたり、キャラクターが動いているせいで逆に安っぽく見えるときがある。
視覚のすごみに欠けるせいで、見せ場となるシーンが単なる長回しになってしまい、テンポが悪く感じられるのかも。
予断だが、賛否両論あった映画のオリジナルストーリーは、個人的には大好きです。本編に影響がない未来の話だし、あれくらいやったほうがよい。
冬のオフィスに出社したときのひんやりとした空気感などがよく伝わってきたところが良かった。
3期は、キャラクターに「寒い」と言わせなければ寒さが伝わってこないような感じがある。いちゃもんっぽい批判ですが。
前回のアニメ化は1話しか見ていないので、話も含めて実質初見視聴。
概ね楽しく見ているが、街の風景や旅路、宿屋や酒場の描画が、全て同じに見える。リアリティが無いというか、生活感を感じられない点がちょっと気になる。
もっとも、この作品の面白さは何と言っても会話劇にあるから、背景の描き込みはほとんど気にならない。
主役の二人はもちろん、モブも交えた会話でも、小粋なセリフ回しで心地がよい。セリフそのものの魅力に、声優のバフがかかっている感じ。
この作品なら、動くアニメではなくて、朗読劇や舞台で見ても面白そう。
原作未読で、アニメで初見。さすが横手美智子とうなる軽妙な脚本。宮野の当て書きじゃねえか、とツッコミを入れたくなるくらい、宮野がハマっている。
記憶喪失の人物を通じて、野球という題材の汗臭さや泥臭さをメタにネタにしつつも、
当事者たちが取り込まれるある種の狂気も、野球未経験者にも分かりやすく伝わってくる。
うっとうしいくらいのギャグが脳に残ったところで、登場人物のシリアスな過去もばっちりと魅せてくる。
ダンジョン飯もそうだが、このアニメもキャラクターの作画上の演技が細かくて見入ってしまう。
アクションシーンが長いのではなく、さりげなく差し込まれる捕球のシーンなどの動きがよい。
グローブに球が収まるときの反動や、投げるときの重心移動の身体感覚が、視聴者に自然に伝わってくる。
増田は野球未経験だが、バッティングセンターに行ってみたくなる。打てるのかな。
吹奏楽部を題材にした学園サスペンスもの。ファムファタールに出てきそうな新キャラを交えて、陰湿さにもオーバードライブがかかっている。どう考えてもNHKの日曜夕方17時に放送していいアニメではない。なんとなくだが、売上の一部を不登校支援の寄付などに回したほうがいいと思う。
要するに、そのくらい心理描写が細かいアニメだと思う。破綻の無い作画もさることながら、表情やカメラワークが良い。黒沢ともよは化け物。アニメの黒沢ともよの演技が凄すぎるせいで、この作品は実写化できないんだと思う。
原作は未読だが、ねちっこい女性同士のからみにフォーカスして構成するあたりが花田十輝らしい。
それと、京アニのキャラクターの演技ってやたらとわざとらしいよね。顔の前で手を合わせたり、わざとらしく頭を掻いたり。変に心理描写が細かいから、そういうアニメっぽい仕草が浮いて見える。
eスポーツはルール(システム)が頻繁に変わるが、競技性は変わらないから問題ない。
そう書いたら「いや、将棋がコロコロ変わったら問題がある」という反応があった。
それはなぜ?
「香車が他の駒を飛び越えるように強化しましたが、強すぎたので元の性能に戻します」
こんな風に将棋がアップデートを繰り返すようになったとして、具体的にどういう問題が生じるわけ?
結局は駒を扱う思考力が物を言うんだから、元々の実力差は覆らない。
先日、ピッコマで「北斗の拳」が1日限定全話公開してたので読んでみたんだが、本編はもちろんのこと、時代を感じる部分があって面白かった。
一気読みなのでうろ覚えも多くてすまんが、平成生まれのオタクから見たジェネレーションギャップをまとめてみる。
・男女の区別がはっきりしてる
男とは!女とは!というカテゴリで括られていて「男に生まれたからには」「女としての幸せは」みたいな性別による話が多い。基本的に男が戦っていて、女は戦わないし、戦っても弱い。進撃の巨人とかキングダムみたいな強い女は出てこない。(ユリア実はめっちゃ強いかと思ってた)
基本的に「女子供」は絶対に殺してはならず、守るべき存在。殺すのは相当な外道というポジション。「女子供を殺す奴は人間じゃねえ」って主人公サイドが言ったり。「俺は女でも殺すぞ!」みたいな脅し文句を悪の象徴として使ったりする。鬼滅では老若男女が喰われているが、女子供を喰っていることだけに非難が集中するわけじゃない。子供に対する不可侵はまだありつつも、薄れてきている感覚かもしれない。
・男は守ってもらえない
ヒーローと一般人という区分よりも、男と女子供という区分が強いので、男である限り一般市民でもあんま守ってもらえない。妹を人質に取られると兄は必死になって助けようとするが、それが弟になると「あいつにも死ぬ覚悟ができている」とか言って助けないパターンになる。男に厳しい。悪役に殺されるモブも男ばかり。男が殺されて女子供が殺されそうになった頃に主人公が助けにくる。男も助けてくれ。ヒロアカで女子供しか助けてもらえなかったらすごい違和感ある。時代なのか?
舞台は世紀末だけど性暴力的な言動や描写がほぼない。美人キャラ捕まえた悪役がいうセリフも「美人を捻り殺すの好き」みたいな感じで「俺のものにしてやるゲヘヘ」みたいな感じじゃない。誘拐しても無理やり襲わない。最近の方がそのあたりはエグい。
ビンタしないし文句言わないし口数も少ない。平成の暴力系ツンデレヒロインとは違う。多少の反抗はありつつも基本は受け入れていく姿勢で寛容。ユリアは母性が強く、みんながそこに惹かれている設定なんだが、それを大々的に語られていることが衝撃だった。周囲に「母性に惹かれてる」って思われるのってあの時代的には普通なのか?恥ずかしくないのか?「あの人、ユリアの母性に夢中なんだね」って言われるんだよ。性癖みんなに把握されてるようで自分なら取り乱す。
・命より誇り
かっこよく死ぬ!というスタンスというか。命よりも誇りを取る。掟とか伝統もかなり大事。美学に命かけてる感じ。昨今の作品はわりと命を大事にしている。主人公サイドは特に「掟を守って死んだら元も子もないねーだろ!?」みたいな型破りが多い気がする。北斗の拳ではかっこいいやつほど命をかけてるので、メインキャラがばんばん死んでく。死ぬペースも速い。
・親子の親は死亡フラグ
父親はだいたい死ぬ。母親もときどきしぬ。親が死んでも、子が受け継ぐみたいな価値観が強そう。親子キャラだから死なないだろ、主人公が助けてくれるはず!みたいな前提で最初は読んでたけど、最後の方は子がいるってことは死にそうだなと思うまでになった。最近の漫画や映画は子どもを一人残して死なないパターンが多いかも?
・ラスボス系が子孫を欲しがる
カイオウが「子をなす」ことを望んでいるのが意外だった。DIOとかヴォルデモートとか鬼舞辻無惨とか、ラスボス系は不老不死になって自分が永遠になる!みたいな思考が多いので。子供を作って受け継ぐみたいな人間的な営みを望むのが意外。上記の親子の価値観と近いところがあるのかも。
女オタクが絶賛してるけど普通につまらんかった。ブルーロックは本編を読んで好きだから映画見に行ったけどよくあんなの映画化したな。凪みたいな天才が無双するアニメ漫画はよくあるけど、そういう作品が面白くなるには周りの人間が重要。その周りにいる相方の玲王がキモい。
ただひたすら凪をヨイショするだけで凪の威を借りてイキってるだけの腰巾着。
本編だとその辺は書かれてなかったから玲王は影が薄かったけどエピ凪になるとひたすらヨイショするキャバ嬢みたいな奴だった。けもフレ2期のサーバルみたいな。
最後にチーム分けで凪と別れるシーンで尺稼ぎなのかずーっと玲王が泣いててキモかった。
本編だと数コマで終わるシーンなのに。
女オタクは「凪と別れて号泣する玲王きゅん尊い🥺」とか思って楽しめるんだろうな。
俺は男だからカップリングとかそんな興味無いけど、仮にカップリングを楽しむならストーリーの流れで自然と関係性があるキャラのカップリングを楽しむけど、エピ凪は「はいどうぞ、この2人の尊い友情で心のチンコ勃起させてね」と提示されてるようでであざとくて妄想すら捗らないんだが、女オタクはこれで良いのか。
凪と声優が同じグラップラー刃牙の範馬刃牙も天才肌だけど周りのキャラが濃いしみんな刃牙に対して厳しくするから天才が色んな困難に立ち向かうって構図が面白い。
でもエピ凪は天才が天才ムーブして横のキャバ嬢がヨイショしてるだけのなろう系。
ブルーロックは漫画だけ読むと全然女性向けじゃない熱いサッカー漫画で楽しめるけど漫画以外のアニメやらグッズが女向けに媚びすぎて非常に残念。女オタクに媚びれば爆発的な人気は得られるけどアイツら飽きたら何の躊躇もなく捨てるぞ。
長期的な人気より目先の金が欲しいんだろうな。
続きです。
しかし、結果的に言うとマンガ部も違った。こんな言い方が正しくないのは分かっているが、みな意識が高すぎるのだ。真面目にマンガに取り組もうとしている人たちばかりだった
「人は経験したことだけしか描けない」という信念のもと、学外活動にも熱心だった。いろいろな経験を積むことで、その経験が作品に、キャラクターに深みを与えるのだと。マンガが好きだからマンガしか読んでない奴には面白いマンガは描けない。そう断言してはばからない人たちだった
しかし俺はその考えには否定的だった。なぜならエロは自由だからだ。エロく感じるなら現実など無視して良い。腹ボコも子宮姦も感度3千倍もリットル単位の精液も、どれも現実にはありえない。だがありえないからこそエロいのだ。現実に縛られずに自由に描けるからエロマンガやエロ同人はエロいのだ
そして俺は漫画家になりたいのではない。エロの二次創作がしたいだけだったのだ。そのためだけに絵を練習してきたのだ。男などは描きたくはないが、竿役がいないと始まらないので仕方なく練習した。毎回毎回異空間に閉じ込める訳にも行かないから、背景も勉強して練習した。もちろん女体もしっかり練習した。だがしかし、精緻な設定も重厚なストーリーも人生経験もエロ同人には必要ないし、そもそも俺にそんなものを生み出せるはずもない。生み出そうという気持ちすらない。俺にとって重要なのは、読子やまほろさんをんほおさせること。それだけだからだ
とはいえ先輩方の絵は上手かったし、デッサンの勉強会なども定期的に行われていて、同期で入ってきた部員も何人かいたので、しばらくはこのままでいいかと思い、部に残ることにした。表向きは俺も漫画家志望だということにして
マンガ部では定期的に部誌を発行しており、部員は全員それに載せる作品を描くことが義務だった。作品を落とすことは一度目はセーフだが二度目はペナルティ(部員全員に食事を奢る、部誌の印刷代を出すなど)を課すという厳しいものだった。なので落とす人はほとんどいなかった。が、これに毎回苦戦していたのが俺だ
だってそうだろう。自分が一から考えたマンガなど、俺は一度も描いたことがない。ストーリーがあるマンガも描いたことがない。だが見様見真似でコマを割ることを覚えたりと、マンガの形式を少しづつ学べたのは良かったと今でも思う
そうして大学生活や部活動にも慣れ始めた頃、ついに俺は念願を実行に移すことにした。そう、エロ同人作家としてデビューすることだ
いきなりコミケはハードルが高すぎるし、何よりもサークルの当落があるので、本ができても落選では意味がない。だからまずは手近なイベントにしようと俺は考えた。ネタとしてはやはり、当時人気だった「おねがい☆ティーチャー」が鉄板だと俺は予想した。印刷所も手配し、同期にも手伝ってもらって原稿も描き上げた。この同期は真面目でエロマンガやエロ同人などには良い感情は無かったが、それでもマンガであることには変わりはないと割り切って手伝ってくれた。マンガとして成立しているかもきちんとチェックしてくれた。コマ運びや大ゴマの使い方など、エロ絵しか描けない俺の絵を「マンガ」にしてくれたといっても過言ではない。ただ、俺が本当にやりたかったのがまさにエロ同人だったと知っていたら手伝ってはくれなかっただろう。そういう意味では騙したみたいで、今でも時々申し訳無さを感じる
そうして出来上がった俺の初のエロ同人誌は、自画自賛だがなかなかのものだったと今でも思う。もちろん今から見れば何もかもが荒削りだし、絵だって素人にしてはまぁまぁ、というレベルだ。当時と今とでは要求されるレベルが違うが、それを勘案すれば「まぁまぁ」だった(今基準ならクソ認定されるかもしれない)
そして結論から言うと、俺のこの初エロ同人誌は完売した。ビビって100部しか刷らなかったのを後悔した。初めてのイベント参加で、初めての本なんか売れるわけがない。そうネットでは言われていたので、100部というのもかなりの冒険だったのだけど、当時は最低ロットが100部からだったので仕方なかった。今のオンデマンド方式なら部数は自在だから、30部ぐらいにしていたかもしれない。それはともかくとして
初めてのエロ同人が完売したという事実に俺は喜びに打ち震えた。たった100部とは言え、初めての参加で初めての本だ。それの「完売」の勲章は何物にも代えがたい。今までの努力が認められた気がした。エロ同人作家として価値を認めてもらった気がした。子供の頃からなりたかったエロ同人作家に、いちおう俺はなれたのだ
そこから俺はイベントごとにコンスタントに新刊を出すようになっていった。この頃にはとらのあなが最大勢力で、信長書店やメッセサンオーといった同人を扱うショップも多くなってきた。一方で長年お世話になっていたLLパレスは悲しいことに規模を縮小していったが、こういうショップが勃興することで、俺は部数をどんどんと伸ばしていった。イベントで売れ残っても、その在庫をショップが引き受けてくれるのだから、スペースの限界まで持ち込めるのだ。100部から始まった俺の本の印刷部数が4桁後半になるのもあっという間だった。実家から離れて一人暮らしを始めたのもこの頃だった
一方で同人活動にかまけて、学業どころか大学生活が破綻するようになった俺は留年の危機を迎えていた。おまけに世は就職氷河期真っ只中である。だが俺はまったく気にしていなかった。この頃の俺は1000万円以上の収入をエロ同人から得ていたからだ。就職も卒業もする意味も理由も俺にはまったくなかった。が、親に懇願されたのもあって、卒業だけは一応しておくかと思って追試でどうにかなった。大学側の温情も多分にあってのギリギリ卒業だった
親からは就職をどうするのかと何度も問い詰められた。いまの状況ではまともな就職など出来ない。だからしばらくフリーターをやると言うと、それなりに納得していたようだった。エロ同人作家もフリーターも似たようなものだ。だから俺はここで本当の「エロ同人作家」になった。大学生のお遊びではない、本物になったのだ
さて、無事に大学も卒業して「職業、エロ同人作家」となった俺は、変わらずに活動を続けていた。好きなアニメやゲームを見ては妄想と股間を膨らませて、いかにこのキャラをアヘアヘ言わせるかだけを考えていた。清楚なタイプならギャップ萌えでダブルピースも悪くない。ロリロリでもアリだ。ちょうどこの頃はメスガキ分からせという概念も生まれつつあって、それに乗った俺は絶好調だった。少なくとも表面上は
だが、当時は分からなかったが実は俺はほんのりとスランプを感じていた。マンガの技術は桁違いに向上したし、画力だってプロと比べても遜色ないほどに腕を上げた。しかしやってることや描いてる内容は最初のデビューの作品から何も変わっていない。いや変えられなかったからだ。技術レベルは上がっても、「中身」は小学生レベルなのだ。小学生の描くバカみたいなマンガをプロが清書してるだけのようなものなのだ。誰を描いても、何を描いても「うんこ! おしっこ! ギャハハ!」だ。そういうものを延々と再生産しているという事実に気がついた時、俺はゾッとした。結局のところ、俺はエロ同人「作家」としては何も進歩も進化もしてないのではないか。そう思った
学生の頃、マンガ部の真面目な先輩たちが真面目にマンガを描いていたのを見て、意識が高くて違うなぁと思った。俺にはそんなものは不要だと考えた。エロ同人に必要なのは、一にも二にも画力とエロスだけだ。そう信じていたが、そうではなかった、エロとはそんな単純なものではない。…俺はそんな風に段々と思うようになっていった。エロスとは人間の真実を浮かび上がらせる深奥なる営みの一部なのだ、と。今頃になって先輩たちの「人は経験したことだけしか描けない」という言葉が俺の心をえぐるようになっていった
しかるに今のこの俺はどうだ。実際のセックスなど知らずに、小中学生の妄想をただ絵で表現しているだけの、エロスも人間も描いていないただ手先が器用なだけのバカなのではないか。小手先でエロい絵を描いてるからある程度評価されてるだけで、「作家」としての評価は下の下なのではないか
俺は「漫画家」になりたかった訳では無い。ただエロ同人作家でありさえすれば良かった。だがエロ同人作家であろうとするなら、同時に「漫画家」的な資質も要求されるのだということを、俺はようやく思い知った。エロいからというだけで、設定など無視してキャラにアヘ顔ダブルピースをさせるなど、そもそも作品を理解していないから出来ることだ。果たしてそれは二次エロとして正しいのか。エロ同人作家としてあるべき姿なのか。そんなことを突きつけられた気がした
今から思えばそれは事実だった。だが当時の俺に、その事実を受け入れ、飲み込む度量はなかった。なまじ売れていたからこそ、自分が真のエロ同人作家ではないという事実が受け入れられなかった。あれほど憧れたエロ同人作家として成功したというのが、すべて幻だった、勘違いだったなど受け入れられるはずがない
だから俺は、「本当のセックス」を知るためにまず風俗に行くことにした。実際のセックスを体験すれば、それが何らかの形でマンガにフィードバックできると考えたからだ。そのフィードバックを得られれば、俺は一つ上のエロ同人が描けるようになる。そう信じた。マンガ部の先輩たちが言っていた「人は経験したことだけしか描けない」という言葉に、今更のように俺はすがった
だが、「実際のセックス」は俺の求めたフィードバックもインスピレーションも、何も与えてはくれなかった。実際のセックスはさほど刺激的でもなく、快感という点でも右手に大きく劣るという有り様だった。しかし一つだけ大きな学びがあった。「セックスはいうほど気持ちよくはないが、しかし女の子とイチャイチャするのはたまらなく心地良い」のだ
話は少し前後するが、俺は外面が良いというのは何度も書いた。芸能人レベルのイケメンとまでは言わないが、雰囲気イケメンぐらいではあった。身長だって175センチあって、武道で鍛えてはいたので細マッチョだったから小中高と女子には受けは良かった。告白されたことも何度かある
でも俺はそれらを断った。なぜか? それは真実を知ることで幻想が壊れることが怖かったからだ。そして己の欲望をありのままにぶつければドン引きされるのが分かっていたからだ
俺とて子宮姦など現実にはできないことは知っているし、そんな長大なナニも持ち合わせてはいない。感度3千倍なら脱法ドラッグあたりなら何とかなるかもしれないが、それとてリスキーが過ぎる。なにより俺には妹がいると最初に書いたが、そのせいで「現実の女」に対する期待値などゼロだった。「人語を一応は解する邪悪な獣」である妹が俺の中では現実の若い女性のモデルケースだったので、そんなのの類似品と「お付き合い」など出来るはずがないし、したくもなかった。故に俺はセックスへの憧れ、期待を持ちつつも実行には至らなかった。現実の女子などは鬼神のごとく敬して遠ざけるのが最良なのだ
とはいえ性欲は人並み以上にあったので、ヤりたい気持ちは常にあった。ヤれそうなタイミングもあった。しかしエロ同人的な世界観を内面化している自分が、常識的なセックスで満足するとは思えなかったから踏みとどまれた
話を戻すと、いざ実際に現実の女子と致すと、なるほど予想の通りにさほど気持ちよくはなかった。全くの想像以下だった。しかし、事前事後に快感とは別の多幸感のごときが押し寄せてきたのだ。これは予想外、想定外だった。幸せホルモンがドバドバと脳内に分泌されている。セックスとは竿の快楽だと考えていた自分にとっては、これは盤外戦のような感覚だった
だがこの感覚をマンガにフィードバックはできない。竿役のおじさんや触手が多幸感を感じたというのをどう表現しどうエロに昇華できるというのか。悩み、迷走した結果、俺は今まで通りの路線で続けることにした
ところでこの頃、自身の迷走もあって売上はよくて現状維持、ネタによっては大きく落ちることもあった。かつて数千部を誇った発行部数も在庫として積まれるようになっていった。そして何度も言って恐縮だが、俺は外面はまぁまぁいい。高校生の頃からの習慣で、イベントには常にピシッとした装いで参加していた。それは落ち目になったこの時でも変わらなかった
後にどこかで聞いた話だが、腐女子などもイベント参加のために気合の入れた服や装いを用意するらしい。大事な同人イベントや敬愛するサークルのスペースに訪問するのに、勝負服を着ないでいつ着るのか、という文化があるらしい。俺の装いへのこだわりもそれに近い、と感じた。俺はエロ同人誌が好きだった。それが頒布されるイベントも好きだ。それへの、そこへの敬意として正装をする。それらに対して恥ずかしくない格好をする。もちろん自分なりの、ではあるけれど、それが「礼儀」なのだと俺は思う
そして迷走してはいたものの、まだある程度の売上があったこの頃、この俺のファンだと名乗る女性がサークルスペースに現れた
まだ続きます。。。