はてなキーワード: 無人島とは
楽しいってなんだろう。大学にいって、未来のための努力をし、院にいけるようにする。ここのどこに楽しいがあるのかわからない。やりたいことをやるわけだが、それが楽しいかは別だ。楽しみって日々の無駄に内包されてるかもしれない。
だけど無駄にはいろいろあると思う。必要な無駄と必要じゃない無駄。主に必要な無駄のなかに楽しみはあるきがする。楽しみが成り立つためにつまらないことがほかにもあるのだろうという発言はきっと典型的でそこまで非難は浴びないだろう。
必要な無駄という言葉はなかなか逆説的だと思う。息抜き、失敗などはかなりわかりやすいと思う。自分を保とうとするための利のない行動や無駄をしないために無駄を知る。それは包括的な意味で自分のために必要だ。だがその必要な無駄を行う理由のうちわけはだいぶ傾いているように思える。
少なくとも自分はそうだ。例えば自分が自分であることを保とうとし同時に向上心を持つ。そう自分に心がけるよりも、そう人に思ってもらうように心がけている。つまり社会的体裁のために無駄をしている。腹黒いともいえる。他人の非難を恐れているからだ。だけどこういう自分の考えは知られてしまえばむしろ他人から非難されるようなことで教育的道徳に反する考えだろう。でもそれが生きていくうえで不必要で無駄なことだとは絶対に思わない。他人、上司、友達、そして家族がそれを求めているか、それはNOだと思う。しかし社会はそれを求めている気がする、それをも求めていると言ったほうがいいかもしれない。
2浪ではっきしいってニート気味の僕がいる。
一応社会経験があるけどそれだけで社会を知った気になっているつもりははまったくない。匿名性を利用して自分の知識内で自分のことと訴えを綴りたい
顔色を窺って生きてきたツケがきたのだろうか、ここまでの道のりに時間と金とを失い心は荒み無意味な傷を刻み己に陶酔してきた。
ボクが人を殺したら人はボクをどうみなすのか
中学のころからいじめられ、心は荒み、一人を恐れ、学校で事件を起こし、親が離婚し、親が自殺し、受験で苦悩し自殺未遂をしたからこうなってもおかしくはない。もっと周りの人間が支えるべきだったと。
冗談じゃない。結果論にもほどがある。まったく倫理的じゃない。そう絶対的に言い切れる。
ボクは死んだらいいのに、死んでほしい、という人間はいるが自分で殺したいと思うかはまったく別の問題だからだ。一般的な例で言えば「金正日」がわかりやすいだろうか。加えて人を殺すのは嫌いだし阿呆だと思うからだ。自分の手を汚すなんてそいつに負けるのと同じだと思う。殺すしかなかったといってるようなものだ。任侠でもない限り人を殺すことに大したメリットはないと思う、現代における日本ではそうなんじゃないかな。こういった問題を常に一様化して、報道などで家庭の問題だとかいわれてもそれでそうですねとは頷けない。
短い文章にしてまとめるとみんな同じ様なことしか話していない。「家庭的問題、学校教育の問題を見直す必要がある」これをベースに意味を通すこととして必要ではない無駄な発言を蛇足しているだけだと思う。ただの知識のひけらかしでしかない体積だけを膨らました発言。もう事実を流して一言いって終わりにしてほしいと個人的に思う。こんなことを知ることに意味はあるのか、そういうことすら疑問に思う。
(一応推論だけど・・・、しかしながらこの蛇足的発言は内容ではなくもっと違った意味を求められているゆえに話される、いわば必要な無駄なのかもしれない。
こういったことを話す人はある程度の発言をてお金をもらうわけだし、報道をする人それを受信する人、社会がそれを求めているからやはり言わないわけにはいかないとは、一方では思ってもいる。)
では、ボクが芸能界に入り大スターになったら人は何て言うのだろう。たくさんの苦労を経験したから、人一倍苦労をしたからと言われるのだろうか
滑稽だと思う。
まずいじめを経験した人は世にたくさんいるし、大人になってもいやな思いはさせられるものだ。親が離婚してる奴なんてたくさんいる。自殺者は年間3万人いてそれほど珍しいことでもない。自殺したいなんて一度はみんな考える。行動に移すかどうかの違いだと思うし、後遺症もなければ病院に運ばれてもそんなにたいしたことでもない。
だからまとめてしまえばそれまでがどうとかよりも結果さえよければいいと社会は言っている。そういう声が僕には聞こえてくる。
ボクたちの道端で思われるような理想を唱える人は、人は、社会のシステムを見直すべきだと言う。もっと格差をなくし手を取り合うような社会にするべきだと。弱さを認識し互いにもっと理解しあうべきだと。命はもっと尊いものである、ボクは心のどこかでそう想っていた。
社会は俺たちの道徳を見直せと言う。そんな理想論はやめろ。おまえたちの道徳は間違っている。いいかげん目を覚ましてなにがなんでも結果を出せ。それができないのならおまえなど必要ないから死ね。ボクは頭でそうなんだろうなと思う。そしてこう求めるのも人だ。
学校では人にやさしくし結果より意気込みを褒められたものだ。だからボクはそうやって生きていけばいいと思っていたのかもしれない。
だけど決してそんなことはなかった。
そんなことはなかったんだよ。
そして、人の目を窺うような努力は要領のよいものではなかった。そして自分のために努力することさえも自分は下手だった。
残りの数年間でわかる気がする。自分の命が社会に真に価値があるか、努力が大嫌いだけど、なりたいもののためにしなければならない。今回受験で半年しかできなかった努力をのばしてみる。客観的に不可能だと思っている。センター前にこんなことしているからだ。なのに個人的には何故かできると思うからこれは駄目だなと余計に感じている。だから僕は叶うかどうかはぎりぎりわからないけれど、諦めている夢の希望を理由に生きている。人は「無理だよそんな考えでは、夢なんてかなえられない」と思うのだろう。そう思ってくれたら僕が予想した条件反射に引っかかった気分でうれしいものだ。でも、ぶっちゃけそうだろう。
僕は作家になろうと思っている。今は自分の顕示欲にすがってみるしかない。それをあと数年間の生きる言い訳にしてみて、数年後のそうじゃなかったときの十分な保険としての理由にしたい。
ヒトラーは命は弱さを許さないといった。そのとおりだと思う。必要ではない命もあるし、価値のない命もあると思う。屁理屈を言えば体は餌にはなるなどたくさんあるけどそんなことで物議をかもすようなことはしたくない。
思えばもっとたくさん殴られてくれば良かったんだ。貧乏になって心も貧しくなり、継続的な努力もできない今の自分を自認するほうがぜんぜん痛い。こんな自分以外の誰を恨めというのか。時代や社会に文句をつけることなんて、友達の近況聞いたら言っても無駄だと、みじめだと思うしかない。なんで俺は生まれてしまったのかと思う。
ただひとつ世間に甘えたいことは生きる権利よりも死ぬ自由がないことだ。
死亡志願者を月1で集団自殺する無人島でもくれれば、みんな実費でそこにいくっていうのに、拳銃がほしいのに手に入れ方がわからないのに。
ぐぐってもおとり捜査みたいなのばっかりでうかつにてがだせないよ。一括で死ねば警察の仕事もスムーズになって、失業者が多いんじゃなくて人口が多いんだよと浅はかながらそう思う僕にはとてもいい制度に思う。痛いのも高いのもいやだけどそれでも一気に死にたいと思ってるやつが3万人以上いるんだよ。ゴミが死ぬべきなのなら、ゴミに死なせやすくしてほしい。
誰かに死んでほしくないと思われればそれだけで生きている意味と価値があるなんておこがましいんだよ。
ゴミ人間は逃げては駄目だと、社会復帰すべきだと、そこまでならいいけど、それに加えて全員がそうなれるとボランティアさんがたは本気で願っちゃったりしているのかな。一人でも多くなんて思っちゃっているのかな。救えないものはしょうがないというのなら最初からやらないでみんな見捨てろよ。理想は現実じゃないんだよ。現実を見てゴミの分別しましょうよ。リサイクルできそうなものには手を加えてほしいと思います。でも駄目なものは燃やしたり、土に埋めてください。死ぬべきなんだと見えないシステムはちゃんと言っている。
話してもわからないやつがいて、殴ってもわからないやつはいるんだよ。そういうやつは特別な才覚でもない限り社会的共存において必要とされないんだよ
それなのに生きることを強要するなんて最低に卑怯だよ。そんなの本能でも理論でもかてっこないじゃないか。結局これも叶わぬ願いの他力本願で無意味な愚痴に終わってしまう。こういう考えは非人道的だと思われておしまいなんだろうな。そういう非人道てきなやつな社会的共存における不適合な人間は死ぬべきだって、生きていたって価値もないと、人を包括する社会がいってるのになぁ。
仮に生きて求められたものに応えたとき、はたして本当に僕の命を社会は認めてくれるのかな。
今までを振り返れば、本当に自分のしたい内容の仕事を目指しているか、そのためになにかをしてきたか、これからするのか、鏡をみれなくなる。青春と逃亡と勇気と決意。言葉だけ並べても平凡な人生だと思う。
これから僕は情報判断力を養えるのかな。井戸を出れるのかな。
心さえなければ人にほめられるような人間になれていたのだろうか。
別に全然勘違いしてないが?
それとも業界団体労働組合宗教団体の支持者はろくに考えてない人ばかりだけど、無党派はマスコミの報道やブームに流されずに考えて投票してる人ばかりだといいたいのか?
業界団体・労働組合・宗教団体の支持者はろくに考えてない馬鹿ばっかりだな。
「無党派」層とやらはどちらかといえばマスコミの報道やブームに『流される馬鹿』ばっかりじゃねーか?
違うのか?
少なくとも地元で選挙戦たたかってる議員の話を生で聞くくらいのことしないで「考えてる」って言えんのか?
それによく考えた上で棄権する人だっているはずだ。
でた。
オレはこれがイチバンだめだと思ってる考え方だ。「良心的棄権」論な。
こういうこと言う奴は、口を揃えて言うよな。「投票すべき政治家がいない/政党がない」「マスコミの情報はあてにならない」「不完全な情報で一票を投じることは踊らされて誰かの利益になるんじゃないか」「だから投票しないことがオレの良心に基づく唯一の選択だ」とな。
アホか。
まず「すべき政治家がいない、政党がない」というなら、立候補すべきだ。自分が一票を委ねるべき政治家が本当にいないと思うなら。それが議会制(代表制)民主主義における原則だ。だから基本的に立候補は広く開かれている。けど、まあそんなのはダダこねてるだけだろう?要は。そんなこと言う奴で、本当にいかなる候補者とも異なる画期的で素晴らしい政策を持ってる奴というのは、外山恒一以外では見たことがないな。まあ彼は立候補するわけで、その辺筋を通しているのは偉いと思う。まあ彼の場合は「選挙」という制度を利用して街宣活動の合法化をはかってるという部分もあるわけだが、その程度の小悪は選挙制度を尊重する彼の善の前ではかすむ。
次に「情報が不完全」云々の言い訳だが、「投票しない」なら無罪だと本気で思ってるから批判してるんだ。「投票しない」じゃなくて「棄権する」だ。それは一つの意志行動だ。それも「選挙を否定する」という意志行動だ。棄権することで「選挙を否定する」という選択と主張をしていることを自覚しろ、と、オレはただそう言ってるだけだ。そこに強く反発するのは、本当のところ自分でも分かっているからなんじゃないのか。自分らのやってることが反社会的な行動だということを。
投票しないこと、『組織票を有利にすることを否定』するのは、別に創価憎しという話じゃない。宗教団体に限らず労組系でもそうだし、そもそも自民についてもそれは問題な点だ。結局の所人員をかけて、選挙カーでやたら名前だけ連呼したり忙しい時間に電話かけまくるといった迷惑なだけの行為を『選挙活動』とかみなしてる馬鹿馬鹿しい風景全てが、とにかくオレは嫌で嫌で仕方ないんだ。考えずに投票する奴は勿論論外にダメだ。だが、考えずに投票しちゃう奴に「投票するな」というのは無理だ(そりゃ選挙妨害だし他人の権利を否定することになるからな)。だからせめて投票出来る奴は考えて投票しろ、と言ってる。一票の価値を相対的に下げるためにも、だ。
「迷惑だから投票しない」じゃない。「投票しないことこそが迷惑」なんだ。
いいか、無人島で考えてみるぞ。
漂着した10人がみんなで「選挙でリーダー決めてまとまって動こうぜ」と決めました。誰も特別すごい人がいない中で、でも誰か代表を決めないと何も決まらないと思ったからです。怪しい二人組が「自分たちは別にやらせて貰いたい」と言いましたが、『固まっていないとみんな助からない、だからまとまっていなくちゃ』という意見が多数を占めて、選挙することになったのです。
ところが一人が言いました「オレ今日熱っぽいし、考えるのメンドくせー、つーか別に誰がリーダーでもいいすわ」。周囲は、まあこういう奴だし仕方ないなと思いつつ9人の投票でリーダーを決めました。
ところが、彼は一人部屋にこもってグチグチ言っていたのです。「○○は暗いし××は顔が悪い、□□はリーダーって器じゃねーよなー」…それを聞いた仲間が言いました。「んじゃお前がリーダーやれって」彼は言います「それは無理」。
そのうち、彼は周りに言い始めます。「オレもオレなりに考えて投票とかしないわけよ。」それに賛同する人が一人、二人、と出始め、あるときの選挙は投票したのが4人になりました。Aに1票Bに1票、そしてたった二人で周囲と交わらなかった二人組の片方が二票を集めてリーダーになりました。彼は「俺たち二人は別でやる」案を主張し始めました。他の人は「なんだそれ」「つーか、こんな選挙意味ねーだろ!」とブチキレました。「だって投票したの4人だけだぜ!こいつら二人が組めばどーしよーもねーだろ。つーか投票しねえお前ら、何考えてんのよ?!」最初に投票をやめた彼を含めて、誰も何も言いません。『誰かなんとかしてくれるだろう』と思っていたから。
…結果、集団はバラバラになり、あっという間に全員遭難してしまいました。
(おしまい)
なあ、この話を読んで、それでも「良心的投票拒否」なんていうおとぎ話が存在しうると思うかい?
というわけで、関係大ありだ。
◎無人島に持って行きたい??は何?っていう質問する奴は大馬鹿だと思うよ。
たまに、無人島に持っていきたいレコードは?とか小説は?みたいな質問を見かけますが、ハッキリ言ってそういう質問する奴って大馬鹿だと思う。
普通に考えて無人島に唐突に行ったりしたら、そんなレコード聴いたり、小説読んだりする閑あるかよ?その場に適応するのが精一杯でそんな場合じゃねえだろ。
お前は
「もしどこでも好きな国に行けるとしたらどこがいい?」って聞かれたら「まず言葉とか通じねえだろ常考」って言うのか?
「もし宇宙に行けたら何がしてみたい?」って聞かれたら「何かするとかそんな余裕あると思ってんのかよ?」って言うのか?
「もし空が飛べたら何がしてみたい?」って聞かれたら「落ちないようにするだけで精一杯、つーか落ちるだろ」って言うのか?
……言いそうだな。
なんかため息が出るわ。
http://b.hatena.ne.jp/pen_pen_gusa/
本ならサバイバルの本。DVDだったら箱がやたらでかくて水がたくさん汲めそうで、さらに盤面が一番光を反射できそうな物を持って行きたいね。
DVDなんか無人島に持っていく時点でおかしいとか思わないの?実際に元記事ではそんな話題出てこないし。
それに持って行ったとしても実際に水を汲んだりする時に持ち運びにかかる労力のことまで頭が回らないの?
馬鹿なの?
質問された増田です。なんだか自分のいない間にすっかり話が進んでいて、しかも既に自分の気持ちが書いてあった。お前は俺か。
http://anond.hatelabo.jp/20080726130551
非モテ好きの女は、狩られるより狩りたい女なのだと思う。
まさに「そうそうそう!」>狩られるより狩りたい
ついでにジェンダー違和だったりして。狩られる性であることに嫌悪感持ってたりして。狩りたい男が優しい振りして寄ってくるのに飽き飽きしてたりして。
ちなみに童貞は歓迎かな。萌える。でも処女厨的な意味(童貞じゃないと嫌だとか非童貞は屑だとか)じゃないよ。童貞相手だと、この人はこの後どんな風に成長するんだろう、どんな女とどんな経験を重ねていくんだろうって感慨に耽る(笑)。その感慨分がプラスアルファ。
http://anond.hatelabo.jp/20080726131808
「狩りたい」というのが、どうしょうもなく強者意識
それを言い出したら、女は常に365日弱者(として生きていくことを余儀なくさせられている)なんだから、たまに狩りたい女が一人二人いたくらいで目くじら立てんなよーと言いたい。ついでにこういう増田に対しては、さらに狩りたい狩りたい言い立てて、「非モテは女に狩られる弱者だ!断固抗議する!」と言い出すところまで持っていけたら面白い。
誰にもなんにも言われないってのは無人島にでも行かない限り無理です。自分のして欲しいようにだけ評価して欲しい、自分の希望しない評価はお断りってのも無理。希望するのは自由ですが。
なお、リアルでは嫌がる人に好き好き攻撃なんかしないのでご心配なく。照れる反応の人だけです攻撃すんのは。
でも、非モテ好きは優越感ゲームかなー。自分の場合は、狩られる立場であることへの反動ってのが大きいです。非モテへの優越感じゃないです。
しいて言えば、狩ろうとしてくる男(with デート代+必死のプラン+プレゼント+甘い言葉etc)を蹴って非モテ(何もしない、お金も全て女持ち)を選ぶときに、その狩ろうとしてくる男に優越感持ってるかも。我ながら性格悪い。なお、優越感という言葉から連想される感情をあえて無理矢理挙げれば、であってそれが本筋じゃないのでお間違いなく。
あと片思い状態(ただし周囲には公言済み、自分がひたすら追っかける)を長く続けたいってのはあるかも。普通の男はそれをすぐ終わりにしちゃうから。要するに、自分が言い寄ってる状態が好きなんですよ。理想はコレ。
http://anond.hatelabo.jp/20080725220543
がんばって!
ああいう無差別に相手を狙った通り魔っぽい事件とかみるとやっぱり怖いね。
いくらこっちが注意していようと、失う物が何にも無いキチガイが包丁振り回しながら襲い掛かってきたらどうしようもないもんなー。
そういうわけでこういう奴等、というかhasigotanとかはもう無人島とかで独りで暮らして欲しい。誰も視界に入らない土地で一人で暮らして欲しい。
>お願いだから、私の目に映る場所に出てこないでよ!私はいつ殺してしまうか解らない。貴方を殺すかもしれないよ。それとも貴方が子供と離れたときに、子供にわざとカートで体当たりするかもしれない。私は、何をするか解らない女だから。だから私の目に映る場所に出てこないでよ!つまりお前ら子連れの夫婦全部死ねって事なんだよ!!!
想像したくもないけど自分の妻や子供がたまたまこいつの視界に入ってしまったらと思うとやっぱ怖いわ。野ばらしにすんなよこんなの。
それかもう凄く幸せになって欲しい。
凄く幸せになって心の底から愛せる人をみつけて、その人に愛されて、その人の子供を生んで、家族を作って、みんなで仲良く楽しく笑顔で暮らして、キチガイに夫と子供を殺されてほしい。
そして一人とり残されて欲しい。
以下その原因と考えられる過去の事象、及び現在進行形で起きている事柄を可能な限り客観的に記述する事で自分自身の再確認を図りたい。
厳格な父と、息子を溺愛する母の間に一人息子として生まれる。
両親は婚姻届を出しておらず、私は戸籍上は母の私生児である。
理由は「社会的な規則に縛られない愛の形を体現したい。」という思いから。
つまり、二人は典型的なヒッピーカルチャーの申し子であり、フラワーチルドレンであった。
優しい、甘い、溺愛、奔放、社交的。
衣類に関する仕事。多忙。我が家の収入の殆どは母が支えていた。
誰からも愛されるような人物。
それでも私は母がいればよかったのだが、母も出張等で多いときは半年ほど家を空ける事もあり、その際私は親戚、ベビーシッターに預けられる日々が続く。
だがある時私が大風邪を引き一週間ほど寝込み、その間母が出張するという事があった。
その時私は自分自身の身体的辛さが悲しみを凌駕しており、
「人は自分自身が辛い時はまわりの事はどうでも良くなる。」
と理解する。
以後、一人でいる事は全く苦痛ではなくなった。
多くの人がそうであるように、私も他の生徒と自分とは何かが決定的に違うと感じていた(恐怖)。
それを悟られまいと、校内では誰よりもおどけて見せ、ある程度人気者の地位を確立していた。
その反面、家に帰ると締め切った部屋でひとりTVゲームしたり、父から教わったプログレッシブロックを何度も聞きながら、自分のした事に対する後悔の念にさいなまれていた。
父にとって外で遊ばない事は子供として最大の罪であり、特にTVゲームをしている所をみつかるとこっぴどく叱られた。
無理矢理「子供は木登りをして遊べ。」と木登りをさせられたりしたが、これの何が楽しいのか全く理解できなかった。
小学校の延長線上のような生活、アニメ等にも興味を持ち大量に見ていたが同時期に発生した宮崎事件によりアニメ好きへの大バッシングが始まったためアニメ好きであることは隠していた。
不良グループの一部とも付き合い始めるが私自身が不良だったわけではなく、なんとなく面白い奴なので一緒に遊ぼう的に思われていたのだと思う。
この頃一度暴行事件に巻き込まれ初めて警察に捕まり事情聴取を受ける。刑事は後ろ盾が「国」であるだけのヤクザだと感じる。
卒業式の日不良の一人が感極まって泣いており理解できなかった。
そう思うと小学校、中学校と腹を割って話せるような友達は私はいなかったのだろう。
一度だけ異性に告白を受けたが、恋愛どうこうよりも恋愛をする事で周りから冷やかされる可能性の方が嫌で断る。
常に気にするのは周りからの視線。町を歩いても。電車に乗っても。バスに乗っても。
家に帰ったとき「ここまでくれば誰も追ってこない。」と感じる毎日。
体育会系の男子校に入学。苦痛。ひたすらつまらない。ノリがあわない。
スポーツマン、不良、オタクの三種類の人間しかいない。地獄のような毎日。休みがちになる。
異性との出会いも無い。中学時代の友人ともつるむも、それもつまらなく感じる。
この時期初めて異性に恋をする。
美しいが、それを感じさせないほど純粋な人。
衝撃。嬉しさ。苦しさ。自分の惨めさと対照的な彼女の美しさ。
その人に認められたくて何故かテニスに専念。(当然見に来るはずもない)
そこで彼女と何日間か一緒に過ごせた事が最高の思い出。
彼女は月や海を見て綺麗と言える人だった。
ショックだったが元々彼女は自分にとって雲の上のような存在だったし、彼女が幸せであればいいのだと自分自身に言い聞かせる。
「抱いてみろ。」と父。
「可愛いですね。おめでとうございます。」と言ったように思う。
不思議に思う。
数ヵ月後、母から
「父はもう二度と家に帰ってこない。」
と伝えられる。理解不能。
以後母は毎日泣き通し、私は何が起きたのか理解できず不穏な日々が続く。
私があの時抱いた子供は私の異母兄弟だった。
以後暫くの間、自分が何をしていたのか記憶があまり無い。
普通に日常生活を送っていたと思う。
ただ、眠る時に毎晩同じ夢を見るようになる。
町の中をひたすら走っている、何処に向かっているのか解らないが、急がなければ、急がなければ、という酷い焦りだけはある。
走り続けて気がつくと何故か自宅の前にたどり着く。
右手を見ると自分がいつの間にかナイフを持っている事に気がつく。
家からは母と父、そして子供の頃の自分の声。
「ああ、やっぱりな。」
という思い。
玄関のドアノブに手をかけた瞬間必ず目が覚める。
何も無い真っ直ぐな一本道を歩いてる。
空は青から黒にグラデーションしている。
自分は全裸。
ひたすら歩いていると遠くから人骨が見えてくる。
人骨を見ながら何故こんな所に人骨があるのか、これは一体誰の骨なのか考える。
暫く考えるうちあるとき突然理解する。
「これは俺の骨だ。俺はもう死んだんだ。」
目が覚める。
目が覚めた後は決まって酷い寝汗をかいており、跳ね起きるようにベッドから立ち上がる。(これは今でも目が覚める時は必ず同じ。)
自分の部屋に鍵をかけ、タオル等でぐるぐる巻きにして、絶対に開けられないようにする。
外から誰が入って来るのを阻止するためでは無く、自分が部屋から出られないようにするためである。
部屋から出るとそのまま台所まで歩いて行き、包丁を取り出してしまう自分が想像できたからだ。
この頃、睡眠への恐怖からの不眠、拒食、ナイフ等で自分の胸を切る自傷行為を何度か行う。
今思えばこの時しっかりとした治療を受けるべきだったのだろうと思う。
だが私はその時全盛期だったレイヴカルチャーの中に飛び込んでしまった。
(ネオ)ヒッピー、トラベラーと呼ばれる人達との付き合いの中でドラッグを覚える。
色々な人を見た。
キャンプファイアーの中に自分から飛び込んで大やけどを負った人、トイレの中から「トイレがウジだらけだ!」と叫びながら飛び出してきた人(なんて想像力の無いパラノイアだ。)、ドラックを求めてタイに行き今も帰ってこない人、ごみの山を積み上げて自分は世界一のアーティストだとのたまう人、LSDとヘンプで世界が平和になると本気で信じている人。
つまり私はどこに行っても傍観者だった。
私はあの時破滅したかったのだと思う。
でもそれすらできなかった。
私は彼らが羨ましかった。
その後、そういったものから自然に離れて行き、ドラッグもせず、仕事もし、そして何度か恋と別れを繰り返すうち、自分はもう過去は乗り越えたものだと思っていた。
だがそれから約10年たったある日、また同じような症状が自分を襲った。
愕然とした。
もうとっくに自分の中では決着がついていたと思っていたのに。
ドアを開いたら、また同じ部屋にたどり着いてしまった。
私にとってこれは本当に辛い事だが、現在行っている治療と、自分自身の過去の向き合う事が、解決に少しでも繋がればと思いここに記す。
それは学校で痛いほど身にしみてる。
俺より5歳も年下のやつが・・・
ある日学校から電車に乗って行かないと間に合わない所で大切な学校行事があったんだけど
そいつが「今月はお金無いから歩いて行くわ、皆先行っといて(笑顔)」って言って、俺は迷った。
お金を貸せば一件落着だろうけど
どうしても貸したくなかった。
俺のお金じゃないから。
死ぬほど情けな過ぎて
俺も一緒に歩いて行った。
数時間後先生や先輩にとことん怒られた。
そいつは返事せずに俯いてた。
俺はそいつより遥かに子供だろう。
遥かに発達不足だろう。
情けない。
情けない情けないと話していると先生が言う。
「情けなくて可哀相な自分に逃げ込んでも前には進まない」確かに。
俺の周りは逃げ場だらけ。
皆はその地獄がどれだけ辛いかをわかってるから俺に忠告してくれる。
俺は地獄を知らないからわからない。
地獄は本当に今よりも辛いのだろうかとすら思ってる。
ツマラナイ人生しか送れない
ツマラナイ死に方しか出来ない。
いつまでも実感が得られない。
渇きを羨ましがるなんて愚かの極みだろう。
食べ物がたくさんある。
船出しないと。
私が本にのめり込むきっかけとなったのは、小学二年生の時に親から買い与えられた江戸川乱歩だった。題名は覚えていないのだが、怪人二十面相シリーズのどれかだったと思う。それまで童話やゲームブックしか読んでいなかった私は、たちまちその"はじめての小説"に夢中になった。何度も読み返し、本屋に行くたびにシリーズをねだり、次々と読破していった。読書欲、を感じた最初の瞬間だった。初めて自分のおこづかいで買った小説は「三角館の恐怖」で、この本に関しては購入した店も、そのシチュエーションも、はっきりと覚えている。あの頃は今よりももっと、本は輝いていて、私にとって尽きぬ宝の山のようだった。
やがて江戸川乱歩の子ども向けに出ているシリーズを制覇した私は、買い間違えたことをきっかけに、よく似た装丁のアルセーヌ・ルパンシリーズにも手を出した。「奇巌城」「813の謎」……ルパンの冒険と謎に胸をおどらせることの幸せだったこと。読み終わった私は、今度は祖父母に世界文学全集をねだった。この頃にはもう、両親よりも祖父母にねだる方が勝率が高いことを、私は理解していた。手に入れた全集は分厚く、何冊も連なり、私はそれをむさぼるように読んだ。私はそこにある本を読まずにとっておくことや、ゆっくりと何回にも分けて読む、ということの出来ない人間だった。覚えたての読書の味は熱病のように私をとりこにしていて、憑かれたように全集に没頭した。「海底二万マイル」「秘密の花園」「小公女」「黄金虫」……めくるめく世界は、まだまだ幼かった私の前にどこまでも広がっていた。
そうして、三年生になる頃には親はもうあまり本を買ってくれなくなった。その代わりに、図書室があるじゃないか、と私に言った。図書室に入り浸ることを覚えたのはこの頃だったと思う。毎日、給食を終えるなり図書室に駆け込んだ。読書に熱中するあまり、本棚の影で授業が始まっていることにも気づかず本を読み耽ったのが、私が始めて授業をさぼった思い出だ。その調子で図書室を開拓し、私は年間で20枚以上の図書カードを消費し、登下校の最中も歩きながら本を読んでいることで先生に怒られ、一年と少しが過ぎる頃には図書室の本は大体読んだと豪語するまでに至った。
それでもまだ読む本を貪欲に求めた私は、父親に面白い本を尋ねた。本の世界はあまりにも広く私の前に広がっていて、私はまだ、指針がなくては進むべき方向が分らなかった。父は私に「ロビンソンクルーソー」を勧め、それを私が気に入ったとみるや、次々に本を教えてくれた。これは後に私が入り浸ることになる図書館のものだったが、この時の私はまだ図書館を知らなかった。「二年間の休暇」「トムソーヤの冒険」「月面旅行」「地底探検」、冒険もの、漂流モノにはまったのがこの頃だった。
五年生になって、私には新しい友人が一人増えた。彼の影響を受けて、私は今度はSFの世界にのめりこむことになった。タイムマシンものよりも、謎のウイルスの話、宇宙人よりも、突然変異体が暴れまわる話が好きだった私を、彼が笑っていたことを覚えている。最も印象に残っているのは植物が突然人を襲い始める話で、何故か最後の部分だけ落丁していて読むことができなかった。そのせいで今でも覚えている。
六年生になってようやく、私は図書館という広大で未知の宝の山に足を踏み入れた。ここで赤川次郎にのめり込み、やっと私は、"作者で本を選ぶ"という指針を手に入れた。今までSFであればSFを、無人島ものであれば無人島ものを、とジャンルで開拓していたことに比べて、作者、という指針は非常に分り易かった。何より図書館は作者ごとに整理されていて、端から読んでいくのにちょうどよかった。私は弟の分のカードも使い、12冊借りては読み、翌日また12冊借りては……ということを夏休み中繰り返した。たまに別の作家の本に手を出し、それが面白ければその作者の別の本も…というように"あ"から順に私はじりじりと侵攻していった。
あの頃むさぼる様によんだ赤川次郎の面白さを、今ではもう理解することができない。けれど棚ひとつを埋めつくす赤川次郎の著作を眺めながら、少なくともここに棚ひとつ分の読む本がある、と奮い立った胸の高鳴りはしっかりと覚えている。赤川次郎や森村誠一や筒井康隆といった、あたるとデカイ作家は、あの頃の私には本当に偉大な存在だった。その分、寡作な作家は私の包囲網からはすっかりと抜け落ちていた。
穴を埋めてくれたのは、母だった。母は私に恩田陸をすすめ、若竹七海をすすめ、服部まゆみをすすめた。それらの少しマイナーで著作の少ない作家の作品は私を魅了し、私は父より母を頼りにするようになった。母は次に、綾辻行人や西澤保彦をすすめ、有栖川有栖を見切っていた私に、江神先輩シリーズを読ませて改心させることに成功した。いわゆる推理小説にはまったのがこの時期、中学二年から三年にかけてだったと思う。
母からは面白い作家だけでなく、"賞で選ぶ"という新しい指針も教えられた。母のお気に入りはメフィスト賞と日本ファンタジーノベル大賞で、私が講談社ノベルの新刊を全てチェックする、という蜜月の日々を一時期過ごしたのは、このせいだった。
中学を卒業する頃には私はいっぱしの読書家になっていた。最早教えを請わずとも、本屋を回り、タイトルを眺め、新たに開拓することができるようになっていた。けれど、書くスピードの方が確実に遅く、読む本はいずれ尽きるのではないか、という思いが頭に時折浮かぶようになったのもこの頃だった。
そんな思いを裏切って、高専に進学した私は新しい世界を知った。ライトノベルというその手付かずの場は、まだまだ広く私の前に残っていたのだ。コバルト,電撃,スニーカー,ビーンズ,ホワイトハート,デュアル,富士見……毎日学校帰りに本屋で一冊読破する、という本屋に迷惑な習慣を身につけたのはこの時で、毎月いっぱい買ってるのだからいいではないか、と自分の中で言い訳していたような気がする。当時バイト代は半分近く本代に消え、年間30万に届こうという勢いだった。今思えばあれが最後の、輝かしい読書の思い出だ。銀河英雄伝説を一気読みして泣いたことも、グインサーガを一週間で既刊読破し、読む時間と巻数が反比例していることを嘆いたことも、銀の海金の大地を捜し求めて古本屋を回ったことも、本当に懐かしく幸せだったと思う。
今ではもう、好きな作家の新刊と一部の賞の受賞作品をチェックするだけで、何も新たに開拓しなくなった。開拓する余地も、なくなってしまったように感じる。今でも本は変わらず楽しく、面白いもののままだ。それでも全てをかけてのめりこむような読書はできなくなってしまった。
まだ海外作品と古典が残っている、そう思うこともあるけれど。それに手を出すのは隠居生活に入ってからになりそうだ。
引きこもニートのやろうと話してたら、「メシを自分で作ってんだから俺はマシ」とか言ってんの。意味わかんないよね。「俺は自分のぶんのメシをドアの前に置いといてもらうとかそんなクソ野郎とは違う、自分のぶんのメシは自分で作る、しかもレシピ本を見てちゃんと凝った料理も作ってる。だから俺は偉い。何もしてないニートとは違う、俺は労働をしてる」とか言うわけ。
おおおおおおおい、本気で言ってんのかぁああああああああ。
食材は親が買ってきてくれてて冷蔵庫に入ってる。それを取り出してレシピ本のとおりに調理して、それを食う。それが労働なのか。と聞いたら、「メシ食うのが労働なわけないだろ、アホか。メシ作るのが労働だよ。俺は自給自足してる」と。
そんな俺理論を語られて混乱したしそいつの自信満々な顔がヤになってきたから、その場では話を変えて、おおきく振りかぶってのアニメの声のしっくり感についてひたすら褒め称えるトークに移ったんだけど。三橋は再現不可能だと思ってたのにもうスゲーじゃんあのピッタリ感、動きの再現もスゲー。ビックル一気飲み!とか熱く共感しまくったあと、家に帰ってから考えた。
自給自足って、労働を考えるときに一番いいモデルケースだとか思ったんだよ。自分が働いて生産したぶんだけ、自分が消費できる。カネとか無いからスゲーシンプルでわかりやすい。ヤツの場合はどうかというと、ヤツがたどり着いた無人島が、「電気とガスは勝手に流れてくるから冷蔵庫とコンロは使えて、あと冷蔵庫の中には勝手に食材が補充される」という魔法の島だっと仮定したら、もしかしたらヤツがやっていることは確かに労働なんじゃなかろうか、と思った。
経済学とかよく知らないけど、労働ってのは、価値を増やす行動のことなんでしょ。労働って概念は、「頑張ったのを褒める主義」でなく、完全なまでの「成果主義」ってことだ。ヤシの実があって、それを超苦労して素手で割って1時間で1個ぶんのヤシの実ジュースを取り出すのと、専用器具を使って5分で2個ぶんのヤシの実ジュースを取り出してあとは寝てるのと、比べたらどう考えたってラクしてるヤツの方がたくさん生産してる。
ちょっと蛇足だったか。
昔って、寝てるだけで狼に襲われるとか、そういうのがリアルにあったわけじゃん。でもイマって、そんなこと考えなくてもふつうに寝てれば普通に生きて翌朝目を覚ますことができるわけじゃん。昔はさ、ムラみたいなとこで何人か交代で見張りをして、なんか異変があったら叫んでみんなを起こすみたいな仕事があったわけよね。でもイマは無い。そんなことしなくても、安全な夜っていうのは所与みたいなモンとして存在してる。
たしかに労働だったはずだけど、その労働の結果得られるモノが当たり前のモノになったとき、その労働は消え去る。
でも人間の感覚って相対的なモンで、感覚がシフトして、いままで「つらい労働」と「ふつうの行動」と「楽しい消費」みたいな関係が成り立ってたとこから「つらい労働」がなくなると、「ふつうの行動」が「労働」って感じになって、それに引きずられて「楽しい消費」が「消費」って感じになって、どんどん「楽しさ不感症」になっていく。ひどいのになると、非コミュだかなんだか知らないが、ヒトと酒を飲むのも労働とか言い出す。
狩りをしてたころなんて、狩りなんてのは命がけのやりたくもない仕事だろうさ。イマは文脈上、血沸き肉踊るスリル、みたいな、そういうのはちょっと考えない方向にしてちょ。そんなやりたくもない狩りが成功して、ムラにデカい肉塊を引きずりかえって、それを切り分けて調理するのって絶対「娯楽」だろう。ちょおワクワクするでしょ。苦労して倒したイノシシをいまから食う!そのために切り分けて串に刺してさあ焼くぞオラー!超たのしい。
それがどうだろう、狩りとかじゃなく、魔法の国で、毎朝起きたらムラの真ん中にイノシシの死んだのが転がってるとしたら。「あーあ、こいつ食うためにまた切り分けなきゃなんねーよ…。おい昨日俺がやったんだからお前やれよ。寝てるから終わったら呼んでね。」こんなやりとり、想像できないだろーか。
これとはまた別の話で、カネとかいう無機質なもんがあるから、いろいろ体感的な楽しさがなくなるってのもある気がする。
楽しいのはどっちだろ。
仕事って、なんか就職とかそういうシステムの中で働いてると、まるで「仕事」っていう一定量の定まったパイを取り合うような、そういう感覚になってる大馬鹿者が多すぎやしないか。仕事なんて、他人に何か貢献すれば、それが仕事だろう。他人に愉快を与えて、その対価として自分が愉快になる。前者が「労働」で、後者が「消費」だ。これに限界なんて無い。なるべく多くの他人になるべく質の良い愉快感を覚えてもらえるようなことをする、そうすれば、自分も他人からたくさん愉快な気分を味わわせてもらえるんじゃないだろうか。
社会は大きすぎて、他人が見えない。大馬鹿者は想像力が足りないから、こういうことがわからない。まずは尽くせ、楽しませろ。そしたら返ってくるだろう。コミュニケーションが不足して、なんとなく機嫌が悪くなって、人を悪く言って人に不愉快感を与えるヤツばかりが増えるなんて、ほんっとダサい。人をたくさん不愉快にさせるヤツにはたくさんの不愉快が降り注ぐだろう。それじゃ愉快じゃないだろう。
偉大な事業を完成するためには、人はつねに緊張していなければならない。サン・シモン
志を立てて以て万事の源と為す。吉田松陰
着るものは新しいうちから、名誉は若いときから大事にせよ。プーシキン
われわれは、ことばではなしに、行為を見守らなければならない。そしてまた、われわれも、ことばではなくて行為で示さなければならない。J.・ケネディ
大変な仕事だと思っても、まず、とりかかってごらんなさい。仕事に手をつけた、それで半分の仕事は終わってしまったのです。アウソニウス
汝の活動、ひとり汝の活動のみが、汝の価値を決定する。フィヒテ
規律は、宗教に似ている。ばからしいように見えても、それが人間をつくるのだ。サン・テグジュペリ
至上の処世術は、妥協することなく、適応することである。ジンメル
決心する前に、完全に見通しをつけようとする者は、決心することはできない。アミエル
他人のために尽くすことによって、自己の力を量ることができる。イプセン
取らんと欲する者はまず与えよ。老子
学生をして自重の風を養わしめるためには、これを紳士として待遇しなければならない。アーノルド
礼儀は人を神聖にする。カント
一事をよく為す者は多くをよく為す。トマス・ア・ケムピス
余り考え過ごす者は何事をも成し得ない。シラー
まず汝自身を落ち着かせよ。そうしたら他人の間にあっても落ち着くことができよう。トマス・ア・ケムピス
とてもかくても、つとめだにすればできるものと心得べし。本居宣長
神は自ら助くる者を助く。フランクリン
心は盤石の如くおし鎮め、気分は朝日の如く勇ましくせよ。黒住宗忠
始まりはすべて小さい キケロ
意志あれば道は通じる。ハドソン
死を決するの何の難きことやある。ただ死すれば足る。難きは死地にありて生を決するにある。河村瑞軒
正しく思考されたものであるかぎり、それは必ず明瞭な表現をとる。ボワロー
鶏鳴に起きざれば日暮に悔あり。楠木正成
ときとして勇気は、征服者の心さえ動かす。ヴェルギリウス
道徳的勇気が正しいと感ずれば、なしえないという個人的決意はない。ハント
一つの冷静な判断は千のやかましい会議に勝っている。なすべきことは光を与えることであって熱を与えることではない。T・W・ウィルソン
人間の一生について、また彼の運命全体について決定するのはただ瞬間のみ。ゲーテ
過ぎ行く時をとらえよ。時々刻々を善用せよ。人生は短き夏にして、人生は花なり、彼は死す。ああ、何ぞ死するの早きかな。S・ジョンソン
機会が二度君のドアをノックすると考えるな。ジャンフォール
大人物と小人物の差異は、一度意を決すれば死ぬまでやりとげるという覚悟があるかないかにある。シェリング
賢くなることを明日に延ばすな。明日の太陽は汝の頭の上に輝かないかも知れない。コングリーズ
最も堅固な決心は最も有用な知識である。ナポレオン
心強くして進め。汝のすべて往く処には汝の神も偕に在せば、懼るるなかれ戦慄くなかれ。旧約聖書
用事を弁ぜんとせば自ら行け。リチャード
およそ世に障害のない仕事はない。障害が大きければ大きいほど、その仕事も大きい。マクドナルド
力は一切のものを征服する。しかしその勝利は短命である。リンカーン
各人は天より与えられて、各自自身の思想の主人公たる権利を有す。スピノザ
思案しないで我々を働かせよ。これこそ人生を堪えるものにさせる唯一の方法である。ヴォルテール
偉人の達した高峯は一躍地上から達したのではなく、同伴者が夜眠っている間も、一歩一歩とよじ登ったのである。ブラウニング
他人を支配せんと欲する者は、まず自らの主人であらねばならぬ。マシンジャー
一つも馬鹿な事をしないで生きている人間は、彼が自分で考えているほど賢明ではない。ラ・ロシュフコー
敵に勝ったからとて勇者ということはできない。おのれに勝った時初めて真の勇者といえる。T・ブラウン
井戸を掘るなら水の湧くまで掘れ。石川理紀之助
一日延ばしは時の盗人である。上田敏
神は行動せざる者をけっして助けず。ソフォクレス
汝ら善き行いをもってその身の飾りとせよ。キリスト
初めに計画せよ。然る後に実行せよ。モルトケ
確信をもつこと、いや確信をもっているかのように行動せよ。ゴッホ
功の成るは成る日に成るにあらず。蘇老泉
心ある人は時間の損失を最も悲しむ。ダンテ
人の持つ尺度は、その異常な努力によってではなく、その日常的な行為によって測定されるべきものである。パスカル
真面目とは実行するということだ。夏目漱石
汝もし真に熱心ならば、後と言わず今ただちにこの瞬間においてなすべきことを始むべし。ゲーテ
一日作さざれば一日食わず。百丈禅師
ことばと行動は、神の力のまったく異なったモードである。ことばも行動であり、行動もことばの一種である。エマーソン
われわれがいくつかの危険に気づいているというので、動かずにじっとしていることを自己に課するならとんでもないことである。トリアッテ
人間の行動は思考の最上の通訳者だ、と私はつねに考えた。ロック
してしまえば片付くのだったら、早くやってしまったほうがいい。シェークスピア
一日善いことをしなかったら、生きている価値はない。ロバーツ
行いは必ず人に先んじ、言は必ず人に後る。大載記
君の心の庭に忍耐を植えよ。その根は苦くともその実は甘い。オースティン
この秋は雨か風かは知らねどもきょうのつとめの田草取るなり。二宮尊徳
幸運と愛とは勇者とともにあり。オヴィディウス
勇気こそ、君よ、これこそ男をも女をもいと美しく見せしむれ。テニスン
大人は虎変す。中国のことわざ
現在われわれは悪い時期を通過している。事態はよくなるまでに、おそらく現在より悪くなるだろう。しかしわれわれが忍耐し、我慢しさえすればやがてよくなることを、わたしはまったく疑わない。チャーチル
公正をもって生活すれば、ゆくとして安全ならざるところなし。エピクテトス
希望が逃げていっても、勇気を逃してはいけない!希望はしばしばわれらをあざむくが、勇気は力の息吹である。ブーテルヴェク
いやしくも悔恨しないことを欲するならば、人は何事もしないほうがよい。しかしながらまた、何事もしないところの人生も、ひとしくまた悔恨なのである。萩原朔太郎
己に克つの苦功を用ひずして、怒りを遷さず、過を再びせざるは、柔惰振わざるの士にあらずんば、かならず奸を掩ひ非を飾る者なり。大塩平八郎
人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか。織田信長。
昨日憎しと思ふこと心に染み、昨年の嬉しと思ふこと心につきて、はなれねば、それより根ざして、まよふとか、聞けり。松平定信
気随に成り行き候はゞ、一日一月と延び、一月は一年と遅々に及び、一生空しく打ち過ぐべし。土井利勝
道に堀があるからといって、渡るのを嫌って、そこに止まってしまったのでは、その人はいつまでたっても、進歩することは難しい。大きな溝の中に落ちたからといって、いたずらに悶えるばかりであったならば、その人は一生溝の中で終わらねばならない。藤原銀次郎
困難とは作業衣を着た好機会にすぎない。H・カイザー
諸君が困難に会い、どうしてよいか全くわからないときは、いつでも机に向かって何か書きつけるがよい。小泉八雲
今日はよく働いたと夕方になって考えることほど、私にとって大きな楽しみはなかった。大倉喜八郎
身には疾あり、胸には愁いあり、悪因縁は逐えども去らず、未来に楽しき到達点の認められるゝなく、目前に痛き刺激物あり、慾あれど銭なく、望みあれど縁遠し、よし突貫して此逆境を出んと決心したり。幸田露伴
境遇とか!われ境遇を作らん。ナポレオン
金を失うことは、小さく失うことである。名誉を失うことは大きく失うことである。しかし勇気を失うことはすべてを失うことである。チャーチル
男子、死中に活を求むべし。坐して窮すべけんや。范曄
理想はわれわれ自身のなかにある。同時に、理想の達成をはばむもろもろの障害もまた、われわれ自身のなかにある。カーライル
人もし忍辱の鎧を着て戦うときは、一人の力をもって八万四千の魔軍を挫くべし。釈迦
人は幸運の時には偉大に見えるかも知れないが、真に向上するのは不運の時である。シラー
禍福は天上より出ずるにあらず、地中より出ずるにあらず、おのれ自ら之を生ずるなり。説苑
キホ積まずば、以て千里に至るなし。荀子