はてなキーワード: 文庫本とは
Aさんとの待ち合わせ→かっちり時間が決まっている待ち合わせ(公演時間があるとか)ではないのなら、1時間遅れがデフォなのでそれを想定して家を出る。適当な暇潰し場所を確保しておく必要がある。
Bさんとの待ち合わせ→当日まで都合のつく時間が分からなかったりするので、丸々1日あけとく必要がある。長時間の暇潰し場所を確保しておく必要がある。(確保しても使われない事もあるので、時間制限のない場所が望ましい)
Cさんとの待ち合わせ→ほぼ守ってくれる(あっても10分遅れ?)。文庫本1冊あればおk。
Dさんとの待ち合わせ→いつもきっちりその時間に来る。対策必要なし。
かく言う私は→5分前には待ち合わせ場所についている。対策は必要なしと思われる。
http://anond.hatelabo.jp/20070828151830
遅刻容認派がみんな遅れているとは思うなよ…?
表紙絵は文庫本にとって本質そのものなんだが。
否定している人=前世代
肯定している人=それ以外
です。残念ながら。センスが圧倒的古いんだ。
例えば、痛いニュースなんかでも否定派を多く載せているわけだけど、
喋ってるのは高年齢層の人たち。
もしくは車の合宿に行ってもやることなくてずっと本読んでるような
文系ティーンが多いのではないでしょうか
きっと、そういう人たちにあの感覚は理解できない
だってその人たちに向けて売られてない、
だって作品に思い入れがある、
だってあたらしいものを認められない、
から。
それだけで直感的に飛び込んでくるわけです頭ん中に
んで、手にとってみようと思う
原作知らなくても題名くらいは知ってるから。
そこにあのレイアウト持ってこられるとなんだなんだ、と手にとっちゃうわけです
そんな本が270円
入門編にちょうど良いわけですね
表紙は広告なわけだから
ある意味で目をひいたもん勝ちです
(やりすぎると下品ですが)
今回の場合はややグレーながらも
そのグレーさ加減が良いあんばいで
いたるところで議論をおこし、それがさらなる広告につながるわけですね
1カ月後に読売夕刊で大きく扱われるわけです
レイアウトの勝利なわけです
あれ考えた人はすごいよ。出世する人なんでしょうきっと。
もし、ここまで言っても理解できないのなら
あなたはあきらめた方がいいかも知れない
いろんなことを。
個性の時代です。どんな人が生きていても構わない
ただ、これから先もっと生きにくくなるでしょう
いくらあなたが正しくても。
だから視点を変えてみましょう
これだけ売れる理由はなんでしょう?
なぜ1月後に読売夕刊であれだけ大きく扱うのでしょうか?
自分のセンスを疑ったことはありますか?
当たり障りない作品と賛否が分かれる作品では
どちらがよりたくさんの人に影響を与えるでしょうか?
時代は進んでいます
感覚を磨いて、良いものは良いと言い切りましょう。
合格しなくても良い。
ただ人間失格しないように毎日生きていたいものです
ふと気付いた時には、電車の扉はもう半分閉まりかけていた。降りるにしても、目の前の乗客をそれこそ掻き分けるようにしなければならない。僕は諦めて次の駅で引き返すことにした。もう完璧に遅刻だ。
一年近く続いた電車通勤も最初の頃はそれなりに楽しかったけど、最近ではもう面倒くさいの一言だった。それが今日からは歩いて十五分という素晴らしい環境になったというのに、僕は解約しそびれた定期でいつものように電車に乗って、やっとそこで気付いたとそういうわけである。
いつもなら、いや昨日までは電車の中では文庫本を広げていたのだけど、タイミングよく読み終わったせいでかばんには一冊も入っていなかった。反対の扉まで押しやられた僕は、仕方無しにガラス越しに流れていく風景を眺めていた。梅雨空の下に広がった街並みは等しく彩度を失っている。僕は雨の日が嫌いではない。しかし、こうも雨続きだと気が滅入ってくる。僕はため息を一つついて車内に目を戻した。車内にも雨の匂いが漂っている。
電車は並行して走っている線の駅を二つとばして、ようやく駅のホームにたどり着いた。僕は、位置エネルギーの減少と増大、とつまらないことを考えつつ階段を降り、また階段を上って隣のホームに移動した。電車はまだ来ていない。僕は次の電車の時間を示す電光掲示板に目をやり時間を確認した。次の電車は七分後。前の電車は出てしまったばかりのようで、人はまだほとんど並んでいない。ドアの位置を示す番号の前に移動して、もう一度時間を確認する。九時二十八分発静岡行き。あと六分。
静岡という文字に僕は少しだけ違和感を覚えた。静岡、しずおか、シズオカ、僕は記憶の糸を辿る。そして行き着いた先に僕は苦笑してしまった。 「今日の静岡の天気は晴れです」今日の朝の天気予報でただ一箇所だけ晴れマークをつけていたのが印象に残っていたらしい。そうか静岡は晴れか。僕は少しだけ嬉しくなって、晴れている静岡を想像しながら電車を待っていた。僕が一度も静岡に行ったことがないということなど、この際些細な問題でしかない。
そうこうしているうちに、静岡行きの電車がホームに入ってきた。この時間帯の下りの電車は大体において空いている。僕は座席を確保して暫し考える。僕はかばんの中から携帯電話を取り出し、メール機能を呼び出して文字を打ち込んだ。「体調が悪いので休みます」これでよし。メールは転送されて会社の人に届くだろう。もし届かなかったとしても、多分誰も困らない。
静岡は晴れているに違いない。
昨日の午前中、電車に乗って空席を見つけて座ろうと近づいたら、頭からすっぽり大判のタオルをかぶって横になった人が寝てたわけ。田舎の電車って進行方向に向かって二人がけのシートがバスみたいに並んでるんだけど、その二人がけシートをひとりで占領してるわけ。
そいつのすぐ後ろの席が空いてたから自分は座れたんだけど、田舎駅では立ってる人がほとんどいないからいいとしても、電車が進んでどんどん人が増えていってるのに全然起きようとしないわけよ。
駅に着くたび乗客が席が空いてると思って近づいてきて、うわ人が寝てたのかと諦めて遠ざかっていくわけ。しかもタオルで身体まで隠してるから男か女か怖そうかそうじゃないかも全然わからないから、起こそうにも起こせないわけ。
結局自分も降りた都会駅でそいつも降りたんだけど、なんと正体は中年のババアだったわけよ。
今朝の通勤時間帯には、音楽聴きながら文庫本読んでる大学生くらいのヤンキー系ではない茶髪の兄ちゃんが二人がけの優先席に座ってて、隣にバッグを置いてるからもうひとり座れるのに座れない状態なわけ。田舎駅では立ってる客も少ないからいいとしても、次の駅は乗換駅だから乗ってくる客も多く、しかも優先席にどうぞどうぞ的ルックスのじいさんが乗ってきてすぐ横にヨボヨボ立ってたのに座れないわけ。
人が少ないときは占領してても、車内に客が増えてきたら譲れないわけ?少し顔をあげて周りを見わたしてみれば気付きそうなもんなのにどうしてやんないわけ?そんなに空気読めないわけ?
なんか最近の電車の中では年齢や性別に関係なくそういう人が多いから気になるし、そいつらのすぐ側にいても何も言えなかった自分のチキンぶりにもにょもにょするわけで。
読まずに積む本より、数ページ手をつけてから積んである方が多い。
新宿の本屋で『御緩漫玉日記』の3巻を買った帰り、地下鉄でとなりにすわった女の子が『アク・アク(上)』という文庫本を読んでいるのがちらっと目に入った。
まったく知らないタイトルで、なんだか妙に気になったので、その場でググって調べた(「気持ち悪い」とつっこまれそうなので先にフォローしておくけど、25年間生きてきて、こんなぷちストーカー染みたことしたの初めてです)。
で、さっき帰宅して『御緩漫玉日記』を開いたら、玉吉先生が「で、トール・ヘイエルダールって誰だっけ?」と描いてらっしゃる。ドびっくり。
あの女の子はこれを読んで『アク・アク』を手にとったのかなあ。いやまさかそんな。とにかく驚いた。こんなことってあるもんなんだねえ。
どうでもいい追記。
http://anond.hatelabo.jp/20070303103730
毎日持ち歩いているのは、
札入れ(カード類の大半はこの中)・小銭入れ・キーホルダー・携帯電話・
デジカメ・手帳とペン・カード入れ(交通機関のICカードと各種会員カード)・
化粧道具のポーチ・化粧道具じゃないポーチ・髪留め・買物用バッグ・
ハンカチ・ポケットティッシュ・大きめのスカーフ・文庫本1冊。
早く携帯で全部小銭の支払いができるようになるといいな。
http://anond.hatelabo.jp/20070301212308
母が無事に逝ったら、私も穏やかに逝けたらよい。そんなことばかり考えている。
自分も数年前までこの考えしか頭になかった。
自分は学問に挫折した。
大学院で人様に見せるのも恥ずかしいような修論を書いたことは、いまだに消してしまいたい過去だ。
仕事は中ぐらいに楽しく、中ぐらいに嫌いだった。
しかし自分は体質的な事情で子供をつくれない。
子孫は絶対に残せない。
老後を看取ってくれる人もいない。
その他、ここで匿名でも書けないような不幸にも見舞われた。
正直、何に希望を見出せばいいのかわからなかった。
自分が生まれてきた意味もわからなくなってきた。
このまま消えてしまっても何もかわらないのではという考えが頭から離れなかった。
ただ、親の悲しむことはしたくなかったので、自殺などはしない。
でも、両親が亡くなったらきっと、、、とは常に思っていた。
しかし、ある日ふと手に取った、内村鑑三の『後世への最大遺物』というとても薄い文庫本が自分の方向を変えてくれた。
その影響をここで一言でまとめるのは、自分の文才が足りないので書かない。
Amazonの書評に自分と同様な感想を持った方が多数おられますので、そちらをお読みください。
自分は、自分の能力のなさと、それに反比例した自己顕示欲の強さに、日々嫌悪感を感じる。
自分のこれまでの人生での選択の大部分は間違いだらけであったとも思う。
客観的には幸せとは言えないかもしれない。
ただ、自分がこの世に生まれてきたことには(上の書物で読んだ通り、)大きな意味があるし、同様にそのような意味のある生を生きている全員に支えられて来たと、ひしひしと感じることができる。
その感覚の一点だけが、今の自分に幸せをもたらしている。
社会人になんかなりたくない。
なんで毎日あんなに働けるの? 家に帰るのが夜っておかしくない? なんでこんなカツカツの仕組みになってんの?
ああ、社会人になりたくないよ。
何時間でも友達と話したいよ。好きな本は徹夜で読み込みたいよ。思索に1日使ってしまいたいよ。料理に何時間もかけて友人と食べたいよ。公園を毎日ふらふら散歩したいよ。日差しが眩しい時間に外を歩きたいよ。討論で盛り上がって朝を迎えたいよ。踊り明かしたいよ。あの夢のような時間にはもうさよならしなきゃいけないなんて、そんなの、嫌だよ。
一日の始まりにその日の予定を立てる。朝から光が眩しかったから外へ行くことに決めてとりあえず電車に乗る。電車の中で文庫本を一冊読み終え、何かの縁だと思ってそこで降りる。少し温んできた空気のなかをぼんやり歩く。お寺があったので入ってみる。古びた木の建物の、かかる緑のかげが奇麗で涙が出る。そんな一日がずっと続くと思っていた。
もうさよならだ。
社会人になんかなりたくない。
http://d.hatena.ne.jp/kazenotori/20061115/1163576101
http://d.hatena.ne.jp/kazenotori/20070127/1169824810
↑この辺を読んで書きたくなったので書く。読んでない作品ばっかりなのにかなり適当言った。多分いろいろ間違ってるけど勘弁。
・ラノベ的なものはあるがあくまでティーンズ向けのジャンル小説
・ライトなSF、スペオペ、軽めのファンタジー、TRPGの小説版、アニメの脚本家が書いてる小説、ノベライズ、10代向けの伝奇小説、あと海外の翻訳モノ
・少女小説は、つーかコバルトはすでにかなり歴史があるので安定。恐ろしく軽い文体の恋愛・ミステリ・ファンタジー・伝奇・ホラー
・スレイヤーズ登場
・スレとあとフォーチュンクエストあたりの大ヒットが10代向けの文庫本レーベル群全体に影響を与える。逆に考えるとスレ・フォーチュンが当時のラノベの中核であり、また最初の純ライトノベルと言える
・スレイヤーズフォロアーがジャンル化。一番成功したのがオーフェン。その他ゴクドーとかはみだしバスターズとか捨てプリとかリアルバウトハイスクールとか?内容つーかスタイルと売られ方に特徴がある気が
・五代ゆうの活躍の余地がなくなる
・ど真ん中にいるのがデル戦、それに冴木忍とか前田珠子とか十二国記とか風の大陸とか
・あかほりさとる大活躍。非常にオタ向け。まだラノベの中核とは言えない
・この時点ではまだ“ライトなジャンル小説”も生き残ってる。全体としてラノベと言うよりヤングアダルト
・なんか世相が暗い。あとエヴァ
・富士見の勢いはいまだ衰えず
・コバルトも相変わらず安定
・電撃に古橋秀之登場。影響を受けた電撃の作家が俺設定バリバリになる。異能力モノがはやるきっかけにも?
・結局古橋自身は流行らなかったけどな。古橋秀之―成田良悟ラインを電撃硬派と呼びたい(オレが
・学園モノが流行るきっかけに
・あかほりラインをまぶらほ・阿智太郎が継承。女の子いっぱいコメディの地位が徐々に上昇し始める。
・ラノベと言う名称が成立
・ラノベ暗黒期
・富士見がフルメタあたりを除いて失速、電撃はまだ十分な力を持っていない
・ブギ+あかほりみたいな作品が多い。それかあかほりみたいな作品。あるいはキノっぽいの。
・ただ、ここで一度途切れたことで、逆に00年代後半に入って新鮮に受け止められるように
・スーパーファンタジー文庫とかプランニングハウスのファンタジーの森とか富士見のミニ文庫とか角川のおっきい奴とかが撃沈。徳間の中途半端な大きさの奴もほとんど出なくなる
・富士見ミステリー文庫。この段階ではまだいまいちウケない
・この時期ラノベってジャンルがどんどん自閉的になっていった気がすんだけど。どうよ?
・ファウスト系のひとが登場、注目を集める
・当時のラノベの中心であるところの上遠野が、ノベルスで小説を出す。電撃からの越境の発端?
・ラノベの評論家の人が増える。売上げは下がっても存在感はUP
・ハリポタ旋風
・電撃最強伝説
・おかげでベテランに活躍の余地が。新装版とか数年ぶりの新刊とかも出る
・以前からコバルトからの越境者はちょろちょろいたけど、今度は角川グループからの一般文芸への越境者が続出
・リアルフィクションて何?
・電撃の絵のついてないラノベがちょっと話題に
・フォア文庫とか青い鳥文庫とかの表紙のラノベ度がいつの間にかずいぶん上がってる。そりゃまあ昔からマンガ絵な表紙は多かったけどさ。ラノベがオタ・中二病中高生に走りすぎて失った、ライトかつまっとうな物語が多い。
・狼と香辛料登場。識者のひとから注目を集める
・ここのところラノベと言うジャンル全体が大きく、力強くなってってる印象
・『ミミズクと夜の王』ってどんな話だ?
・支倉凍砂の次回作は?(気が早い
・出せよ!買うから!あと龍盤七朝とタツモリの続きも!
・成田良悟とか須賀しのぶもなんかこう、もうちょっと面白いことやれそうじゃね?
・大西科学が正しいのは分かるけど売れるかって言うと微妙な気が。この辺の路線を意識した上で、またひとつ違うものを作れる人が出ないものか。大楽絢太とかは?
・電撃に森見登美彦引っ張ってこいよ。ハードカバーで。ええ?ムリ?じゃあしょうがないな……
・その他越境者の先生方、ええとあれだ、頑張れ!
昼、女子高校生がスタバでコーヒー飲みながら文庫本読んでた。かわいい! このかわいいはきっと彼女のシチュエーションと属性に萌えということですか。わかりませんが。学校サボってスターバックスで文学少女してんのんか。しかもかわいい。と思ったのだけど、スターバックスは違うな。洒落すぎて逆に若干ひく。洒落すぎてというかそれっぽすぎて。それっぽいてなんだ、つうか、そんなんは結局文学少女からしたら余計なお世話なのであって、うぜえ、と思って女子高生は直ちに、気持ち悪いなどと俺を罵倒すべき。ていうか、彼女はもしかして中二病的態度によってスタバで文庫本読んでんの、とも思えてくる。コーヒー飲みながらゆっくり本読むのは幸福。しかしあなたのそれは素なのか。なんかかっこいいからやってるのか。ていうか知らない人を自分のハアハアっていう萌えのために疑って悪い気分だ。でも、本当に心から「幸福だー」と思って読んでんだったらすげーかわいい。かわいい人が幸福そうなのはなんか嬉しいのでずるい。
僕はテレビを見ない人間だ。ブラウン管テレビはホコリ置き場になっていた。邪魔なので捨てたら、一人きりの年越しはとっても寂しかった。TVも人間もいない年越しは寂しい、というか虚しい。孤独で死にそうだった僕は、ラジオで紅白を聴いていた。
ラジオで聴く紅白は、ラジオで聴くワールドカップサッカーと同じくらいわけがわからなかった。何が起こってるのかさっぱりわからない。野球と競馬ならわかるけど。それで、『犬神家の一族』を文庫本で読みながら聴いていたら、DJ OZMAという名前がコールされた。
このDJ OZMA、僕が先日「何その人? 芸人?」と知人に言ったら散々馬鹿にされた(m9(^Д^)プギャー)、少々恨みがましい存在だった。初めて
耳にした時は、DJ あづま(納豆メーカー)の聞き間違いだと思ったくらいだ。その知人は、DJ OZMAを知らない僕を馬鹿にはしたけれど、結局DJ OZMAの何たるかは教えてくれなかった。二重の意味で気になってしまい、僕は佐清の手型の鑑定結果が出たところで本を置き、ラジオに耳を傾けた。
きっとほとんどの人がそうだろうと思うけど、あれを曲だけ聴いたって何が何だかわかるわけがない。まして僕だ。ラジオのアナウンサーが「OZMAさん、服を脱ぎ始めました」とか解説してたけど、僕はどうでもよくなって、また『犬神家の一族』を読み始めた。僕の耳は騒音をスルーしていた。サブちゃんが出ていたことより、犬神家の秘密の方が興味をそそられた。
その後、アンジェラ・アキをスルーしてさだまさしに感涙する僕は、年のわりに耳が古いのかもしれない。今井美樹もよかった。その次の徳永英明の『壊れかけのRadio』の素晴らしさといったら! 今思い出しても、つい「レディオ」につられてRedioとミスタイプしてしまうくらい感動した。でも(壊れかける気配の無い)ラジオで聴いていた時は、感動の余韻もくそも無かった。曲が終わったすぐ後に、NHKのアナウンサーの謝罪コメントが入ったからだ。
コメントが読まれる際、会場からは二度も笑いが起こった。だから僕は、ちょっと下品な演出があって、PTAのオバサンみたいな神経質な視聴者様方が過剰反応してヒステリックなクレームを押し付けてきたのかなと思った。まあ紅白だし、ちょっとやんちゃが過ぎたのかと。それ以上にどうでもよかった。だって紅白だし。聴いといてアレだけど、興味無いし。
それからしばらくして、DJ OZMAのパフォーマンスが問題になっているってネット(はてブ)で知った時は、正月からはてブをやっている虚しさを吹っ飛ばすくらい、驚いたものだった。腐っても鯛、視聴率低迷が言われている紅白と言えど、まだまだ世間への影響力は侮れないものだと思った。その批判内容(はてブコメント)を見たら、僕がイメージしていた「PTAのオバサンみたいな神経質な視聴者様方が過剰反応したヒステリックなクレーム」まんまで、さっきよりも驚いた。ネット上には良識派を気取って重箱の隅を突っつき回したがるナルシズムエゴイズム溢れる人々が意外に多いのは知っていたけど、それにしてもなあと思った。そこで、僕自身がまだかの映像を見ていないことに気がついた。だめじゃん。
で、Youtubeを見た。読みかけの『犬神家の一族』は、湖面から逆さまに人の足が突き出ている、かの有名なシーンにさしかかっていた。
まず感じたのは、戸惑いだった。僕はものすごく戸惑った。どう反応したらいいのかわからなかった。ああいう騒々しいモノに対して、僕はパターン化された理解を持たなかった。テレビを見ていないと最近の娯楽についていけないのか、テレビ買おうかなとすら思った。その戸惑いをよくよく分析してみると、僕は不快だった。美しくない眉を顰めていた。そう、悲しいことに、僕自身もクレーマーと同類だった。僕はDJ OZMAを見ていて、どうしようもなく不快だったのだ。画質の悪さでおっぱいが本物らしく見えるくせに、その実本物でないのも腹立たしかった。
しかし僕は、クレーマーたちと自分を差別化しなければならない。そうでなければ、頭がおかしくなりそうだ。いや、もうおかしいのかもしれない。
もう一度、DJ OZMAのパフォーマンスを眺める。そして、何故彼がこのような馬鹿げた、下品なパフォーマンスをするのか、しばし考えてみた。
そうだ、アホの坂田がアホでも何でもないように、DJ OZMAもきっと、真実に馬鹿げた人間ではないのだ。彼はきっと、僕よりもずっと高いところに立って、釣られクマーな僕をあざ笑っているに違いない。
その時僕は、どうしようもない屈辱感に襲われた。DJ OZMA、彼に何らかの反応を示した時点で、僕は彼に負けたのだ。彼はきっと僕の、このような反応を全て了解済みだったのだ。「下品だ」「紅白にふさわしくない」という反応も彼の想定内であれば、「DJ OZMAはお前らの反応も織り込み済みなんだよ」「ナンセンスだ」というメタぶった反応すらも想定の範囲内に収めていたのだ! 僕がどう考えようとどう反応しようと、僕はただDJ OZMAの掌の上で踊る哀れな猿にすぎないのだ。一連の事実が彼を中心に回っている以上、どうメタ分析を試みようが上から物言おうとしようが、僕は、いや僕らは、彼を超えることなどできないのだ。騒ぎの渦を一つの世界と看做すならば、彼は神だ。唯一絶対の神だ。愚かな人間どもを哂う神だ。いっそどんな形でもいい、彼に心囚われてしまったことが(または正月からこんなことで騒いでいることが)すなわち、僕らの負けであり、彼の哂いなのだ。
僕の心は虚脱感に包まれた。もう、全てがどうでもいいのだ。僕の正月は暇だった。このテキストの記号的意味でなく、存在的意味が、悲しい事実を何よりも雄弁に物語っているではないか。傍若無人。かたはらにひとなきがごとし。如しじゃなくて本当に誰もいない正月を、僕はDJ OZMAに哂われて終えることにしよう。テレビはやっぱり買わない。