はてなキーワード: いじめられっ子とは
まぁ、こうやって捻くれて人々から見放されているから敵対しましょうとかいうのは少数派だよね。だって、いじめられっ子だった僕が唯一良かったと思う点はそれが世界のデフォルトだと早く気付けたとこだもん。世の中の人はそんなに自分の周りの人間のことを「人間」としてなんて見てないよね。動物としてのヒトって感じでみてる。なんか話したり笑ったり喧嘩売ったりしてくる動物ね。犬のことを「家族だ」とかって親愛の情を持って接するのって飼い主だけじゃん。そういう限定的なもんなんだよ、「人間」って。価値観なり文化なりが同じで話が通じてとか、そういう非常に限られた濃密なコミュニケーションをとれる相手、もしくは「とれそうな」相手しか「人間」としてみない。自分とそれ以外のヒトとの距離感とかタイミングとか相性とか。そういうものが、限られた時間的、限られた空間的で、「ヒト」を「人間」にする。寄ってきたら殺すという目?自意識過剰だよね。別に殺すもなにも、大半の人間は君のことなんてどうでもいいと思ってるよ。殺すなんて能動的なことするなんて面倒じゃないか。そして、それは別に君だけのことじゃなくて、ほとんどの人間に対してそう思ってるよきっと。
だからこそ、みんな自分を「人間」だと認識してくれる相手を探しているんじゃないのか?家族とか恋人とか友人とか。ほぼ永続的に自分のことを「人間」と見なしてくれるような「人間」を見つけたいとか、そういう集団に所属したいとか。誰も見てくれないとか、見捨てられているとか、本当、そういうのが世界のデフォルトだと思うね。だから、そうじゃないものを手に入れようと必死な人か、半ばあきらめちゃってる人かどっちかだ。なのに世間とか学校とか文科省とかいじめっ子とかクラスメイトとか、そういうもんに憎しみを抱くヤツはよっぽど・・・げふんげふん。
大体、親が嫌いなんだよね。親の対応はまずいかもしれないが、自分を人間だとみなしてくれる数少ない人間なのにね。あの?ありえるわけ?自分の周りの人間の全てが君のことを価値があると賞賛するような状況が。無いよ。木村拓哉にだってアインシュタインにだってないね。ありえないね。じゃあ、考えてみようか、君、誰に人間として認められたいわけ?親じゃないんだよね?無能だから。文科省じゃないよね?無能だから。なんかよく分からないけど具体的じゃなくて「素晴らしい人」に「あなたは素晴らしい」と言って欲しいんだけど、そんな人はいなくてそもそも自分はクソだからもし居たとしても言って貰えないだろうから夢が潰れました、ああ、夢が潰れました。
人から好きだと言われたいが、それは自分が認めた人間じゃなくちゃ駄目で、自分が認めるような人間の基準は物語のヒーローヒロインクラスの神々しさじゃなきゃ駄目で、しかも、そういう人が具体的にいるわけじゃないけど、とにかくそういう人から好きだと言われないから自分や世間や偽善者死ね?
・・・知らねえよ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080212-00000013-kyt-l26
そういうことなんだと思う。
多くの人は、本当はいじめを無くそうなんて思っちゃいないってことなんだと思う。
そしてそういう人は、いじめを何とか無くそうとあがいている人に冷や水を浴びせる。
これこそがいじめの本質なのではないだろうか。
いじめはいじめっ子といじめられっ子以外の大多数を占める第三者によってしか知見できないというのに。
にも関わらず、その鍵を握る第三者の致命的なまでの当事者意識の希薄さ。
そしてそういう第三者が「いじめられっ子がバッジを外せるわけがない」と平然と言ってしまう。
それが「いじめられっ子を救える人はいない」と言っているのと同義であることすら理解していない。
この記事にネガコメをする人達がいる限り、いじめは無くならないだろうと確信する。
俺は関係ないって?
君がそう思うのなら、いじめは確実に無くならない。
So-net blog:正己の異論・反論:アッシュの実験:同調しちゃう
多数の者に人気のあるほうが善いというふうにはならない。セネカ
人生に関する事柄は、多数の者に人気のあるほうが善いというふうにはならない。
最悪のものだという証拠は群集なのである。
多数者の利己主義 vs 民主主義 - OhmyNews:オーマイニュース
平壌と38度線の中間にあった沙里院(さりいん)のガードポイントをトラックで突破するときでした。
それまで何度も止められましたが、そのたびに時計や万年筆などの貴重品を渡して、見逃してもらっていました。
それがここでは女を出せと言われた。これは本当に困りましたね。
若い娘はまずい。子持ちはダメ、あまり年上もよくないということで、
結局は元芸者さんなどの水商売をしていた女性や、夫や子供を失った未亡人に、みんなの視線が自然と集中するのです。
そのうちリーダー役の人物が土下座して「みんなのためだ、行ってくれ」と頼んだ。
みんなから射すくめられるように見られるのですから、その女性は出て行かざるをえません。
そうやって女性を送り出していった人間が、生きのびて帰ってきたわけですから。
(中略)
さらにひどいことに、女性が明け方、ボロ雑巾のように帰ってくると、
「ロシア兵から悪い病気をうつされているかもしれないから、あの女の人に近寄っちゃだめよ」と、
本来であれば手をとってお礼を言ってもいいのに、そういうことを言って蔑んだ目で見る。
戻ってきた女性の周囲には誰も近寄らないのです。
第2次大戦後を扱った日本の小説、米の推せん図書採択に韓人が反発 | Japanese JoongAngIlbo | 中央日報
「ソ連軍に包囲される前にベルリン市民を脱出させるべき」という進言を退けたヒトラーは嘯く
404 Blog Not Found:結局自己責任が一番安上がり
同じ仕事を日本人なら月20万円、中国人なら月1万円が相場とする。
搾取者は日本人をクビにして中国人を採用し、その際に他の会社と競争力を持たせるために、月2万円を中国人に払うとする。
この時点で、搾取者は月18万円の得。中国人は2万円の得、日本人は20万円の損。
泣く者は一人、笑う者は二人。合計金額は変わらないのに、この方が笑う者が増えている。
Amazon.co.jp: 「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3)): 山本 七平: 本
秦の趙高が二世皇帝に、鹿を「馬である」と言って献じた。
群臣は趙高の権勢を恐れ、「これは馬です」と答えたが、「鹿です」と答えた者は暗殺された。
例えば、ナチス政権下のドイツやスターリン時代のソ連やポルポト政権下のカンボジアで
空気読んで行動するってどんなことか考えてみよう。
「あなた方は我々の戦争責任を言うけれど、新聞の責任はどうなんだ。
すると新聞はさらに強気になって戦争を煽る。その繰り返しで戦争に突き進んだんだ」
この言葉は私にとってかなり衝撃的だった。というのも、
マルティン・ニーメラー - Wikipedia 彼らが最初共産主義者を攻撃したとき - Wikipedia
原題直訳の「いじめっ子、いじめられっ子、そして傍観者」の方がインパクトも強く、また内容をよく表している。
何と言っても本書の特徴は、いじめの当事者として「傍観者」という存在に着目したことにある。
そう。いじめが成立するには、この第三の存在が欠かせないのだ。いじめに対する介入として行われる行動は、
たいていいじめる者(the bully)への制裁と、いじめられる者(the bullied)への保護と補償しかなされないが、
いじめに対して最も効果があるのは、この第三の存在である傍観者(the bystander)を、
「目撃者」(the witness)へと転じさせるというのが本書が提示する数多く処方の中で最も特徴的なものであろう。
Amazon.co.jp: いじめの根を絶ち子どもを守るガイド―親と教師は暴力のサイクルをいかに断ち切るか: バーバラ コロローソ, Barbara Coloroso, 冨永 星: 本
ミルグラム実験とは、1962年、米イエール大学の心理学者、スタンリー・ミルグラムによって行われた人間の服従性を研究するための実験である。
実験は第二次世界大戦におけるホロコースト研究の一環として、1961年に逮捕されたナチス高官のアドルフ・アイヒマンの裁判を受け、
「アドルフ・アイヒマンとその多くの部下達は、単に上官の命令によって虐殺をおこなったのか。
彼等を共犯者と呼ぶことが出来るのか」という疑問に応えるべくして行われた
はてなブックマーク - asahi.com:「通報者の責任追及を」申入書 横浜市大謝礼金問題 - 社会
CiNii - 徳島県における人口密度及び学校の規模といじめ・不登校の発生率との関連
いじめと同調圧力 - サムガイズの日記〜You learn something new everyday !〜
大学側の調査に対し、
関与した学生らは「今までやってきたことがなぜ悪いのか」などと話したため
「苛めた人」の中に100%の悪がある、って説明は、単純すぎて現実に即さないとオレは思う。
たとえば、「最終的ないじめの実行者」の背後に、「それを強制した人(黒幕)」がいるとすればそいつは明らかに実行者よりも悪だよね。
じゃあ、集団のノリで誰かを「からかう雰囲気」ができているときはどうなの? あるいはその「からかわれる雰囲気」を察知してその人が自分以外の誰かをターゲットにしようと動いた場合は? その場合に周囲がソレを見て引いてた場合と必ずしもひいてはいなかった(そのノリについていく雰囲気はあった)場合とでは? 苛められることが分かっていて集団に自分から入っていく人もいるよ。なぜなら「それ以外の人には最初から無視されるから」。ある集団で「ネタにされる」方が「無視される」よりずっとマシだから、イジメと分かっていてもそれを甘受する、その人が甘受することに甘えて集団のいじめが加速する……結果ひどいイジメが発生する、なんてことも現実にはよくある。そういうケースでも「最終的な実行者が100%悪い」で済ませていいんだろうか。 イジメの現場では最終的な実行者がくるくる変化することだってある。画に描いたような分かりやすい「いじめっ子」がいて「いじめられっ子」がいて…というような単純なものではない。たとえば、最終的には自殺した「いじめられっ子」というのが、実は先月まで誰かをひどく「いじめて」いた「いじめっ子」だったせいで、今度は自分がハブられて自殺…なんて場合、本当に悪いのは誰なんだ?
集団力学、社会学、心理学、教育学、哲学、その他諸々の議論がきちんとなされないと、「いじめ」を解決するには至らない。分かりやすい「悪」を見つけて叩くというような稚拙な正義感の発露は、それ自体として否定するわけではないけれど(元ブログのように叩く言い方はやりすぎだろと思うからああいうエントリを自分のブログでやろうとは思わないが)、少なくとも「問題の解決」を真摯に行おうとする努力を静かに見守るとか応援する方向で発揮されるべきであって、特定の「悪」をリンチするような「雰囲気」作りをするのは、余り良いことではないと思う(それが元ブログの意図だったとすれば、それは理解できる)。
http://school.2ch.net/campus/kako/1022/10229/1022941391.html
いじめやる奴は犯罪者にしか見えん。いじめっ子を庇う学校って腐ってる。
いじめられっ子はいじめっ子を殺しても無罪って事にすると美しい日本になると思うよ。
「ま、いじめられるような弱いヤシには生きてる価値はなしって事で」
これって日本政府の代弁かな?代弁だよね。
つまり虐められたら相手を殺せって事だよね?
そうすれば生きてる価値が生まれるわけか。
http://blog.livedoor.jp/blog_ch/archives/50489867.html
この人の家族が可哀相だ・・・
この人は家族が不幸にさえならなければ、やりきった感に溢れてた(やるべき事をやって清々した)と思う。
無理解の連中が毎日毎日家に押しかけて嫌がらせしたんだろうな・・・
だから・・・無差別殺人には全く同情どころか軽蔑以上の事を思うけど、
こういうやるべき事が一つしかなくなった人の殺人は同情してしまう。
釣りですか?
本気でわかってないなら、増田はどんだけひがみ根性なんだよ……。
スタンフォード監獄実験は、被験者に看守と囚人という役割を与えるだけで、実社会での地位とは関係なく、被験者はその役割によって規定される権力構造に支配されるようになったという心理学実験だよ。
はてなの相互評価システムは、評価期間内における実績によって評価の高低と重みが変動することで、制度上の絶対者を作らないシステムであり、むしろ前述の実験とは正反対の試みだと思うんだけど……。
むろん、個々人の能力差というものは存在するので、常に評価トップの人というのは存在しうるが、高評価が与えられる人というのは人望、能力ともに認められていると判断できるので、その人の下す評価に重みが与えられるということで、全体からみて理不尽に低く評価されるいじめられっ子というのは、部署の上司、人事の担当者、といった媚びる対象としての固定的な役割が存在しないぶん、発生しにくいと想定される。(そもそも、周囲から“媚びる人”“贔屓する人”と思われると与えられる評価が低くなる可能性があるので、そういう行動には高いリスクが伴う)
まあ、大規模な会社では業務の遂行において一部の役に立っている人と、それによって支えられている人という関係が生まれる(だからといって富井副部長が文化部に不要な存在だとはいわないよ)ので、このような評価システムの導入は困難になるが、はてなの様な小規模ベンチャーでは、一騎当千であることが普通に求められる、つまり一人でも役に立たない人が存在すると業務の遂行に支障が出ることが前提なので、無作為に集められた小中学校のクラスとは前提が違います。(それに見合わない人材はそもそも採用されないはず)
あえて監獄に喩えるなら、相互評価システムは、いつ看守に見られているか分からないので個々人のモラルが維持される“一望監視装置(パノプティコン)”に近いといえる。
そんなわけで、有能な人材であることが前提の小規模集団においては極めて妥当性が高い評価システムだろうということで、マジメにスキルを積んでお仕事に邁進するエンジニアの皆様におかれましては、たいへんに[これはすごい]と思えるシステムなのではないかと思います。
朝からみんなで立ったままミーティングとか、はてなっぽい爽やか集団活動なんてまっぴらごめんというひきこもりニートには、他人を評価し、評価されるなんて想像するだけで胃が痛くなるシステムだろうけどね。
あと、ひとつだけ増田にいっておく。
http://anond.hatelabo.jp/20070503124102
私は、昔苛められてたよ。確かに見て見ぬふりは悪いかも?でもさ、苛めてる主犯格を違う人に転嫁するは無いと思う。
私の時も苛めグループを最後は学校に訴え出たのだけど、ちゃんと苛め主犯格のかたには親御さんにも出てきていただいて謝罪をいただきました。
本当の主犯格に追及をできないくせに、暴力をふるわれなさそうな人をスケープゴートにして転嫁したのかもしれません。
それであなたがその責任転嫁する相手へ選ばれたのは、スクールカーストでAランクで妬ましかったからではないのか?という気もする。
しかし、そのいじめられっ子の主張も聞かないで、あなたのエントリーの内容だけで全て判断するのもどうだか。あなたが気がつかないうちに何かその人をどこかで傷つけるようなことをしたのかもしれないしわからない。
どういう人が暴力的な場面で冷静でいられるか。
なんらかのバイオレンスな環境のなかでサバイバル経験を持っている人。
例えば、経験豊富ないじめられっ子は、弱そうで居ていざというときその経験を生かせるかも?
この場合はいじめられっ子のサバイバル術とでもいうべきか?
苛められ慣れてる人ってそういう暴力に合っても結構冷静に見てますよ。また、その窮地を生き抜く方法も見えてくる。
喧嘩屋とはちがい、いじめっ子の場合は見た目とは逆に打たれ慣れてない。そこがいざというときはヘタレだから使い物になんない。
いざというときに悲鳴を上げて逃げ出した奴を何人も知ってる。
格闘技経験者については、確かに冷静に行動できそうだが、それも経験値で違うかもしれない。
ともかく、暴力慣れしてる人なら落ち着いて行動できるはず。
しかし、学生とは違い社会人になってからなら、そう言う環境が珍しくなるのでどうすればいいか?
うまくは言えないけど、喧嘩慣れしてなくても「勇気」のある人だったらなんとかしてくれそう。
勇気をつける方法をさがしたらいいんじゃないかな。
俺が高校生だった頃のこと。
俺が通っていた高校は小高い丘の上にあって、通学路から行って丘をさらに越えたところに養護学校が建っており、朝方など場合によっては普通高校生と養護学校生が同時に通学することもあるという特殊な立地にある学校だった(地元の人にはどこのことだかピンと来るかもしれない)。俺は3年間、付近の自宅からその高校に通っていた。
その高校は田舎にあったので学力のレベルなんかはたいしたこと無かったのだが、近所ではそこそこの「進学校」として認識されていて、入学してくる連中も(俺含め)さしたる実力も無い割りにプライドだけは一丁前の田舎スノッブが多かった。そんな生徒達はもちろん養護学校に通う知的障害者など馬鹿にしており、普段はほとんど話題に出すことも無かった(通学途中ですれ違うことがあっても、あたかも存在自体が不可視のような扱いをされていた。女子などは近寄りもしなかった)。
俺はというとそんな学校の中にあって先生の話を真面目に聞いていないような劣等生だったので、授業中にふと窓の外を見渡しては、養護学校の生徒達が先生に連れ立って校外学習をしているのを「観察」するのが日課のようになっていた。中でも特に気に入っていたのがやや背の低い中学生ぐらいの男の子で、歩くときに前方を注意する習慣がないのか、よく前のめりになって転んでいるのが見かけられた。それを他の生徒が一生懸命抱き起こすのがおもしろくて、先生の話などそっちのけで熱中していたことが何度かある。
学校の高い校舎の上から道路に這い蹲る養護学校生を見下ろす、その行為そのものが、今思えば差別主義的なものだったと思う。
前述したとおり、学校のクラスメート達はそんな養護学校生たちのことは内心見下すか不可視のものとして扱っていたので、めったに彼らのことが直接話題に上ることはなかったが、ある昼下がりの休み時間のとき、口下手なクラスメートの一人に向かって、あるクラスメートがこんなことを言ったことがある。
こう書くとやや芝居がかった台詞だが、俺の創作ではない。
ひどいのは、これはいじめられっ子に対していじめっ子が吐いた侮辱の言葉ではなく(その口下手なクラスメートは確かにクラス内ではややからかわれがちなポジションにあったが、上の台詞を吐いた奴とは普段から仲良しでよくつるんでいた)、友達同士で交わされたちょっとした「ジョーク」の言葉だったということだ。実際、内向的なオタクだった当時の俺も(今でもだが)一度違うクラスメートから似たようなからかいの言葉を受けたことがある。上の台詞を言われた口下手なクラスメートは「くすっ」と笑って、その場では何事も無かったかのように談笑が続けられた。
俺は3年間、付近の自宅からその高校に通っていた。しかし、その間、養護学校の生徒達がいた場所、社会とは、ほぼ一度も直接的な交わりを持つことが無かった。普通高校の生徒達と養護学校の生徒達は、お互いがお互いを無視し合い別世界の住人として生きていた。そこに人間同士あり得べきコミュニケーションの姿は無かった。
俺は今でも、上の台詞を言ったクラスメートの顔と名前をはっきり思い出せる。しかし、よく前のめりになって転んでいたあの愛らしい男の子の顔は思い出せない。名前も知らない。
参考
企画のアイデアが浮かばない時とか、英単語が覚えられない時とか、新しい環境での人間関係に馴染めない時とか、お金がないけどモテたい時とかは、それぞれ一見関係のなさそうなものを繋げて考えろとか、対義語とセットで記憶しろとか、とりあえず挨拶だけしろとか、一週間着回しのできる服20とか、実に具体的なテクニックが様々な書籍・雑誌で紹介されている。それなのに、いじめられた時にどうすればいいかという話になると、逃げずに戦えとか、強くなれとかいう一切役に立たない精神論、あるいは親や先生に相談しろとかいう何十年と繰り返されてきた型通りの返事ばかりが答えに挙がるのはなぜだろう。
「小学生は雑誌を買わないしネットも見ないから」ではないだろうか。人の目を引くような見出しやちょっとしたライフハックの情報は、雑誌やネットをブラウジングするような、大量の情報に囲まれている人間を対象として、そういった人間の興味を何とかして惹こうとする動機がある場合に生み出される(雑誌やウェブサイトなど)。小学生を対象とするそういった記事を提供しても小学生は雑誌を買わないしネットも見ないので、金銭的メリット(もしくは名声)がないからではないだろうか。
でもネットに関して言えば、最近は小学生もネットを見るようになってきているし、「2週間でいじめられっ子を脱するための10のメソッド」とか「登校拒否になったときのためのリンク集」などの記事を載せるサイトがあったら、やりようによってはアクセスを稼げるんじゃないか。小学生はクレジットカードを持ってないのでネットで物を買えないから広告がつきにくいというのがネックかもしれないが。
全校集会で校長が「この学校にいじめがあります」と叫び、HRで担任が「このクラスにいじめがあります」と訴え、いじめに関するアンケートを実施し、いじめられっ子と教師が懇談をおこない、親を呼び、親が泣き、教師はいじめられっ子を慰め、励まし、いじめられっ子といじめっ子が引き合わされ、いじめっ子はいじめられっ子に謝罪する。挙句の果てには転校だとか。ちょっと大袈裟すぎやしませんか。いじめはそんなに大袈裟なことじゃないと思うんだけど。
いじめられっ子はいじめに対して深刻に悩みすぎるし、大人はそれ以上にいじめを深刻に捉えすぎている。ところが、深刻な事情からいじめを行っているいじめっ子はいない。この温度差はなんだろうね。あまりにも大袈裟な対処は、いじめっ子からすれば滑稽なだけじゃないの。