はてなキーワード: 符号とは
俺もカウンタのオーバーフローだと思って電車の中で概算していた。パスモ導入開始から208日か。1日86400秒だから、17,971,200秒と言うことになる。10mS秒ごとの32bit符号付整数カウンタがオーバーフローするには、ちと短い。
ことから、
大阪方面で問題が起きていないことから、自動改札機には鉄道会社ごとの独自仕様がかなり深いところに盛り込まれているのかもしれない。それは単一問題で社会が停止する危険を回避できるともいえるし、くだらない独自仕様でコストアップをまだ続けているともいえる。
http://anond.hatelabo.jp/20070802021749
理由2: プログラミングは食べてける程度には儲かる
種明かしをしよう。
"ゼロから"
CPUの設計ができて、プログラミング言語を設計し、コンパイラが書けて、OSを載せて、
その上で例えばレイトレーシングを動かせるくらいの力量がつく。
が、しかしそれらは全てやり方さえ知ってれば普通の高校生でもできる。
簡単なことを単語を難しくかえて書いただけだ。
C言語をマスターしてるかどうかを低レベルな話なんていってるほうが低レベルである。
C言語って意外と奥が深い。C99なんてもう何が何だかさっぱりだ。
4年生の卒論でやるのは、例えば、とあるLISP処理系のGCを、
ある仮説を立てて、その仮説のもとで最適なアルゴリズムを設計し、
実際に処理系に組み込み、仮説が現実にどれくらいあっているかを検証することで、
そのアルゴリズムの良さを測る、といったレベルだそうだが、これは平たく言えば
「ご本に書いてあることをその通りやって、キッチンタイマーで時間はかったら短くなりました!」
というレベルだ。卒論なんて東大といえどもそんなにレベルは高くない。
上記のことは普通のプログラマーなら半年も訓練してれば簡単なことである。
また、ここで注意していただきたいのは、プログラミングなんて誰がやっても同じということだ、
という奴がかくコードは非常に雑であることが多いと言うことだ。
機械語を書く際の冗長な作業を軽減するためのプログラミング言語であり、
もっともプリミティブな部分が定義されていれば、あとはそれを別表現で定義すればいい。
だが、対象を別の対象へ写像して調べる表現論というのものは、数学の1分野にもなってる
ぐらい複雑な分野で、これを中学生でもできるとかいってる人の底の浅さがうかがい知れる。
銀行で使われている静脈認証、
DNA解析、
http://ibisforest.org/index.php?FrontPage
だが、開発をしてる東大生も意外と多い。
そして、こういうことを仕事にすると、
もちろん、全くコードを書かないわけではない。
誰がやっても同じ部分であるプログラミングは外注する。
R&Dが高給だと思ってる人は一回民間に就職してる人に
聞いてみよう。給料はほぼ同等か少し高いぐらいで
だけど、設計と吠える人ほど設計センスがないという現実がある。
本当に難しい部分の設計というのは、例えば、NTT Dataにいる東大生が丸投げしている。
他にも大規模システムの例はいくらでもある。
だが、別に東大生だけがやってるわけではない。NTT Data、日立、JR等は東大生の
推薦枠が大きいので東大生が多いだけである。特にNTT Dataは東大生は
推薦がとれなかったら学歴逆フィルターで落とされることが多いのも有名である。
だがどっちにしろ重要なのは、この辺の企業がほんとに重要な部分を設計
してるのではなく、丸投げしているということ。
上の文章は特に誇張してません。
東大にいる80%の人は本気を出せばそれくらいのポテンシャルがある。
だけど、同様に一般人の78%の人も本気を出せばそれぐらいのポテンシャルはあります。
上位5%は常に本気。こういう人はほんとにすごいです。
でも下位95%はやる気がない。4年次に行列式の定義とか聞くと答えられる人はほとんどいません。
アメリカへつれていき、いきなり英語でスピーチをさせたら無難にこなすレベルもいるけど、
語学は人による差が激しいのでなんともいえません。
あとは・・・C言語をマスターしてるレベルといったら、東大の工学部を連れてくると、丁度いいかもしれない。
だけど、文系の人はC言語なんて教えてもほとんどわかりませんよ。
そういや東大の教養課程で扱うプログラミング言語がRubyになるらしいね。LLの適度なヌルさは教育向きだと思う。
http://anond.hatelabo.jp/20070802144801
昔は5,6人でひとつのCPUを作ってたんだが今は一人でひとつのCPUを作ってるみたいだ。その分内容は簡単になってるみたいだけど、マルチプレクサや符号拡張の回路図まで示しちゃうのは甘やかしすぎのような気がする。
コンパイラは昔から一人でひとつ作ってるけど、基本は整数のみのサポートだからその東大の実験よりは楽そうだな。東大での「ゼロから」っていうのがどれほどのものを指すかは知らないけど、こっちだと字句解析・構文解析はlex・yacc任せだし。
それにこういうのは最終奥義「先輩からの遺産」があるんで、実はわかってないけど「要領よく」やっちゃう人もそれなりにいるかも。
"ゼロから"
CPUの設計ができて、プログラミング言語を設計し、コンパイラが書けて、OSを載せて、
その上で例えばレイトレーシングを動かせるくらいの力量がつく。
確かに22歳でそれぐらいできれば割と凄いな。ハードウェア寄りになると不得手なソフトウェアエンジニアは少なくないからCPUは置いておくとして、それ以外なら22歳でそれぐらいできそうな奴は探せばたまーにいるので、その例だけでは東大卒がそれほど群を抜いて凄いのかどうかはさっぱりわからないけど。
プログラミング言語Cをマスターするってのは、Cそのもの設計や実装から、CPUの挙動など、ハードウェア以上の可能な限り全レイヤーを意識してバランスを取り、スケーラビリティの高いシステムをCで書けるぐらいのことを指すと思うんだけど、それとSQL構文の暗記との関連性がよくわからない。まさかマスターってのはCの機能をほぼ完全に使えるだけ、とかそんなことを言ってるんじゃないよね。もしそうなんだとしたらプログラミングのことが全くわかってないので、わかったような発言はすべきではない。
最初から例外的な能力を持った人間の話しかしていない。いきなり普通のプログラマーを持ち出す意味がわからない。無用な炎上で議論が暴走することを想像できないのならば、釣り目的でない限り黙っておくのが懸命だ。
とここまで書いて、俺はいま「しまった」と思っている。
また、ここで注意していただきたいのは、プログラミングなんて誰がやっても同じということだ。
機械語を書く際の冗長な作業を軽減するための、プログラミング言語であり、
もっともプリミティブな部分が定義されていれば、あとはそれを別表現で定義すればいい。
銀行で使われている静脈認証、
うわあ、完全な釣りだった。やられた。脊髄反射で返信を書き始めた俺が一番の馬鹿です。同じ馬鹿なら踊らにゃ損なのでもうちょっと書こう。
まず、プログラミングなんて誰がやっても一緒だと言うのなら一度でいいから多くの優秀なプログラマーが認めるような高度なプログラムを書いてみればいい。一度だけでいい。一生で一度だけで。絶対書けないから。少なくとも、誰が書いても一緒と思っているような考えを改められない程度の人間には一生書くことができない。もし書いたこともないのにそんなことを言っているのなら、「日大生は凄い。ボクシングで世界ランクぐらいは簡単に取れる。でも必要が無いからやらないだけだ」みたいなことを言ってるただの痛い子ちゃんだよ。
研究者とプログラマーの差異についてなんて大昔から散々議論されているというのにこんな内容を持ち出されても。研究しかやらない人間は実装ができないし、実装しかできない人間には研究ができない。相互補完的な関係だ。どっちの人間であっても優秀なら凄いよ。それだけ。両方できたらもっと凄いけど、結局両方を一流のレベルでやることなんてできないから、どうせなら片方に尽力してできるだけ凄いことができるようになった方がいいよね。君は実装が全くできない上に「ぼくがしらない分野なのでプログラミングは低レベルに決まってます><」という主張をやっちゃってるぐらいなので、きっと研究は上手くやれるんだろう。そっちを頑張ってください。応援していますよ。僕は君らの論文を読んで実装を頑張ります。
某私鉄のダイア自動制御システムは俺の昔の上司のMARCH卒が設計やったよ。確かに底辺開発ではないにせよ、ただのちょいと高度なSIだと思うけど。DSの手書き文字認識だって推測する文字の幅が圧倒的に狭いんだからそんな極端に高度なことをやってるわけじゃない。ゼロから動画のCODECを作って売ってるフランスの会社で設計やってる友達がいるけど、そりゃ専門分野だからそれだけのことをやれるのが当たり前なだけで、彼は日本で言うと高専みたいな普通の学校を出てるだけだし(ただ、日本の高専と違って、フランスではその高専みたいな学校卒の地位がそれなりの大卒並みに高いと本人は言っていた)、別にそれをできたからってそんなにイカしてるって訳でもなんでもなくて、アルゴリズム作る人間も含めてただのサラリーマンだよ。十五年ぐらい前ならいざ知らず、今じゃもうCODECなんてありふれてるしね。そりゃその設計やってる彼はそれなりに高給だし能力だって高いんだけどそんなに物凄いことってわけではない。色んな分野にそんな人はゴロゴロいるし、大きな会社で設計やって下に丸投げしてる人だって別に東大ばっかりでもなんでもない。君の言う「高度」はてんでズレてんだよなあ。実情をろくすっぽ知らないまま人づてに聞いた話で頭でっかちになってるんだろうからしょうがないけど。
スピーチぐらいでいいんだったら無難にこなせる奴なんて腐るほどいるわ。これを出した意味がわからない。
散々叩いちゃってごめんね、それとも爆釣で大喜びかな。でも君の主張には同意できるところもある。プログラマーの多くが薄給で、つまらなく、低脳であることだ。俺は自分で今の会社は恵まれてるなあと思ってるけど、これは運が良かっただけだね。
ただまあ、俺もソフトウェアエンジニアの視点から給料の話に何度も乗ってるのであんまり言いたくないんだけど、そんなに儲けたいなら他人に金集めを任せてる程度の人間がやれ高給だの給料が数倍だの言うのは噴飯ものだよね。経営なり何なり、金を運用する側もやってから言うべき。そうでないなら、給料を決めるのは、君や俺の能力にどれだけの金銭的価値があるのかと決める市場の流れやボスの経営判断などによるであって、金に関しては悠々生活できる給与を貰ってるだけの下っ端でしかない人間が偉そうに言う問題ではないし、少なくとも個人の技術と給料は直結しない。研究者やプログラマーが儲からない? だから何? っていう。日本では研究資金の調達が苦手な教授が多いからもしかしたらピンとこないかも知れないけど。
単に、それだけ円周率に興味が無いってだけじゃないかな?
そりゃちょっと話が違うだろ。
「何で証明しなければならないわけ?」に表されてるように、興味のあるないとか、彼女らが解くべきとかではなく、何故こういう問題が存在していて、それを入試で解かせることにどういう意味があるのか、そういったことに対して彼女らはまったく想像力が働いてないということ。
何も彼女たちが円周率やこの問題に興味を持ったり解いたりする必要はないだろうし、圧縮アルゴリズムを再実装する必要もないのは確かだ。だが彼女らの言動は「huffman符号化を実装してテキストの圧縮アルゴリズムを組みなさい」と大学の授業で言われた時に「はぁ? lzh使えよ? 何の意味あんの?」と返してるようなもんだよ。
自分にとって必要性がない=意味がない&馬鹿にする、というスタンスは「思考力ねえなぁ」と評されても仕方あるまい。思考力というか想像力というか。
http://anond.hatelabo.jp/20070302015833
ミソジニーというのは女嫌いのことであって男とか性欲が嫌いなことではない。
好きだって感情は性欲だけではないのは分かっているけれど、好きだ付き合ってくれ≒セックス出来る関係に という符号があるようで「花を部屋に絶やさないようにしてるところとか、好きで」とか言われた日には「私の自分のための楽しみがアンタの性欲に繋がるなんてイヤ!絶対イヤ!」と半分ヒステリーのようになって花を捨ててしまう。
本当は花を飾ってるかどうかはどーでもよくて体目あてなのをカモフラージュしてるだけでは?そういう人って花を飾らないようにしても服装や髪型を変えても笑顔を振りまくのをやめても性欲向けてくると思うが。「笑顔がかわいい」というから笑わないように不機嫌そうにしたら「怒った顔もかわいい」とか言い出し、ファッション変えても「何着ても似合う」「前野のもいいけどこの髪形もいい」とか言い出すんじゃないかな?
http://anond.hatelabo.jp/20070228145049
自分の生活が楽しくなるように頑張って生きようと心がけてるのだけど(部屋に花を絶やさないとか、週に一度は友人と飲む時間を作るとか、笑顔を忘れないようにするとか、仕事になあなあさを持ち込まないとか、そんな細かいルールびっちり決めて)そこが好きだって言われて告られるととてもキモチワルイ。私が自分の生活のためにしていることが、誰かの性欲増進にお役立ちしていたという事が鳥肌モノ。
好きだって感情は性欲だけではないのは分かっているけれど、好きだ付き合ってくれ≒セックス出来る関係に という符号があるようで「花を部屋に絶やさないようにしてるところとか、好きで」とか言われた日には「私の自分のための楽しみがアンタの性欲に繋がるなんてイヤ!絶対イヤ!」と半分ヒステリーのようになって花を捨ててしまう。
ほとんどビョーキだな、いいがかりだよな、とは思うけれど、とにかく自分に性欲を向けられることが気持ち悪い。告られたりした日にはウエってなる。なんとかなんないか。これ。
はじめに
秋葉原は現在もっとも注目される街の一つである。IT・ハイテク技術の聖地として、あるいは現在国が推進するソフトウェア・コンテンツの見本市として、またはサブカルチャー文化が生まれる一観光地として、政府である『官』やソフトウェア&ハードウェアを生産する『企業』、そして秋葉原を目指す『個人』の視線がそこに集中し、ひとつのムーブメントを作り出している。
この記事は、秋葉原の歴史については軽く触れる程度にとどめ、主に90年代後半??今後の秋葉原について参照し、今後秋葉原がどういった発展を遂げるかについて将来像を探るものとする。
電気屋街としての秋葉原の歴史は、終戦直後に作られた露天市までさかのぼれる。戦前の秋葉原にも山際電気(現在のヤマギワ電気の前身)なども存在はしたが、当時電気屋の主流であった「電気材料卸商」(電化した工場設備に必要な部品を販売する商店)の中心的な場所ではなかった。戦後、焼け野原になった秋葉原で近隣の電機工業専門学校(現東京電機大学)の学生がラジオを組み立て販売するというアルバイトをしたところ、これが大繁盛。その結果、他の露天商も品物を真空管などラジオ部品の販売に転向、その上電気に詳しい露天商の参入もあり、120軒あった露店のうち約50軒が電器商という、まさに電気屋街の前身ともいえる様相を見せた。
この初期の秋葉原の発展について、近くに工学専門の学校があったという地理的要因のほかに、交通の便のよさというのが上げられるだろう。終戦直後にできた闇市で活況を見せたのは、上野や新橋、渋谷など国鉄の乗降客の多い駅の周辺にできたものだった。秋葉原の国鉄や都電が通るアクセスのよさは、そういった「人の流れの結節点」となって、秋葉原に人を留める要因になったと思われる。
その後、GHQにより道路の拡張工事を行うため、露天撤廃令が施行され、露天商は国鉄秋葉原駅ガード下で営業をはじめることになる。これを秋葉原電気屋街の原型とし、以後日本の高度経済成長とともに、電気屋街は拡大していくことになる。この成長を支えたのは家電だった。人々は豊かな生活を追い求めるため、「三種の神器(テレビ・冷蔵庫・洗濯機)」に代表される電化製品を求め、家電が安い秋葉原に足を運んだ。しかしその人の流れは昭和50年代後半で終わることになる。家庭に普及した自動車で郊外型の家電チェーン店に向かうといったライフスタイルが定着し、それまで主要客層だった家族層が秋葉原に足を向けなくなる。また、昭和60年代のAVブームと高級家電のブームの反動による家電不況などもあり、秋葉原は新規顧客層の開拓と、それに伴う主力商品のシフトを図ることになる――「情報家電」。昭和にはマイコンとよばれ、現在パソコンと呼ばれるマルチメディア機材である。平成6年、電気街の売上においてPC関連商品が家電商品を上回って、名実ともに秋葉原は電脳街となるのである。
秋葉原の主力製品となった情報家電は、アニメやゲームを愛好するオタクたちと親和性が高い。アニメを見るためのTV、エアチェックする為のレコーダー、ゲームだけでなく、ファンとの交流を図るコミュニケーション・ツールとしてのPC――しかしそれだけが、秋葉原を「オタクの聖地」としたのではないと、建築学者である森川嘉一郎は言う。
秋葉原に点在する「まんだらけ」や「海洋堂」、「ゲーマーズ」などの同人誌、アニメグッズ、ガレージキット(フィギュア)専門店はそれまで秋葉原になかったものであり、それらは秋葉原に移転するまで吉祥寺、渋谷、新宿などに点在して存在していた。しかしそんな専門店が97年以降秋葉原に集中するようになった原因を、森川は『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』において、(株)海洋堂の宮脇修一専務のインタビューをヒントにこう記している――アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』のヒットと、それに付随したサブカルチャー・ブームにより未曾有のバブルに沸いたサブカルチャー・ショップが、その勢いに乗り秋葉原への出店を促したのだと。確かにこの時期、東京ビッグサイトで行われたコミックマーケットの入場者数が25万人(95夏 90年からこの人数が横ばい)から35万人(96夏)、40万人(97夏)へと急激に膨張するなど(ちなみにこの後入場者数は横ばいになる)、この時期サブカルチャー文化への大幅な人口流入があったという見方もできるだろう。しかし、アニメやマンガ界隈において、エヴァ以降現在に至るまで、エヴァと比肩し得るヒット作は生まれていないのが現状である。しかしサブカルチャー産業は萎むことなく、拡大し続けているのが現実である。エヴァ現象によってサブカルチャー文化に入ってきた人びとは何を飽きずに摂取し、そこにとどまり続けているのか。まずこのことを明らかにしてから、秋葉原の現状について考えてみたい。
批評家東浩紀によれば90年代以降、アニメの物語よりもそこに登場するキャラクターや設定などの断片を愛好するオタクが増えたと、著書『動物化するポストモダン』で述べている。東浩紀によれば「オタクたちは、物語やメッセージなどほとんど関係なしに、作品の背後にある情報だけを淡々と消費している」と指摘し、そのことを「キャラ萌え」している(この言葉はやや古くなった感があるが、そのことについては触れないでおく)と表現した。1960年生まれのライターである竹熊健太郎氏も、「オタクとは何か? What is OTAKU? | Web草思」において、まず自身の立場を「(アニメ作品などにおいて)トータルで作品は見るべきだという思いがどうしても強い。」と表明し、「もちろん心の深いところでは、キャラ萌えのような感情はあるんですけどね」としながらも、かれらについて「でもそれを外部に表明するのは、自分はバカですと言ってるのと同じで、とてもできないわけですよ。」と違和感を語っている。しかし、その中で竹熊はこうも語っている。曰く、キャラ萌えという衝動は「アニメブームの頃、中高生のミーハー女子が「シャア素敵??」って黄色い声をあげていたのと同じ」であると。
東はオタクの嗜好が変わった原因を大きな物語の凋落に求め、結果大きな物語に付随する「小さな物語(アニメにおけるキャラクターやロボットなどの一要素)」を単独で摂取するようなオタクが現れた、と前述した著書で述べている。このことについて東はインターネットの世界を例に挙げてうまく説明しており、少々長くなるがここに引用したい。「すべてのウェブページを規定するような隠れた大きな物語は存在しない。(中略)インターネットにはむしろ、一方には符号化された情報の集積があり、他方にはユーザーの読み込みに応じて作られた個々のウェブページがある、という別種の二層構造がある。この二層構造が近代のツリー・モデルと大きく異なるのは、そこで、表層に現れた見せかけ(個々のユーザーが目にするページ)を決定する審級が、深層にではなく表層に、つまり、隠れた情報そのものではなく読み込むユーザーの側にあるという点である。」「ポストモダンのデータベース型世界では、表層は深層だけでは決定されず、その読み込み次第でいくらでも異なった表情を現す。」
この件について森川も同じくインターネットを紐解き、インターネットにおける「地縁・血縁に因らない趣味や関心の共通性に基づいたコミュニティ=コミュニティ・オブ・インタレスト」が、秋葉原の構造の変化を促した、と記している。つまり、「パソコンを好む人は、アニメの絵柄のようなキャラクターを好み、そうしたキャラクターが登場するアニメやゲーム、ガレージキットも愛好する傾向がある」というオタク趣味の構造が、現在の秋葉原を形成したのだと。しかし私は、この変化を趣味の変化や世代の変化ととらえるのではなく、技術の進化が趣味の構造の変化をもたらしたのだ、と主張したい。
オタクについて、まずかれらについて、サブカルチャー文化を愛好するものたちだと捉えよう。サブカルチャー文化はメインカルチャーにたいするカウンターである為、自ずとその文化を愛好するものはマイノリティとなる。そしてマイノリティである為、常に外部から奇異の視線に晒され(宮崎勤事件を参照されたい)、それに対抗するためオタクたちは様々な我流の理論武装を施し、それによって更にオタクはオタクとして、孤立、タコツボ化を極めた(こういった空気は、ガイナックスの元社長である岡田斗司夫が記した『オタク学入門』(太田出版)を参照されたい)。そしてオタクはまた、サブカルチャーの知識を深めるための仲間を必要とし、オタク仲間に出会える場所を強固に求めた。漫画家の篠房六郎氏は、かれ自身にとっての同志が集う場所であった武蔵野美術大学漫画研究会について、「かつてはクラスの隅っこにいた痛々しい孤独な連中が、自分と同じものの見方を持っている人がいると知って、救われる場所がここだった。」と表現している。
しかし技術の発展が、限られていた場所を無数に生み出すことになる――具体的に言うと、ネットに生まれた「コミュニティ・オブ・インタレスト」である。
秋葉原が「趣都」となった97年以降、PCやインターネット整備網、そして文化は急激に発展し、一般家庭に普及していった。オタクと情報家電の親和性は「2 オタク層の流入??趣都の誕生」の冒頭で述べた通りであり、また、Windows95以前もニフティサーブやパソ通などで、一部のオタクはBBSを通じて他のオタクとのコミュニケーションを図っていた。その後インターネット人口が拡大するにつれ、オタクたちはかつて無い数の「同志」と出会うことになる。現実世界では「距離」によって出会えなかった人々と、モニター越しに交流することができ、どんなにニッチな趣味でも「仲間」を見つけることができるようになったのだ。
「仲間」と「コミュニティ・オブ・インタレスト」を形成できるというのは、前述したような「我流の理論武装」をする必要がなくなったことを現す。なぜなら形成したコミュニティを安定維持するため、構成員の視線は外部より内部に向かうからだ。よって仲間同士、理解しやすく、されやすくするため、お互いにとって理解しやすいものを求めるようになり、その為表層と呼ばれているデータベースを、お互いのコミュニケーションにおいて重要視して使用するようになった。「巫女」や「ツンデレ」など、キャラクターの要素をあたかも服装の組み合わせによる着こなしように消費し、コミュニケーションのための文法とするオタク。作品から好みの要素切り離して楽しむことができるからこそ、エヴァンゲリオン以降ヒット作に恵まれなくとも、オタクたちはサブカルチャー文化を愛好し続けることができたのだ。
秋葉原の今を見つめるブログとして、アキバblog(http://www.akibablog.net/)というサイトがある。このサイトは毎日秋葉原の店先をチェックして、物品の販売価格のほかに、店員が作る個性的なPOPを“ネタ”として紹介することをメインコンテンツにしている。このサイトを眺めていて目に付くのは、店が掲げるPOPに書きこまれた“ネタ”はマスメディアが流布したイメージよりも、インターネットから生まれたジャーゴンである場合が圧倒的に多いということだ。普通の店なら「○○という番組で紹介された??」という文句を掲げるはずのものが、ここではネットのジャーゴンを絡めて、連帯感を出して売られている。また、匿名掲示板群である2ちゃんねるから生まれたキャラクターグッズを売るショップもあり(因みに同じ2ちゃんねるで話題になったのまネコFlashとそのキャラクターがAVEX資本で商品化されたときには非難が集まり、秋葉原発のグッズショップにはなんら実害を及ぼさなかったこの対比は興味深い)、現在の秋葉原はオタク文化というマスではなく、ネットというマスに向けて情報を発信していると言えよう。話題になったドラマ「電車男」も、触れ込みは「オタク発」ではなく「ネット発」とうたわれていたのも思い出させるし、そもそも秋葉原名物となったメイドも、(始まりこそあるアニメのコスプレ喫茶として生まれたものの)オタクたちが共有イメージとして持っていた「メイド」を現実化したものであり、特定のアニメ作品というマスメディアから生まれたものではないことも記しておこう。
高度成長時代、メーカーにとって秋葉原とは、特例的な値引きを許し、かつ消費者の反応をフィードバックさせるための実験場であり、社員の技術者が新製品とともに、専門知識を備えた販売員として小売店へと配備された場所だった。今秋葉原では同じように、ネットから生まれた文化を貪欲に取り込みそれを街の貌とする実験場になっている。インターネットの発展により、個の集合体があたかもマスコミュニケーションのように総体として機能し始めた現在。「趣味の構造が場所を変えた」都市に加え、「既存のマスメディアだけでなく、個々が生んだネットメディアと交流をとる」最先端の都市として、現在の秋葉原は評価されるべきだろう。
参考文献
「週間大衆:昭和54年8月9日号」焼跡のバラック問屋街を『世界のアキハバラ』に高めたガンコ一徹
http://www.shimura-musen.co.jp/home_2/kiji_02.htm
http://www.akiba.or.jp/history/index.html
オタクとは何か? What is OTAKU? | Web草思
http://web.soshisha.com/archives/otaku/index.php
http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/20061029#p1
http://sotokanda.net/his_cafe.html
註:ちなみにメイド喫茶が爆発的に増えたのは、私の記憶によればドラマ「電車男」以降のはずである。
コミックマーケット30’s ファイル 発行:(有)コミケット 発行人:米沢嘉博
カーニヴァル化する社会 講談社 著者:鈴木謙介
動物化するポストモダン 講談社 著者:東浩紀