はてなキーワード: 相対論とは
これを書いた元増田です。これだけ丁寧に書いてもわからん人たちにはいいかげん怒りが抑えきれなくなってきました。
特に、この人はどうしても許せない。他の人にも言いたいことはあるが、まずこの人だけやっつけておく。
http://d.hatena.ne.jp/Wallerstein/20080813/1218593841
曲学阿世の徒はどっちなんだか。
まあその気になれば勤務先のジムのバイト君が理学博士(数学)なんで聞いてカンニングすることもできるけど。まあすぐに馬脚は現れるだろうしやらない。
その程度の認識なのか、この人は。カンニングしたところで理解できるのは辞書的な定義だけで、背後にある発想というものは頭をひねって苦しまなければ理解できるはずがないものだ。それを「ぐぐれカス」の一言ですますあなた方の態度を批判しているのだが、何でそんなことがわからないのだろうか。それこそ「わからないふり」をしているとしか思えない。
しかし「学問やってる人間をなめないでほしい」と書いていて、「人文系でない人間にとっては「ホモ・サケル」という用語を今回初めて見たとしても何の不思議もないわけで、」という泣き言を言うんじゃない。私も「ホモ・サケル」なんて知らんけど、知らんから言及しない。自分が知らないことに言及して、恥をかいたら逆ギレ?それで「学問やってる」て学問を愚弄するのも甚だしい。
泣き言?恥?あなた、私の文章を最初から意図的に誤読してるでしょ。
私はあのid:hokusyu氏の文章がわからないことを恥だなんて思っちゃいないし、同氏の議論の妥当性に言及した覚えもない。そんなことは最初から私の射程には入っていない。そうではなくて、それほど難しいことを理解することを強要して、理解できない人間を「あたまがわるい」と罵倒する知的不誠実さをこそ批判している。ましてあなた方は「理解できないというのは、理解を拒んでいるからだ」とまで極言した。だったら、id:hokusyu氏の意見が難解であるなんて後付けで言うんじゃないよ。だったら、あなたはどの口で「知らんけど、知らんから言及しない」なんて平然と言えたものか。二枚舌を使うな。恥を知れ。
そもそも「増田」で人を批判する根性なしに尊敬されても己の恥辱でしかない。今回の言及が自分のブログでなされていたら、もう少し私の反応は違っていたが。
はてな紅衛兵に炎上させられるリスクを敢えて冒せと言うのか?こういう状況だから、fuku33氏やHALTAN氏が受けたリンチを思えば自ブログで書けばどういうことになるかは火を見るよりも明らかではないか。私はこの話題に関しては増田でしか言及しないし、私が書く記事は全てその旨表示する。逃げも隠れもしない。文句があるなら正々堂々とかかってこいというのだ。
何度でも言う。この増田の人間は学問をとことん舐めくさっている、と。結局こいつにとっては学問とは自分の虚栄心を満たす以外の何者でもないのだ。
それはお前らのことだ。
お前らがfuku33氏やHALTAN氏を批判したのが、それほど高度で難解なことであるならば、それを「あたまがわるい」なんて言うべきじゃないし、ましてそれを「理解できない」と言ったことを「理解を拒んでいる」だの「反知性主義」だのと下種の勘繰りで侮辱したりするんじゃない。例えば私は、あなたが一般相対論や微分幾何学を理解できないからって「あたまがわるい」なんて言ったりするつもりはない。それを敢えて他人をサンドバッグにしてまでご自身のご高説を開陳なさるということは、要するにあんた方は人文系知識を「自分の虚栄心を満たす以外の何者でもない」ものとして扱っているということだ。
文句があるなら言ってみやがれ、エセ学者。
それにしてもこの人、自分もid:hokusyu氏の言ってることを理解してないくせにHALTAN氏が「考えてない」とか言ってたんだね。どんだけ党派的なんだろ。
hokusyu あたまがいたい いやまさに知的誠実さの問題だよ。あんたとHALTANの。/理解できないのが「あたまがわるい」んじゃなくて、理解してないのに「無意味」「飛躍」というのが「あたまがわるい」の! ←俺この説明何度すればいいの
私はid:HALTAN氏の主張に全面賛成しているわけではないし、私は「無意味」「飛躍」という言葉をあなたの文章に対して使ったことはない。あなたの文章が原理的に「理解可能」なものであるかどうかについて私は否定はしていない。ただし、肯定もしないことを言っておく。あなたは、専門家が一般の場に向けてものを書く際に必要なだけの説明をしていない(そう考えた理由は元記事で述べた)し、それで理解できないことを責めるのであれば、その論法は「俺様の天声を理解できない愚者どもは地獄に堕ちろ」というカルトの論法と同じである。少なくとも、現在のあなたの態度は控えめに言って傲慢だ。
via : http://anond.hatelabo.jp/20080721222220
まあ、どのくらいの数の物理オタがそういう彼女をゲットできるかは別にして、
「オタではまったくないんだが、しかし自分のオタ趣味を肯定的に黙認してくれて、
その上で全く知らない物理の世界とはなんなのか、ちょっとだけ好奇心持ってる」
ような、ヲタの都合のいい妄想の中に出てきそうな彼女に、物理のことを紹介するために
見せるべき10人を選んでみたいのだけれど。
(要は「脱オタクファッションガイド」の正反対版だな。彼女に物理を布教するのではなく
相互のコミュニケーションの入口として)
あくまで「入口」なので、時間的に過大な負担を伴うマニアックな人物は避けたい。
できれば伝記が出てる人物、少なくともブルーバックスレベルにとどめたい。
あと、いくら物理的に基礎といっても古びを感じすぎるものは避けたい。
物理好きが『ケプラー』は外せないと言っても、それはちょっとさすがになあ、と思う。
そういう感じ。
彼女の設定は
物理知識はいわゆる「ブルーバックス」的なものを除けば、中学校程度の物理は知ってる
サブカル度も低いが、頭はけっこう良い
という条件で。
まあ、いきなりかよとも思うけれど、「アインシュタイン以前」を濃縮しきっていて、「アインシュタイン以後」を決定づけたという点では
外せないんだよなあ。知名度もあるし。
ただ、ここでオタトーク全開にしてしまうと、彼女との関係が崩れるかも。
情報過多なアインシュタインの業績の数々について、特にリーマン空間上の時空の幾何学という数学的側面が強い一般相対論について、
どれだけさらりと、嫌味にならず濃すぎず、それでいて必要最小限の情報を彼女に
伝えられるかということは、オタ側の「真のコミュニケーション能力」の試験としてはいいタスクだろうと思う。
アレって典型的な「オタクが考える一般人に受け入れられそうな物理学者(そうオタクが思い込んでいるだけ。実際は全然受け入れられない)」そのもの
という意見には半分賛成・半分反対なのだけれど、それを彼女にぶつけて確かめてみるには
一番よさそうな素材なんじゃないのかな。
「物理オタとしてはニュートン力学と万有引力の法則は“常識”としていいと思うんだけど、率直に言ってどう?」って。
ある種のSF物理オタが持ってる時空制御やタイムトラベルへの憧憬と、一方で時間順序保護仮説を唱えるオタ的な理論物理へのこだわりを
彼女に紹介するという意味ではいいなと思うのと、それに加えていかにもSFオタ的な
の二つをはじめとして、オタ好きのする理論を世界にちりばめているのが、紹介してみたい理由。
たぶんこれを見た彼女は「モーツァルトだよね」と言ってくれるかもしれないが、そこが狙いといえば狙い。
これほどの変態的天才がその後続いていないこと、これがアメリカでは軍事への貢献で大人気になったこと、
数学から経済学までのあらゆる分野に影響を残した天才ぶりはアメリカなら実写テレビドラマになって、
それが日本に輸入されてもおかしくはなさそうなのに、
日本国内でこういう天才が生まれないこと、なんかを非オタ彼女と話してみたいかな、という妄想的願望。
「やっぱり物理は目に見える自然現象を説明するためのものだよね」という話になったときに、そこで選ぶのは「アンリ・ナビエ」
でもいいのだけれど、そこでこっちを選んだのは、電磁気学にかけるマクスウェルの思いが好きだから。
(以下思いつかねえ)
今の若年層でオイラーを目指す人はそんなにいないと思うのだけれど、だから紹介してみたい。
量子力学よりも前の段階で、力学現象を解析的に取り扱う哲学や位相空間の技法は彼で頂点に達していたとも言えて、
こういうクオリティの物理学者が数学者の片手間でこの時代に生まれていたんだよ、というのは、
別に俺自身がなんらそこに貢献してなくとも、なんとなく物理好きとしては不思議に誇らしいし、
いわゆるニュートン力学でしか物理を知らない彼女には見せてあげたいなと思う。
(還元論的)物理の「本質」あるいは「原理」をオタとして教えたい、というお節介焼きから見せる、ということではなくて。
「あらゆる基本的な物理量は保存する」的な感覚がオタには共通してあるのかなということを感じていて、
だからこそ理論物理学の最も基本的な量はハミルトニアン以外ではあり得なかったとも思う。
「複雑系を取り扱う新しい物理」というオタの感覚が今日さらに強まっているとするなら、その「オタクの気分」の
源はハミルトニアン(時間並進対称性に起因する保存量)にあったんじゃないか、という、そんな理屈はかけらも口にせずに、
単純に対称性と保存量の美しい関係を楽しんでもらえるかどうかを見てみたい。
これは地雷だよなあ。地雷が火を噴くか否か、そこのスリルを味わってみたいなあ。
こういう純粋数学チックな物理を元文系の天才物理学者が推進していて、それが非オタに受け入れられるか
気持ち悪さを誘発するか、というのを見てみたい。
9人まではあっさり決まったんだけど10人目は空白でもいいかな、などと思いつつ、便宜的にファインマンを選んだ。
アインシュタインから始まってファインマンで終わるのもそれなりに収まりはいいだろうし、場の量子論以降の
素粒子物理時代の先駆けとなった人物でもあるし、紹介する価値はあるのだろうけど、もっと他にいい人物がいそうな気もする。
というわけで、俺のこういう意図にそって、もっといい10人目はこんなのどうよ、というのがあったら
教えてください。
「駄目だこの増田は。俺がちゃんとしたリストを作ってやる」というのは大歓迎。
こういう試みそのものに関する意見も聞けたら嬉しい。
10人は疲れるなこれ…。穴だらけだわ。そういう意味では元増田すげえな…。
ま、俺クラスになると、いい人材はひと目で分かるんだけどな。
さすが一般相対論を3日でマスターする方は言うことが違うw
それはたぶん俺が見てもひと目でわかるww
三人いる所で言ったり、したりしたことは、秘密にはできない
私たちは「一日に平均二回」の嘘をつく(ヴァージニア大学調べ)
古典的な多体問題としては、太陽系のような恒星と惑星が、万有引力で相互作用し合う場合の惑星運行の問題が挙げられる。太陽と地球のような二体問題は厳密に解けるが、例えば月の運動も考える一般の三体問題以上になると解析的に解くことはできないとされる(限定された条件(制限三体問題など)では解が存在する)。
弘前大、一般相対論における三体問題の直線解の解析解を導出 | スラッシュドット・ジャパン サイエンス
連想ゲーム〜選挙〜不可能性定理〜三体問題 - 愛唱会きらくジャーナル - Yahoo!ブログ
はてなブックマーク - 九尾のネコ鞭「会話はキャッチボール」の本当の意味
はてなブックマーク - 1対1の会話と、3人以上のグループによる雑談は、本質的に異なるものなのでは - toruotの日記
http://anond.hatelabo.jp/20070224194128
逆にさ、人に教えてもらって成功したり能力を発揮できて本当に楽しいかって考えたことがある?
もちろんあります。いや、違うかもしれません。本当の意味で考えたことはなかったのかもしれません。
当時の私が陥っていた思考の罠は、
「人に教えてもらうことは、所詮はお情けに頼ること。自分では何もできないということを認めること。これは屈辱だ」
というものでした。ここで思考停止してしまっていました。
ある意味では正しいのかもしれません。でも、当時わかっていなかったことがあります。「自分ではなにもできない」というのが紛れもない事実だったことです。これを認める勇気がなかったことが全ての敗因です。
私見ですが、研究者として必要な能力は二つあります。「何を(what)するか」と、「どうやって(how)するか」の双方です。
このうち、whatは人から教えてもらうことが困難です。知識をいくら集めても、質の良い研究テーマは出てきません。何が重要か、何が面白いか、そのあたりの判断ができることが必要です。当時の私には、このあたりの能力はあったと思うのです。そういう意味で、私は自分が才能に欠けていたとは必ずしもありません。
一方で、howの方は人から教えてもらうことができるのです。そして、「やりたいこと(what)」の中からできそうな部分を切り出してくるような能力、これも広い意味のhowに入るのです。これこそ、私が見落としていたことです。知識は本や論文から手に入れることができます。しかし、知識を集めてhowにすることも難しいのです。それができるようになるためには、経験が必要です。そして、経験がなにもない段階から経験がある段階にステップアップするためには、先達の指導を受けることがどうしても必要です。
私には、whatとhowの区別がありませんでした。確かに、whatについて教えを乞うことは恥かもしれません。無目的に時を過ごすことの無意味さを自覚できていないからです。しかし、howについては教えを乞わないことが恥だと思います。歴史上多くの先達が一生をかけて成し遂げてきたことを自分だけの力で何とかしようというのは、無謀以外の何ものでもありません。
物理学の歴史上屈指の天才の一人として、アインシュタインがいます。彼の最大の業績としては、まず間違いなく特殊相対性理論が挙げられるでしょう。これは、時間とか空間といった日常的な概念に変更を迫るものとして、一般人の関心をも大きく惹きつけました。
ですが、アインシュタインの業績だと一般に思われていることを100とすれば、そのうちアインシュタイン独自のアイディアは実のところ2か3ぐらいしかないのではないでしょうか。光速度が一定であること、時間や空間が伸び縮みする可能性があること、これらは全て、ローレンツとかポアンカレとか、これも歴史に名が残るような当時の一流の人たちによって既に得られていた成果なのです。現代でも「アインシュタイン、特殊相対論を横取りする」などという本が出版されているぐらい、このあたりは微妙な話に属するのです。しかし、それでもアインシュタインは段違いに偉大だと私は思うのです。アインシュタインの理論は単純な原理からこれらの新しい結果を自然に導き出せる驚くべき明晰さに価値があるのであって、これにくらべれば、ローレンツやポアンカレのアイディアは斬新ではあっても、既存の理論の綻びを無理に覆い隠すようなその場しのぎのものにしか見えなくなってしまいます。しかしそれにしても超一流であるアインシュタインにして、せいぜい100のうちの2か3のアイディアしか出せないことは注意する必要があります。それが成熟した学問分野での研究者の世界というものです。
さて、アインシュタインは特殊相対性理論を発展させて、一般相対性理論を提唱しました。これこそは全く新しい分野の構築であり、100のうちの100のアイディアがアインシュタインのものであるといってもいいように見えます。しかし、この理論の肝である「曲がった時空」を扱うためのアイディアは数学のうちの「微分幾何学」と呼ばれる分野から丸々拝借してきたものであり、数学者の立場からみれば、長年にわたって構築されてきた理論にアインシュタインは物理的解釈を当てはめただけ、と言えなくもありません。そして、「微分幾何学」を物理学に適用するというアイディア自体もアインシュタイン独自のものではなく、その指導教官のミンコフスキーの助言に端を発するものなのでした。もしアインシュタインがミンコフスキーと知り合っていなければ、この理論の発見者はアインシュタインではなかったかもしれません。アインシュタインですらhowを指導教官から教えてもらっているのに、どうして稀代の天才でない人間にそんなことができるでしょうか?
華々しく成功して賞賛されたのはいいけど、後々まで、教えてもらった人に、
「あの時は世話してやった」と言われ続けるのは、あなたにとって屈辱じゃないの?
「こいつは使える、優秀だ」と、周りの人に評価されてうれしいの?
評価されて嬉しくないはずがありません。評価されなければ、自分の挙げた成果も日の目を見ず、どこかに埋没してしまいます。それが研究者の世界です。それでは実績を残したことにはなりませんし、研究を続けることもできなくなるし、社会に何の貢献もできていないことになってしまいます。目的ではなく手段として、評価されることは必要です。それを嫌って前衛芸術家を気取っている人は、一生を前衛のままで終わらざるを得ないでしょう。
それに、「あの時は世話してやった」と恩に着せるような言い方をされるのが嫌だといったところで、指導を受けずに何の成果も残せないこととどちらを選ぶかといわれれば、答えはいうまでもありません。それにそもそも、弟子が華々しい実績を上げれば、黙っていてもその人の師は優れた教育者として歴史に名を残すことになるはずで、最初から自慢をする必要などありません。
この元記事を書かれたあなたへ。おそらくあなたは現役の学生なのでしょう。血気盛んに、何かを成し遂げてやろうと思っていて、私を二流に甘んじた人間とお思いなのだと思います。その意気は買うべきものがあるし、私が二流なのも事実でしょう。しかし、「何かを成し遂げる」ということは、あなたの思っている通りのことではないのも事実なのです。それを知って欲しいのです。上にアインシュタインの話を長々と書いたのも、アインシュタインであっても実際に成し遂げたことはおそらくあなたの想像より遙かに地味なことであろうという事実を知って欲しかったからです。所詮人間の能力には限りがあり、天才と凡人には言うほどの違いはありません。ただし、次に引用するニュートンの言葉が全てを物語っていると思うのです。これを肝に銘じ、有意義な学生生活を送って頂きたいものです。
「私が遠くを見通し得たとするならば、それは巨人の両肩の上に立っていたからだ」
「はてなブックマークで話題になるブログとならないブログの違い」という記事が注目を集めていたようなので、遅まきながら言及してみる。
先ずは周辺記事から目についたものをピックアップ。
アルファクリッパーの影響力なんてそんなに大したものではないんじゃないか、という話なのだが、その根拠が「アルファクリッパーがブクマした記事が全てホッテントリになるわけではない」というもので、元記事とかみ合っていない。
元記事をよく読めば分かるが、元記事は別にアルファクリッパーがブクマしたら必ず話題になるなんて主張しているわけではない。
例えば、あるブログの記事をアルファクリッパーが十回ブクマしたとして、そのうち九回までが1userのままだったとしても、残りの一回でブクマ数が伸びて話題になれば、それは十分「話題になるブログ」なのだ。
そして、そのようなブログはそうした機会すら得られないブログに比べてはてブで話題になるという点において絶対的に優越した地位にある、というのが元記事の主張である。
なので、「アルファクリッパーがいくらブクマしても全然話題にならないブログもある」と言うのならともかく、個々の記事単位でホッテントリにならないものもある、と言ってみたところで反論として成立していない。
また、アクセス数の話にしても、はてブがアクセス増に必ずしも結びつくものでないことは以前から指摘されていたことであり、これも反論になっていない。
アクセス数が少ない=はてブへの影響力も少ない、ではないのだ。
(アルファクリッパーのブクマ数・アクセス数への影響力については、「萌え理論Blog - はてブのアルファクリッパーの影響力」も参照)
「流動的」「癒着」「支えあう」といった言葉の意味が曖昧で、正直、何を言いたいのかよく分からない。
おそらく、常に同じ人がアルファクリッパーであり続けられるわけではない(なので、アルファクリッパーを囲い込む必要は無い)、という主張なのだろうと思うが、やはりそれも反論としては不十分だろう。
アルファクリッパーが移り変わるものであるという主張が正しいとしても、それは単に囲い込まなければならないアルファクリッパーが変遷するというだけで、アルファクリッパーを囲い込むことの重要性自体が否定されることにはならないのである。
この他にもいくつか関連記事を読んでみたが、どの記事も元記事の内容にあまり深くつっこんで書いておらず、元記事に対して適切な反論を加えることができていないように思う。
そこで、ここで改めて元記事を検証することで、そこに潜んでいた問題点・レトリックを明らかにしてみようと思う。
過去のブックマーク界隈を思い返せば自明であるように、ブログの記事がブックマークされるためには、完成度の高い記事である必要は全くない。隙の多い記事である方が、ブックマーカーの言及欲を刺激してブックマーク数は伸びる。
斬新な視点も必要ない。ブックマーカーは何度同じ話題を繰り返しても平気である。
真理を突いている必要もない。はてなブックマーカーの眼力が大したものではないことなど、あえて言うまでもないことだ。
先ず指摘すべきは、この記事が、ブログの「質」というものを非常に限定的に捉えているということだ。
少し考えればわかることだが、ブログ記事において重要なのは、ここに挙げられている三つの要素、完成度の高さ・斬新さ・真理を突いていることに限られない。
例えば、文章の分かりやすさや構成力、情報量なども記事において重要な要素であるし、そもそも完成度の高さや真理を突くことが要求されないネタ記事や体験談のようなものの場合、当然「質」の意味も変わってくるだろう。
ブログの「質」というものを語るのであれば、そういった諸々の要素を総合的に考慮した上で語られなければならないはずであるが、この記事はその中から恣意的に三つの要素だけを抽出し、あたかもそれだけでブログの「質」の全てを説明できるかのように語っているところに欺瞞がある。
また、それら三つの要素にしても、「必要が無い」ことと「あっても意味が無い」こととは異なることに注意しなければならないだろう。
少なくとも、斬新さ及び真理を突いていることについては、それが必要でないというのが正しいとしても、それを備えていた方がよりブックマークされやすくなることだろう。(ブックマーカーの判断力の高低が様々である以上、的外れな内容の記事で関心を引けるブックマーカーの数は限られてくるし、同じ話題を繰り返すことを好まないブックマーカーにブックマークされるためには斬新さも必要となる)
完成度の高さ(これも曖昧な言葉だが)については微妙なところもあるが、完成度が高いことはそれ自体が大きな魅力となり得るものであり、完成度の低い記事が言及欲を刺激するのと比べて、どちらが多くのブックマーカーをひきつけるかは一概に言えるものではない。
大体において、アルファクリッパーが巡回しているブログの中にも、ブックマークされやすいブログとそれほどでもないブログがあることはある程度はてブを知っている人間ならすぐ分かることなのだから、ブックマークされるためにはアルファクリッパーが巡回していること以外にも何らかの要素(ブログの「質」、ジャンルなど)が絡んでいることは明白であろう。
よって、ブックマークされるかどうかは記事の内容によっても左右されるということができ、ブックマークされることはブログの「質」と何の関係もないとする元記事の主張は過剰な物言いであることが分かる。
さらに、ブックマークされる機会をどのようにして得るかという観点からも、アルファクリッパーの巡回先にならねばならないとする元記事の主張に批判を加えることができる。
というのも、はてブで話題になろうと思えば、アルファクリッパーの巡回先になる以外にも、様々な方法があることは経験上明らかだからだ。
例えば、その時話題になっている記事について言及したり、有名ブロガーにトラックバックを飛ばしたりすることで無名のブログが話題になるなんてことはざらにある。
他にも、ニュースサイトで紹介されるといったパターンもあるし、荒っぽい方法としては、わざと炎上を誘発することで人を集めるというやり方もあるだろう。
このように、ブックマークを集める方法が多様に存在している以上、話題になるためにはアルファクリッパーの巡回先にならなければならないとする元記事の主張は簡単に否定されるのである。
ただ、こういった方法にはその時限りの効果しかなく、継続的に話題になる機会を得るためにはやはりアルファクリッパーの巡回先になるしかないのではないか、という疑問も湧く。
「話題になる」の前に「継続的に」と一言添えるだけで、元記事の主張は極めて真っ当な主張であるようにも思えてくるのである。
しかし、ここで少し考えてみて欲しいのだが、なぜ巡回先に入れてもらうブックマーカーは「アルファ」でなければならないのだろうか?
アルファクリッパーとそうでないブックマーカーの間には、本当にそれほど大きな違いがあるのだろうか?
元記事も述べているように、記事がはてブで話題になるためには、多くのブックマーカーの目に触れる機会を持つことが必要となる。
多くの被favを抱えているアルファクリッパーが重視されるのもそのためであるが、ここで忘れてはならないのが、注目エントリーやはてブニュースの存在だ。
これらは、ブックマーカーがアルファかどうかなどといったことに関わりなく、ブクマ数が閾値に達すれば記事が掲載されるというものであり、事実上、ブックマーカー間の影響力の格差を縮減させる機能を果たしている。
つまり、ブログ側としては、何もアルファクリッパーにこだわらなくても、自分のブログをブックマークしてくれるブックマーカーを数人持つことができれば、それだけで話題になる機会を確保することはできるのである。
無論、アルファクリッパーの影響力に比べれば、そうでないブックマーカーの力によって記事が表舞台に出ることは少ないであろうが、少なくとも、アルファクリッパーが巡回先になることが必要であるとする元記事の主張はアルファの優越性を絶対視し過ぎており、不当なのである。
さらにもう一つ付け加えると、ブックマーカーの影響力は、実のところ、外からは非常に判断しづらいものであるということ述べておく必要があるだろう。
一見無名で被fav数も少ないブックマーカーであったとしても、被fav数の多い大旦那クラスのブックマーカーのお気に入りに入れられていたりすれば、間接的に非常に大きな影響力を及ぼすことがあるし、コメントの有無、タギングのし方、一日あたりのブックマーク量などによっても影響力は左右される。
つまり、ブックマーカーの影響力とは単純に知名度や被fav数から判断できるものではなく、他のブックマーカーとの関係や本人のブクマ態様等によって変動し、そのため、ブックマーカーにおけるアルファ概念の確立は非常な困難を伴うのである。
元記事には、そういった点についての配慮も無く、アルファとそうでないブックマーカーを単純に区別できるものとして捉えているところにも問題がある。
以上見てきたように、元記事の主張には明らかな誤りが多数含まれており、その内容自体は暴論と断じていいだろう。
しかしながら、今この記事を書きながらも、私の中に何か虚しさのようなものがこみ上げてくるのは何故だろうか。
私がこの記事を書いたのは、冒頭に挙げたような例を除いて、ブックマーカーたちやブロガーたちの元記事に対する反応の多くが元記事の内容を肯定するようなものであったことに危機感を覚えたからであるが、そこで彼らが漏らしていたはてなブックマークの現状に対する不満や失望には、むしろ共感を覚えていた。
新規に発掘されるブログが少ない一方で、一度有名になったブログは、「質」の低いどうでもいいような記事でも盛んにブックマークされて注目エントリーや人気のエントリーを賑わすという現状。
そんな現状に対する失望感が多くのブックマーカーたちの間に広がっていたからこそ、あの記事は、その粗雑な論理にもかかわらず、多くの支持を得ることができたのだろうと思う。
その「質」というのはお前の価値基準に過ぎず、ブックマークする人々はそれぞれ違った価値基準でブックマークしているのだから文句を言う筋合いは無い、というような正論も、彼らの失望の前では何の意味も持たない。
そのような相対論によってしか正当化を図れないという事実こそが、まさに彼らの失望の対象に他ならないからだ。
結局のところ、はてなブックマークは、我々一人一人の理想とは異なる、別の「何か」でしかなかった。
そして、その当然の事実について、もう誰もが気づき始めてしまったのだということを、あの記事への反応は示していたのだろうと思う。
その諦観は深く、このような記事を書くことの意義を私の中で危うくさせるのである。