はてなキーワード: 受験戦争とは
オレは1972年産まれ。ロスジェネ世代をささえる中心的世代。
バブル崩壊から、受験戦争、就職超氷河期をなんとか乗り切って、泥のような生活をしているけど、
仕事は辛くとも楽しんでいる。というか、つらくとも仕事は楽しく取り組むというのがオレの信条。
仕事は広告代理店で、クライアントと制作、会社の上司と部下のW板挟みにされるのが仕事。
主にイベント関係をやっているけど、この10年間あまりいいことはなかったなー。
おじさん達は何かあれば、万博の月の石があればなーっていうけど、
それだけ集客を集めるモノはもう21世紀以降はないんじゃないかなって思っている。
たまに思うことがあるのは、高校の同級生のこと。
オレのいっていた高校は地方の進学校だったけど、友人が進学せずにNTTに就職したんだよ。
まぁバブルがちょうどはじけた時とはいえ、進学しないってことを当たり前のように思っていたので非常に驚いたんだけど、
「頭があんまよくないし」って理由で働くことを希望したそう。
今から思えばその後の氷河期のことを思うと、いい選択だったよなと素直に関心する。
さて、最近は泥のような毎日を送ってきたせいで、泥から抜け出すことを忘れてしまったようだ。
残業も一月に100時間は優に超えているし、自分の時間も全くないんだけど、非モテながら結婚し、
ここまでなんとかやってきた。忙しいってことだけで、充実している日々を送った気になっているけど、
本当はもっとぐうたらしたかったんだよねーって振り返る。
そうそう、思い返せば、卒業文集の寄せ書きに「楽して生きたい」って書いてから、
辛い人生が始まった気がするな。
あの時に戻れるなら、せめて「苦しまずに生きたい」って書き直しとこ。
http://anond.hatelabo.jp/20080623033204
の記事を書いた増田です。
飲んだ後のテンションで書いていたことを差し引いてもしょっぱいものを書いてしまい少々反省しております。
意外と様々なコメントを頂き、
一つ一つ読みながら現在自分の気持ちを整理しております。
腹を割って話し合える友として意識していた人に
「妬ましい」だとか「羨ましい」だとか恨み辛みをぶつけられてまいっているのが現状です。
たぶんこういうわだかまりは人として成長できれば解決する問題なのでしょうが、
身の回りを見渡しても、
気持ちの面で【晴れやか組】と【妬み組】に別れており、
交友関係の外でも何かと問題になっているようなことを耳にします。
内定先が優良だのブラックだの、内定すらもらえないなど、そんな話ばかりです。
社会に出ればそれこそ見下し見下されのカーストに組み込まれるのだろうと思うとかなり辛いところです。
その点で
http://diary.lylyco.com/2008/06/post_101.html
で指摘された点についてはごもっとも。
ただ
件の友人氏は雇われではない人生を模索中なのかもしれないし、恥ずかしくていえないだけで、実はコツコツと傑作小説を執筆中なのかもしれない。或いは、何か積極的に活動できない深刻な事情がある可能性だってあるだろう。
これだったらどれだけいいだろうと思います。
件の友人だけでなく、その他の知り合いで内定が決まらない友人らの「やりたいことがみつからない」というのは相手にするのがかなり疲れています。
彼らは一様に「お前はやりたいことあったの?」と聞いてきます。
ただ将来の自分と家族が幸せに暮らしていけるだけの糧を得る手段として仕事を探した私には元より「やりたいこと」などなく、
他の仕事より少しだけその仕事がおもしろそうでやっていけると思ったから志望しただけなのです。
彼らのように記者になりたいだとか、クリエイティブな仕事がしたいなどという高い志は無く、
ほどほどに忙しく、おまんまが食べていける職業ならなんでもよかったのです。
それがやはり私の心には刺さってしまいます。
上を見れば果てしなく、下を見れば果てしないことは今までの受験戦争といわれる流れの中でも重々承知しておりますが、
中で安穏としたい自分が下を見下しかねないということや、
いやでも内定先のランクを比べてくる周囲など、ネガティブなものがまわりに多く存在することに気付いてしまったのです。
もっとポジティブに生きたい。痛切にそう思います。
いろいろありがとう。神戸のナンバースクールの話題は勉強になりました。
# 西播(揖龍)学区だった故に西高・東高に行けなかった私なので、それは分かる。
もしかして、さっきの男子校行ってた人もあなたですか?
あんまり書くと身元が特定されるけど、自分は、
公立小→中学受験で失敗→公立中→高専電気(事実上男子校)→大学工学系→大学院工学系
という、逃げれなかったクチです。
あと、ずっと事実上の男子校に居たから、男女別学の良さも欠点も自分なりに分かってるつもり。
そういうことがあるからゆとり教育には未だに否定的。受験戦争なんていうけど、公立がダメだから私学に行かなきゃいけないのに。
ゆとり全快で小・中と遊び、高専フリーダムでゆとりまくって、いま非常に苦労しています。
勉強できるときに勉強せにゃいかんし、いい人脈といい人間関係は、いい環境の下でこそ出会えると思う。
学歴論争には巻き込まれたくないし議論するつもりはないけど、
ああそういうことか。私立神戸一高ってのは知らなかった。最近改名したみたいね。
ぐぐったところ、
旧制中学 | 新制高校 |
---|---|
神戸一中 | 神戸高校 |
神戸二中 | 兵庫高校 |
神戸三中 | 長田高校 |
神戸四中 | 星陵高校 |
らしいね。だからこれが事実上のナンバースクール。現在のブランドは数字の順番通りじゃないけどね。
姫路西高は「6郡組合立姫路中学校」ってのが元らしくて、ナンバースクールじゃないみたいね。
# 西播(揖龍)学区だった故に西高・東高に行けなかった私なので、それは分かる。
俺は西宮市民だったので神戸の旧ナンバースクールを受験できないから中学受験をする羽目になりました。そういうことがあるからゆとり教育には未だに否定的。受験戦争なんていうけど、公立がダメだから私学に行かなきゃいけないのに。
あのなぁ、83年生まれってのはなあ、
バブル絶頂期に幼少期を過ごし、
しかし自足歩行が板につくころにはバブルがはじけ、
ゆとり教育云々のニュースを尻目に古式ゆかしい受験戦争を戦って、
やっと入った大学では先輩たちの「昔はこうじゃなかった」という言葉を耳にたこができるほど聴き、
実際は氷河期ほどじゃなかったけどコミュニケーションがどうのこうのとか新奇な指標を持ち出されて閉口し、
やっと入った会社では団塊の世代を目の敵にしてたおっさん(今や大量退職で天下握って調子に乗ってる)にこき使われてる、
っていうまじで悲しい世代なんだよ。ちなみにいじましく過した青年期は通称「失われた10年」とか呼ばれる期間な。
わかるか?
おれたちはバブルは知ってるけどバブルの楽しさは知らないんだよ(ここら辺の世代の感覚がわからない。初期の村上春樹にぴんとこない。
社会を意識しだしたときにはもうすでにソ連は崩壊してたんだよ(冷戦とか共産とか資本主義とか、知ってるけどリアリティーはない。
おにゃんこクラブなんて見たことないんだよ(終わった直後だよ女性を意識しだしたのは。よくわからんわー。
八時だよ全員集合も見たことない(ギリギリ記憶にないね。パロディーからオリジナルを知ったよ。
モー娘に冷めるんだよ(個人的にね。でももうちょっと早く始まってれば、熱狂できたのに。
初めて見るものがすべて「懐かしい」って言われてたんだよ(ガンダムも仮面ライダーもウルトラマンも、続編や再放送やレンタルビデオで見たよ。で、それが「なつかしの」なんてお題で特集されるの。わかる?この感覚)
「ゆとり」じゃないんだよ。(確か1つか2つ下の人たちからだよね)。
なんかねー、「あ、人生始まった」って時期に限って、何かが終わっていくの。冷戦も、バブルも、冷戦後の短い平和も、いろんな文化も。
で、そういうのを、団塊の世代とか団塊ジュニアの世代とか新人類世代とかシラケ世代とかバブル世代とか氷河期世代とかの人が、昔はあのころはそういえば、って嘆いたり言祝いだりしていた(る)の。
で、もう流石にもう世代とか言う言葉は使わねーだろ鬱陶しいしーなんて思ってたら、「ゆとり世代」の登場ね。
旧来のよろしくない教育を改め新たなよろしい教育を。なんてことを、その時期まさに旧来の教育を受けていた人たちはちゃんと聞いていたわけだけど、まあこれは逆恨みになるから詳しくは言わないことにする。まあ、ちょっと白けたねー、とは、言っておく。
色んな「世代」があるけど、なんかどの「世代」にもはまらないなー、って世代。それが83年あたりの世代だと思う。もしかしたらこの先「サカキバラ世代」と言われる様になるかもしれないけど、「世代って言われてもなぁ…」って感覚で聞き流すと思うな、自分は。
まあこんな感じで。何も言いたいことはないけど、「83年」に釣られて書きなぐってみた。
レッテル社会といわれる現代では、より安定した生活を送るためには有名校を卒業して大(だい)企(き)業(ぎょう)や官公庁(かんこうちょう)に入り、重要ポストにつくことが幸福の要件と考えている人があります。
これについて二点から考えてみましょう。
第一の点は、はたして社会的な地位につくことが幸福の条件なのか、ということです。
最近、四十代、五十代の、いわば社会的に重要な地位にある年代のエリートが、仕事上の行きづまりや人間関係の悩みによってノイローゼになったり、自殺に走るケースが頻繁(ひんぱん)に起こっています。
現代の熾烈(しれつ)な競争社会の中で責任のある地位につくことは、それだけ大きな負担(ふたん)となり、身心ともに苦労も多くなることは当然です。
ではなぜ人々は苦労の多い地位を望(のぞ)むのでしょうか。その理由は、ひとつには人に負けたくない、人の上に立ちたいという本能的な願望(がんぼう)であり、もうひとつには地位が向上すれば経済的に豊かになる、周囲から敬(うやま)われることなどが挙(あ)げられると思います。
もし願いどおりの地位についたとしても、それに適合(てきごう)しない性格であったり、負担に堪(た)える人間的な能力がなければ、その人は苦痛(くつう)の毎日を送ることになるのです。
第二の点は、学歴(がくれき)至(し)上(じょう)主義(しゅぎ)がもたらす弊害(へいがい)と不幸がいかに大きいか、ということです。
たしかに一流大学を卒業した人は、それだけ幼(おさな)いころから勉学に励(はげ)んできた努力によって、能力的に優(すぐ)れています。深い学識と幅(はば)広い教養による英知(えいち)はいずこの社会や職場にあっても、知的(ちてき)資源(しげん)、人的(じんてき)資材(しざい)として重要視されることは当然でしょう。
しかし誰もが一流校には入(はい)れるわけではなく、ごく一にぎりの人だけが許(ゆる)される狭(せま)き門を目指(めざ)して、過酷(かこく)な受験戦争がくり広げられ、子供は友情を育(はぐく)むどころか、同級生を敵視(てきし)する状態(じょうたい)に追いやられています。
毎年受験シーズンになると受験に失敗して自殺するという悲惨(ひさん)な事件が相(あい)つぎますが、幼いころから親や先生の「有名校に入る人は優秀、入れない人は敗北者(はいぼくしゃ)」という言葉を聞いて育ったならば、受験の失敗がそのまま人生の破滅(はめつ)になると考えるのは当然です。
まさに誤(あやま)った学歴偏重(へんちょう)の風潮(ふうちょう)が生む不幸の一面であり、その風潮の中で育った子供は、またさらに学歴偏重の人生観を増幅(ぞうふく)していくのです。
このような教育制度や教育行政(ぎょうせい)のゆがみは教育の部分だけをとり上げて改革(かいかく)しようとしても根本的な解決にはなりません。
なぜならば、教育問題は時代や社会機構(きこう)全体と深く関(かか)わっており、さらには人生観・価値(かち)観(かん)ともつながっている事柄(ことがら)だからです。
釈尊は現代を予言して、末法は五(ご)濁(じょく)の時代であると喝破(かっぱ)されています。五濁とは時代が濁(にご)り、社会が乱(みだ)れ、人間の生命も思想も狂(くる)うことを指(さ)しており、その原因は誤った宗教にあると説いています。
したがって健全な人生観や社会思想は、ひとりひとりが正しい宗教に帰依(きえ)し、しかも正法が社会に広く深く定着(ていちゃく)したときに醸成(じょうせい)されるのであり、真実の幸福は表面的な学歴や肩書きによってもたらされるのではなく、真実の仏法を信仰し修行することによってもたらされるのです。
以上の二点だけを取り上げてみても、学歴や社会的地位がそのまま個人の幸福の絶対的条件になるわけでもなく、社会の福祉(ふくし)につながるわけでもないことがわかるでしょう。
真実の幸福とは、いかなる負担や困難をも悠々(ゆうゆう)と解決して乗り越えていくところにあります。
個々の人間に生命力を与え、勇気と希望と智慧(ちえ)をもたらす道は、真実にして最勝の仏法を信仰し修行することに尽(つ)きるのです。
身につけた学識(がくしき)と教養、そして大きな責任をもつ社会的な地位、それらをより充実したものとし、より価値あるものとするために、正しい信仰が絶対に必要なことを知るべきです。
東早慶卒だったら一生遊んで暮らせるが、それ以外は彼らを食わせるために一生奴隷で暮らすのが日本社会の鉄のルール。一般庶民の目には見えない天国のような世界ってものがあるんです。これは、若い頃に過酷な受験戦争を勝ち抜いた一部の勝者に与えられる当然の特権。何もしないで遊んでいた低学歴が高学歴と同等ということがあるはずがないのだから。常識で考えれば分かるでしょ?
本当なら暴動がおきてもいいようなことが日本社会の裏側では行われているが、庶民は馬鹿なので大人しく従っている。ニュースで官僚や政治家を叩くふりをしてガス抜きしとくだけで庶民は大人しく働くのだから。高学歴たちは、日本人が馬鹿で本当に良かったと思っているよ。
官僚が薄給激務であるとか、大企業にとってお客様は神様だなんてね、ウソに決まってるでしょ。テレビの言うことを真に受けている奴とか馬鹿にも程があるよ。よく言うでしょう?「世間でよく言われていることはあてにならない」とね。少しは頭を使いましょうよ。いい年をした世の親がこぞってわが子を一流大学にやろうとする意味が理解できないのかな。
そもそもゆとり教育がなんなのかって話しはWikipediaによくまとまっている。ゆとり乙とか言うやつは背景ぐらいつかんでるんだろうか。
1996年7月の第15期中央教育審議会第1次答申において、1970??80年代の団塊ジュニア世代頃の詰め込み教育、管理教育、受験戦争によって発生した校内暴力、いじめ、落ちこぼれ、勉強に追われる学生などにより、子供達の生活の現状にゆとりが無いことを指摘。その上でゆとりを持った教育環境においてゆとりのある教育活動が大切であり、仲間や教師と楽しく学びあいを行い、生きる力を身につけていくことが重要であると指摘した。この提言を受けて週5日制など「ゆとりの教育」が始まったとされている。具体的には週5日制に移行した2002年4月からいわゆる「ゆとり教育」が始まった。
そもそも校内暴力、いじめ、落ちこぼれ、勉強に追われる学生に対する対策として導入されたのがゆとり教育。その結果現在の教育現場はどうなったか。学級崩壊、加速するいじめ、ひろがる格差。電車に乗って遠くの塾に行き、必死で勉強をする小中学生。これが現実。
当然開始当初から学力低下への懸念はあった。勉強の時間が減るんだから、全体的に見てテストの点数が下がるのは当たり前だと思う。しかし、前述のような状況に対する非難ではなく、学力低下に対する非難をうけて方針転換する文科省はどうかしてると言わざるを得ない。非難する方もする方だが、される方もされる方だ。迷走する文科省のおかげでさらに現場は混乱するのだろう。
もうひとつ、今回各所で話題になっているPISAだが、文部科学省のページ((Home > 公表資料 > 統計情報 > PISA(OECD生徒の学習到達度調査)2003年調査))によるとこういうテスト。
【調査の内容】より一部抜粋
PISA調査では、義務教育修了段階の15歳児が持っている知識や技能を、実生活の様々な場面で直面する課題にどの程度活用できるかどうかを評価。
これって「楽しく学びあいを行い、生きる力を身につけて」いる学生ならきちんと答えられるはずではないだろうか。
ネット社会では「ゆとり」だから悪いと盲目的に非難される節があるが、何が悪かったのかを早急に考えるべきだ。もっと言うなら、ゆとり教育を受けたものを非難するぐらいなら、文科省のやりくちや、教師の怠慢のほうがよほど非難されるべきだ。
何一つ不自由なく育ち、一度の受験戦争も経験せず、ひたすらに楽しい学生時代を送り、育ててくれた両親へは感謝の思いを抱き、働かせてくれている会社には恩を感じており、仕事は楽しく、幸せたれと願う友人がおり、犬はかわいく、秋風にすら趣を感じ、明るく穏やかな日々の中私は生きている。
他人の目には私は上記のような人間のように映るだろう。
むかつきますか。死ねばいいと思いますか。
だが私はあなたに負けず劣らず心が腐敗しきっており、みんな死ねと思っている。
みんな死ぬのは気の毒だから自分が早く死にたいとも思っている。
私は自分の幸福を幸福と認識する心を持たない。ゆえに永遠に不幸であり続ける。
私ははしごたんのようにブクマでかばわれたこともない。私が増田に書き散らすことは私にとっていくら切実であっても他増田にとってはノイズ以外のなにものでもない。見放されている。放置されている。ゴミといっしょだ。存在を認めてももらえない。
これまで色んなことを否定してきたなぁと思う。
学生の頃は、親、学校、教師、学歴社会、受験戦争あたりを否定してたかなぁ。
就職してからは更に、上司、会社、年功序列、政治家、国あたりをやっぱり否定してたかなぁ。
そんなあからさまに否定した、というワケじゃなくって、否定と言うよりもむしろ肯定しないってスタンスだったかなぁ。
なんで間違ったことが正されないんだろう、みたいな、ある種の正義感があって、それに疑問を感じることは無かったような気がするなぁ。
とにかく、基本的に否定的だった。
当時はそれを否定的って思ってたわけじゃなくって、正しい意見だって思ってた。
でも、今は違う。
会社で部下も出来て、結婚して、子供も出来た今は、そんなこと言わなくなった。と言うか言えなくなった。
立場が出来たってことかなぁ。
いつの間にか、部下や妻や子供のために、会社や家庭や社会(国と言ってもいいし、未来って言ってもいいね)を作っていかなきゃなんなくなってたんだよね。ホントいつの間にかさ。
自分が作るものを否定してもしょうがないもんね。
って言うか自分が作ったものを否定するのっておかしいもんねぇ。
どんだけ他人事なのってことだもんねぇ?
こういう匿名のところで決め付けた書き込みや否定的な書き込み多いってのは、すんごく良くわかるんだよね。自分がそうだったから。
で、そういう書き込みを見て自分が言いたいのは『慌てる必要なんて全然無いんだよ』ってこと。
なぜなら、時が来れば、それだけでわかることだから。
時が来れば、ただそれだけで殆どのことがわかるんだ。本当だよ。
この世界はそういうふうに出来ているみたいなんだよ。
なんだかすばらしいよね。
あなたの中で、「勉強して大学行く」という目標よりも「予備校で良好な人間関係を築く」という目標の方がデカくなってることが問題。
前者の目標を達成するためなら、いっそのこと受験が終わるまで人間関係を放棄してみてはどうか?
"人間関係が築けない"ことと"あなたが受験勉強をしない"ことの因果関係は何も無い。
そもそも私は予備校生が築く人間関係にメリットを感じないんだけど。
予備校は授業を受けるためだけに存在すればいいから、それ以外の時間は1人で自習する時間に費やせばよい。
予備校に行くのが嫌で勉強へのモチベーションを下げるなら、図書館の自習室で勉強すればよい。
世の宅浪してる大勢の浪人生も1人で頑張っている。1年間、親との少しの会話だけで生活しても何の問題も無い。
「なぁーに、かえって勉強に集中できる」と考えて頑張ってみては?
「予備校で馴れ合う奴なんて、大した大学入れない」と周りを見限ってみては?
受験が終わるまでは周りの人間みんな敵。戦う武器は自分の『学力』のみ。
親に「そんなに勉強して体大丈夫なの?もう今日は勉強やめたら?」と言わせるぐらい能動的に勉強し続けるべし。
http://anond.hatelabo.jp/20070318224345
父親は工業高校卒で、母親は中卒。貧乏だけど、いい家でした。すんごい田舎で、感覚が一世代くらい遅れてて、『国家の品格』に感化されちゃうような人が絶賛しそうな価値観で、まだ子供だった自分には心地よかった。
大学に行く人生なんて想定していなかった。中学を出るときには、父親の影響で工業高校を志望した。担任にせめて工業高専に行けと言われた。そんなもんかと思って行った。高専は、授業料の免除や奨学金が充実していたので。最終学年になって、就職担当のところに行ったら、就職先を紹介してもらえなかった。大学に編入しろと言われた。お金の工面なども含めて熱心だったので、つい熱意にほだされて大学に行ってしまった。猫も杓子も貧乏人も、なんでも大学に送り込まれる時代なんだなと思った。団塊ジュニアの一番受験生の多い世代で、受験戦争が過熱した大学バブル時代だった。
大学にはそんなお節介はいなかったので無事就職出来た。その結果が http://anond.hatelabo.jp/20070314010106 だった。辞めて本人は清々したが、下手に有名な大学を出てしまったことで田舎に戻っても浮く変なインテリの根無し草になってしまった。お節介な人達は正しかったのだろうか。誰もが上を目指すことに向いているとは限らない。