はてなキーワード: 中二病とは
http://anond.hatelabo.jp/20070313182303
なるほど。
相対化に嵌る人にその本を、そういう形で勧めるのは一つの手かも知れない。
軽蔑の連鎖がどういうものかは、ただ経験するしかない。
普通の人は実際にその果てまで付き合って実感させてやる覚悟なんてないから、中二病関連のエントリーに触れたがらない。
……と思ったらやっぱり伝わってないようだ。
まあ頑張れ。
リンク先にあるレビューに目を通すくらいしてもバチは当たらないと思うんだけどなあ。なんでそんなに攻撃的なん?なんかのロールプレイ?
一応説明するけど、なぜhttp://anond.hatelabo.jp/20070313173100で本のリンクを張ったのか。
この本は、若者が幼児的で無根拠な「仮想的有能感」の下に他人を断罪する――「理由を述べろ」と言っても論理的に述べられないにも関わらず「軽蔑」などという言葉を吐くように――理由を分析している本です。読んでみれば、あなたの「中二病」的な発想のパターンだけではなく、「軽蔑しちゃうものはしょうがない」とわざわざパブリックな場に書き散らかしてしまうという行動のパターンも極めて凡庸、ありがち、みっともないものであることがよくわかるでしょう。
そしてさらに重要なのが、この本を読むと、この作者の批判がもっともでありながら、この作者自身も「他人を見下す」思考法の陥穽に落ち込んでいることがよくわかることなのです。まあ、ぶっちゃけていえば「バカっていった方がバカ」って奴ですね。
以上の二点から、二重の意味で(1.自分の物の見方を相対化する、2。そして相対化する身振り自体を相対化する)読むことをお薦めいたします。
そんなところで。
10代の頃は、中学受験に勝つためなんて参考書読んだり、日能研のテキスト読んで、受験には、「考える力! 論理力! 国語力!」が重要なんて言葉ばっかに触れると、そうか論理の勉強しないと、数学や論説文読解の勉強しないとって思ってる。
同世代の中学生ってもんになんとなく反発して、ブルーハーツ聞いて「この世の中なんて腐ってる」なんてこと言ってる奴らはバカなんじゃないの? なんてこと思ってる。
浜崎あゆみを聞いて、あたしは孤独だなぁ、なんてヒロインきどってみたりする女は、『DEEP LOVE』でも読んで安い感動してればいいんじゃないかなとシニカル気取ってる。
でも大学生になってセックスへの未知への恐怖をこじらせて、あぁもうすぐ卒業ねって、社会に出ること考え出すと、DQNとの会話ってのも現実にしなきゃなんないから大変だなって気づき始めて、10代の頃の棘が擦り切れてくる。
一般人との話題を合わせるために、なんてR25読んだり、日刊ゲンダイ読んで、社会人には、「ノミニケーション! 生きる力! 人間力!」が重要なんて言葉ばっかに触れると、そうか飲み方の勉強しないと、人間性の勉強しないとって思えてくる。でもさぁそんな自分に違和感感じることもあるんだよね。なんか大切なもん忘れてないかって。理性をさ。屈折をさ。
10代の頃は、今から考えると中二病に侵されて、同世代のことバカにして、マスコミのことバカにして、ほんま厨房なことしてたなって思うけど、なんかこのままじゃ嫌とかなんか自分の手で変えてやろうとか言うあの先輩死ねよ、人間力では負け組ですが何か? みたいな屈折があったと思う。
厨房くさいけど、そういう屈折忘れちゃいけないと思うんだね。大人なって社会人なっても、みんなの聞いてる音楽はとりあえず貶したり、文学って言葉に反発したり、恋愛の話題とか何言ってるのか判らなかったり、自分に絶望したり、情熱じゃない屈折、冷笑の声ってもんに耳傾け続けられる人間になりたいってほんと思うのさ。
中学のとき夏休みの宿題に短歌があって、ちょうどそのとき自由律俳句かっこいいと思っていた私は、何をとち狂ったか八八七八五の「短歌」を出し、あろうことかそれが市のコンクールで入選に選ばれてしまったものだから、妙に粋がっていたのだが、後に思うのは、やはりあれはだめだったなと。
少し前にも「『型破り』と『形無し』」「守破離」の話が出ていたが、守を修め破を成して初めて離に至るものであり、その過程をすっ飛ばした自分の自由律もどきなど、型を成す努力を放棄した怠慢を、粋と履き違えた滑稽以外の何者でもなかったのだ。
NHKのラジオ文芸選評を聞いていても、字余り、字足らず、都々逸での三四・四三・三四・五破りなど、投稿者の「型破り」を選者が型に戻すだけで、内容は同じでありながら驚くほど趣深いものが生まれたりする。
型はただ決まりとしてそこにあるのではない。先人たちの連綿たる工夫の粋を極めた最も美しい形、それが型なのだ。
ところで冒頭の、自由律に影響され「形無し」の短歌を作っては粋がる話、これはいわゆる「中二病」の典型的な症状なのだろうか。
オルテガ(DQ3のひとじゃないよ)いわく、大衆的なものを嫌悪する大衆が存在するようになると「大衆社会化ここに極まれり」ってな具合らしいですが、はてな村を見学して回るとつくづくそう思いますね。自称「リベラル」も自称「保守」も、そろいもそろって「オイラちゃん(アタシちゃん)は愚昧なる大衆ちゃんとは違うでゴンス」と吠えている割に、なんかの拍子に漏れる本音がびっくりするくらい下衆で「どうみても大衆です本当にありがとうございました」みたいな具合だったりしちゃったりなんかしちゃったりなんかして。げひひ。
で。
そういう「大衆批判するやつこそ大衆的だ」みたいな思考を学習して中二病(大衆批判)から高二病(大衆批判する大衆を批判)に移行したやつもはてなーにはたくさんいるんだけどさ、それもまた痛いというか、高二病のやつは「大衆批判する大衆を批判」して「批判など思いつきもしない大衆」を持ち上げるんだけど(cf.吉本"だいたいでいいじゃない"隆明「大衆の原像」)、でもそうやって「大衆」を対象化している時点で高二病さんも「大衆」ではなく、ただ「大衆批判する大衆」の間のパワーゲームに「大衆」という概念を使っているだけなわけで、本当に「大衆批判する大衆」の存在が害悪だとかなんだとか思うんならまず自分が積極的に沈黙しろや!!カチコミいれんどワレ!!
で。で。
この文章は「中途半端に前衛気取りのブロガーどもめ、お前らいますぐ回線切って首吊れ!」とか主張しようっていうもんじゃねーんですぉ。戦後民主主義体制の中進行した消費社会化の完成に加えて、インターネッツの発展(モチオ!)によってますます中途半端に「知」にアクセスしやすくなったこの日本において、本来ならば目覚めてもどうしようもないような社会的な地位に置かれているにもかかわらず、内面だけはいっちょまえに貴族や知識人のようになってしまった悲劇的な存在は、この同一の社会階層内での流動性は極めて高く、階層間の上下移動の流動性は極めて低い社会でどうやって生きていけばいいんでしょうか、とかなんとか相談がしたいんですにょ。「NPOにでも入れ」とか「恋でもしろ」とか、その手の「終わり無き日常をイ??」系のおもんない回答以外でシクヨロ。諦めようとしてもどこまでも諦められないから悩んでるのに「諦めろ」とか返すやつはコミュニケーションスキルの低いお馬鹿タン、すなわち「ダメ萌えキャラ」ですよ(←「コミュニケーションスキルが低い」とひとこと書いておくとはてなのウザいひとたち(例:白熊)は押し黙るから便利だと聞いた)。
で、ネット上の知り合いにもリアルの知り合いにも薬を飲んでいる人がけっこういる(そういうコミュニティにいる)。
そういう状況下でいじめられたので、これはおれの精神は参るだろう、そして鬱病になるだろうとばっかり思っていた。こういう言い方はアレだが、その日を待ち望んでいたすらいた。(周りに山ほどいるんだから変な話だが)それで特別というか、ひとかどの人間になれるような気がした。そしてあげく引きこもりになるんだ!みたいな。たちの悪い中二病である。
ところが、どれだけつらい思いをして家に帰っても一晩寝れば治る。休日は家にいるのが嫌で外出ばかりしている(まあ、行き先は漫画喫茶なのだが)。それで何年かして気付いた。おれ、精神はわりと頑丈だ。それならそれで健全にすごせばいいのだが長年患ってきた非コミュ体質でコミュニケーション能力は絶望的だ。ひきこもりにも健全な人にもなれません。どうすれば。
誰が、「表現の問題」といいましたか?「思考の問題」で間違っていないよ。
中二病(ちゅうにびょう)とは、タレント・伊集院光がラジオ番組で提唱した、思春期の少年に見られる特徴的な行動例のことである。
子供と大人の過渡期、思春期特有の思想・行動・価値観の総称、成長過程における一種の熱病に似た「症状」を指す。その「発症」時期が日本の教育制度において中学2年生前後となることから、この名前が付けられた。もちろん医学的に認められた正式な病気ではなく、後に詳述するような特徴を示した者の行動に対する俗称である。
ああ、悲しいかな、そんなあなたも高2脳でございますことよ。
http://d.hatena.ne.jp/kazenotori/20061115/1163576101
http://d.hatena.ne.jp/kazenotori/20070127/1169824810
↑この辺を読んで書きたくなったので書く。読んでない作品ばっかりなのにかなり適当言った。多分いろいろ間違ってるけど勘弁。
・ラノベ的なものはあるがあくまでティーンズ向けのジャンル小説
・ライトなSF、スペオペ、軽めのファンタジー、TRPGの小説版、アニメの脚本家が書いてる小説、ノベライズ、10代向けの伝奇小説、あと海外の翻訳モノ
・少女小説は、つーかコバルトはすでにかなり歴史があるので安定。恐ろしく軽い文体の恋愛・ミステリ・ファンタジー・伝奇・ホラー
・スレイヤーズ登場
・スレとあとフォーチュンクエストあたりの大ヒットが10代向けの文庫本レーベル群全体に影響を与える。逆に考えるとスレ・フォーチュンが当時のラノベの中核であり、また最初の純ライトノベルと言える
・スレイヤーズフォロアーがジャンル化。一番成功したのがオーフェン。その他ゴクドーとかはみだしバスターズとか捨てプリとかリアルバウトハイスクールとか?内容つーかスタイルと売られ方に特徴がある気が
・五代ゆうの活躍の余地がなくなる
・ど真ん中にいるのがデル戦、それに冴木忍とか前田珠子とか十二国記とか風の大陸とか
・あかほりさとる大活躍。非常にオタ向け。まだラノベの中核とは言えない
・この時点ではまだ“ライトなジャンル小説”も生き残ってる。全体としてラノベと言うよりヤングアダルト
・なんか世相が暗い。あとエヴァ
・富士見の勢いはいまだ衰えず
・コバルトも相変わらず安定
・電撃に古橋秀之登場。影響を受けた電撃の作家が俺設定バリバリになる。異能力モノがはやるきっかけにも?
・結局古橋自身は流行らなかったけどな。古橋秀之―成田良悟ラインを電撃硬派と呼びたい(オレが
・学園モノが流行るきっかけに
・あかほりラインをまぶらほ・阿智太郎が継承。女の子いっぱいコメディの地位が徐々に上昇し始める。
・ラノベと言う名称が成立
・ラノベ暗黒期
・富士見がフルメタあたりを除いて失速、電撃はまだ十分な力を持っていない
・ブギ+あかほりみたいな作品が多い。それかあかほりみたいな作品。あるいはキノっぽいの。
・ただ、ここで一度途切れたことで、逆に00年代後半に入って新鮮に受け止められるように
・スーパーファンタジー文庫とかプランニングハウスのファンタジーの森とか富士見のミニ文庫とか角川のおっきい奴とかが撃沈。徳間の中途半端な大きさの奴もほとんど出なくなる
・富士見ミステリー文庫。この段階ではまだいまいちウケない
・この時期ラノベってジャンルがどんどん自閉的になっていった気がすんだけど。どうよ?
・ファウスト系のひとが登場、注目を集める
・当時のラノベの中心であるところの上遠野が、ノベルスで小説を出す。電撃からの越境の発端?
・ラノベの評論家の人が増える。売上げは下がっても存在感はUP
・ハリポタ旋風
・電撃最強伝説
・おかげでベテランに活躍の余地が。新装版とか数年ぶりの新刊とかも出る
・以前からコバルトからの越境者はちょろちょろいたけど、今度は角川グループからの一般文芸への越境者が続出
・リアルフィクションて何?
・電撃の絵のついてないラノベがちょっと話題に
・フォア文庫とか青い鳥文庫とかの表紙のラノベ度がいつの間にかずいぶん上がってる。そりゃまあ昔からマンガ絵な表紙は多かったけどさ。ラノベがオタ・中二病中高生に走りすぎて失った、ライトかつまっとうな物語が多い。
・狼と香辛料登場。識者のひとから注目を集める
・ここのところラノベと言うジャンル全体が大きく、力強くなってってる印象
・『ミミズクと夜の王』ってどんな話だ?
・支倉凍砂の次回作は?(気が早い
・出せよ!買うから!あと龍盤七朝とタツモリの続きも!
・成田良悟とか須賀しのぶもなんかこう、もうちょっと面白いことやれそうじゃね?
・大西科学が正しいのは分かるけど売れるかって言うと微妙な気が。この辺の路線を意識した上で、またひとつ違うものを作れる人が出ないものか。大楽絢太とかは?
・電撃に森見登美彦引っ張ってこいよ。ハードカバーで。ええ?ムリ?じゃあしょうがないな……
・その他越境者の先生方、ええとあれだ、頑張れ!
http://anond.hatelabo.jp/20070127091904
サービスとか気配りとか言うのは、
相手にこちらの努力をまったく悟られずに行うものだとかなんとか
いつも思うんだが、こういう考え方ってツンデレに似てる。
好意を相手の前では明らかにせずに持っているのが萌える、という。
でもでも世のツンデレは、神の立場の視聴者がデレ部もばっちり見通して萌えてくれる(=評価される)わけだが、実際の世の中は違う。
完全にデレ部分を隠し通すのに成功してしまっては、ただの嫌な奴である。
それと同様、完全に努力や気遣いを押し隠してしまっては評価されない。
『平気な顔で努力をしててステキ!』というのは、実際は誰かしら視聴者みたいな『見る目のある人』がいて初めてそう言われるもの。
例えばスポーツ漫画なんかで、『皆が帰った後に一人残って練習しているあまり上手くない部員を監督が物陰から見ていてレギュラーに』とか良くあるけど、監督に見られてなかったら結局ただの下手な部員にすぎないのである。
評価を求めるのなら、最初から堂々と気遣いをするか、さりげない振りをして隠れた努力を見せると良さげ。
後者は、さりげなさが下手で観客の目を意識してるのがバレると『これみよがし』とか『中二病』とか言われて逆効果だが。
そもそも、本気でホスピタリティを追求するなら他人の評価なんて求めるもんじゃない気もするっすね。
評価なんていう対価を求めず、無償で何かしらをするのが良い。
※追記)
あー、もしかしてツンデレって『第三者のいるとこではツンツン、二人っきりだとデレデレ』のことなのかな。
だとしたらツンデレの比喩はおかしいことになるが。
http://anond.hatelabo.jp/20070117155554
中二病(だか暗黒エネルギーだか)的な素材ってのは、手に入りやすい食材なわけであるな。
で、金(発想力とか)のない料理人(クリエイター)の卵が持っているのは、殆どがそういう素材だ。
別にそれはそれで当然であり、中二病素材をこねくり回して料理の腕を鍛え、金を溜め、いずれは中二病的でない素材と中二病的な素材を上手く組み合わせて上手く料理できる立派な料理人になる、というのが妥当な成長なのだろう。
もちろん、中二病素材しか持っていない状態からいきなり超上手い料理を作れる人もいる。
しかしここで、中二病食材を使っているだけで馬鹿にされる・見下される・見透かされるという風潮がある。
これでは、中二病食材しか持たない料理人の卵たちは、自分は不味い料理しか作れないのだ、料理の才能はないのだ、手を出しても馬鹿にされるだけだ、と感じ、料理を志さなくなってしまう。それは、とても悲しいことだ。
「食材を誇(誹)らず、料理を誇(誹)るべし」は非常に正しいが、それに料理人の卵たちが気付かず自ら道を断ってしまうのは見過ごせない。
……ということをリンク先の人は言ってるんだと思うが。あと概ね俺も。
自分から「食材を誇(誹)らず、料理を誇(誹)るべし」「中二病と言われようと今ある食材で料理するしかない」に気付けたりとか、「それでも料理をしたいんだ」と思えるような人間だけが料理人になればいい、という考え方もあるのだろう。
でもそれは、料理(創作)に対する考え方の違いな気がするので、どうとも言えない。
とりあえず俺は、料理を嗜む人も創作を嗜む人も、下手の横好きでも何でもいいから増えればいいと思う。特に創作は。何故なら俺も創作をやりたいけど中二病って貶されるのが怖くてすぐにくじけるワナビ未満の人間だから。
ふと思い出したが、羽生名人だったかの、「情報化時代で簡単にトップの人間が見えてしまうため、御山の大将になれずに物事を努力するモチベーションを保ちづらくなっている」とかいう話にちょっと似てるかも。
※追記)
羽生名人の話は俺の勘違いだったっぽ。はてブでツッコミ受けた。あと名人じゃないとかナントカ。将棋って名人という称号があるのか。
たとえば料理が上手な人が、ウィスキーを使ってなにか料理を作ったとする。隠し味程度に使えば、食べた人は「美味しいなあ、変わった風味だな」としか思わないだろうし、ある程度の量を大胆に使えば「あ、なにか癖のあるお酒を巧く使っているな」と思ってくれるだろう。超絶に料理上手な人がたっぷりと使えば「すげえ、ウィスキー使うとこんなに美味しい料理が作れるのか!」と感動してくれるだろう。
さて、今度は料理が下手な人がウィスキーを使って料理したとしよう。使用量が少なければ、食べた人はただ「不味い」としか思わないだろうし、量が多ければ「不味い上になんだこれウィスキー使いすぎ」と思うだろう。
もうおわかりかと思うが、上記のウィスキーにあたるものが、ここ最近ではすでに原義を離れて「中二病」とか「邪気眼」とか「エターナルフォースブリザード」とか呼ばれているものの正体である。
それはただの食材に過ぎない。ここで言われているようにそれ単体を重要なパッションとして誇るべきものではないし、かといってそのさらにリンク先でなされているようにそれ単体で非難すべきものでもない。大量に使えば目立つし、それが不味ければさらに悪目立ちするというごく単純な事実があるだけだ。試みに、その「痛い設定」とやらを「共産主義的思想」とか「ミリタリー蘊蓄」とかに入れ替えてみるといい。まったく同じ図式ができあがるはずだ。
二つ理由がある。一つは、「だれでも一度は考えたことがある」という共感の呼びやすさだ。邪気眼コピペはこのむずがゆく恥ずかしい共感を介して爆発的に広まった。単に「あるあるw」と笑い飛ばすギャグだったはずが、作品への非難に使われるようになった、その変節の根底には、「だれだって考えつくのだから安っぽいだろう」という認識がある。
そして理由の二つ目は一つ目から導かれる。「だれでも一度は考えたことがある」がゆえに、実際にこれを使用してなおかつ不味い作品が(ことにネット時代のこんにちでは)大量に流通しているという事実である。
だから、料理を食べずにレシピだけ見て非難したい輩はこういう愚かな帰納を行ってしまうのである。
↓
今さらこんなことを言うまでもないだろうが、だからクリエイター諸氏は安心してエターナルフォースブリザードで相手をどんどん殺していただきたい。こと娯楽に関して大衆は我々の想像よりもはるかに味がわかる。うまければ受け入れられるしまずければ拒絶されるだろう。
昼、女子高校生がスタバでコーヒー飲みながら文庫本読んでた。かわいい! このかわいいはきっと彼女のシチュエーションと属性に萌えということですか。わかりませんが。学校サボってスターバックスで文学少女してんのんか。しかもかわいい。と思ったのだけど、スターバックスは違うな。洒落すぎて逆に若干ひく。洒落すぎてというかそれっぽすぎて。それっぽいてなんだ、つうか、そんなんは結局文学少女からしたら余計なお世話なのであって、うぜえ、と思って女子高生は直ちに、気持ち悪いなどと俺を罵倒すべき。ていうか、彼女はもしかして中二病的態度によってスタバで文庫本読んでんの、とも思えてくる。コーヒー飲みながらゆっくり本読むのは幸福。しかしあなたのそれは素なのか。なんかかっこいいからやってるのか。ていうか知らない人を自分のハアハアっていう萌えのために疑って悪い気分だ。でも、本当に心から「幸福だー」と思って読んでんだったらすげーかわいい。かわいい人が幸福そうなのはなんか嬉しいのでずるい。