中学のとき夏休みの宿題に短歌があって、ちょうどそのとき自由律俳句かっこいいと思っていた私は、何をとち狂ったか八八七八五の「短歌」を出し、あろうことかそれが市のコンクールで入選に選ばれてしまったものだから、妙に粋がっていたのだが、後に思うのは、やはりあれはだめだったなと。
少し前にも「『型破り』と『形無し』」「守破離」の話が出ていたが、守を修め破を成して初めて離に至るものであり、その過程をすっ飛ばした自分の自由律もどきなど、型を成す努力を放棄した怠慢を、粋と履き違えた滑稽以外の何者でもなかったのだ。
NHKのラジオ文芸選評を聞いていても、字余り、字足らず、都々逸での三四・四三・三四・五破りなど、投稿者の「型破り」を選者が型に戻すだけで、内容は同じでありながら驚くほど趣深いものが生まれたりする。
型はただ決まりとしてそこにあるのではない。先人たちの連綿たる工夫の粋を極めた最も美しい形、それが型なのだ。
ところで冒頭の、自由律に影響され「形無し」の短歌を作っては粋がる話、これはいわゆる「中二病」の典型的な症状なのだろうか。