はてなキーワード: ファンタジーとは
テーマから外れたものはおろそかにせざるを得ない
ここについてはちょっと違っていて、テーマから外れたものを導入し辛い、になるのかな。
例えば自宅に家族を描写する場合やら、クラスメイトとの交流を描く場合、上手くやらないとラブコメなんかのアプローチはとても不自然になる。
学校内で男女がかなりの親密さ(友人風ではなく)で存在した場合の周りの反応とか想像してみれば、あの箱庭がどれだけ不自然かわかる。
ただまぁそれは、創作と言う枠の中で不自然さの度合いが、よりファンタジーに近いと言うだけで、大抵の創作物は表現テーマを優先するために矛盾や不自然さを抱え込む事になる。
そんなものにケチを付け始めるってのは、大人になるための第一段階ではなかろうか。
宇宙空間で爆発音がするのはおかしいとか、殴って相手を貫ける拳のアクチュエータってどんなテクノロジーだよとか。
成長に伴い、そうした不自然さをそれはそれで楽しめるようになってくる、だから生暖かく見守るのが吉。
多くの不登校は理由などないし選ぶもんでもない。(http://anond.hatelabo.jp/20090222023846)
1年半近く前のエントリーだけど、不登校のキーワードでひっかかってきたので読んだ。
子どもが不登校だとさ、親としてはどうしたらいいのか、ほんと悩む。
とりあえず、学校でなんかあったのか?とかいろいろ理由を探すよ。
でも、いじめられているわけでもなく、無視されているわけでもない。
結局、まあ、学校という空間が嫌いなんだなあというくらいしか、親にはわからん。
で、本人も、わからないという。
理由はわからないけど、学校に行こうとすると腹痛とかになるからさ、行けないわけよ。
無理していっても、保健室に直行して、で、やっぱり帰る、となるだけでね。
じゃ、もう学校に行かなくていいよと言えば、とりあえずおなかは痛くならないので、安泰だ。
勉強しろなんていうのは無理なんだよ。
個人塾には気休めに行ってるけど、とうてい学校で今やってるとこについてけるレベルじゃない。
担任も家まで来てくれるけど、だいたい、会いたがらないな。
別に担任が嫌いではないらしいんだけどね。
遠足の日には迎えにきてくれたおかげで、行けたって感謝してた。
ま、遠足から帰ったら寝込んで、二度とまた学校に行かなかったけどな。
不登校児の親はどうしたらいいか、答えを求めて、いろいろ情報を集めるわけよ。
で、不登校支援の団体の出している本とか、サイトとかは、どうしても目に入ってくる。
それにすがりたくもなる。
よく某不登校支援の名の下に活動している団体を中心に宣伝されている「今の教育システムが会わなかったので不登校になっている人間は不登校になったのではない、不登校を選んだのである」とか「不登校になった子は今の教育システムの型に入りきらない才能を持っている」と言った宣伝は、有り体に言って親が自己肯定するために作られた作り話か、特殊な例だけ抜き出したファンタジーだ。全く気にする必要はない。
これ、ガツンと来たよ。図星だな。図星なだけに、ますます、どうしたらいいのかわからなくなるよ。
今、子どもが学校に行っていないことを正当化する、あるいは、「行かなくていいよ」と言っている自分を正当化するのに、「学校の方が悪いんだ」という論理、これ以上都合のいいおまじないはないからさ。それを否定されちゃうと、やっぱり、理由のない堂々巡りの闇に戻っていいくことになるよな。ただ、「理由なんてない」と断言されると、「理由探しはしなくていいや」ということで安心はするよ。でも、その次なんだよなあ。
うちも、今の学校がいやなら、そうじゃない学校に行かせるべきかと思って、フリースクールとか探したんだけどさ、そういうのだって、子どもの好き嫌いがあるわけで、行きたくないものに無理に行かせたら、結局同じだろう?
見学に行っただけで、下痢して熱出して寝込んだから、やっぱり行きたくなかったんだと思って、あきらめたけどね。
いや、今、思うと、見学に行った時に会ったフリースクールの生徒や卒業生が、生き生きと明るく「選んだ」不登校を生きているように見えて、孤独感を深めたのかもしれないな。
「同じだと思っていた不登校の人たちは、実は同じではなく選んだ人たちで、自分は選んだわけじゃないから、あの人達のようにはなれない、だから僕はだめなんだ」
こういう感じだったんだろうな。だったら、行きたくなくなるのも無理はない。
でも、親としては、ただ手をこまねいているだけじゃなく、なんか、有効な手を打ちたいわけ。
でも、それが何なのかわからないから、迷路に入った気分になるんだよね。
別に、「今の学校のシステムへのアンチテーゼ」といったフリースクール理論はどうでもよくて、とにかく、引きこもらせておくよりはましな場所を求めて右往左往してしまう。
今は、学校そのものを忌避してるから、保健室登校とか、相談室登校とか、放課後登校とかをすすめられても、無理。
スクールカウンセラーも論外。カウンセラーに会うために学校に行かなくちゃならないわけだから。
ま、学校とは関係なく、独自に思春期外来のある病院を探して、そこですすめられてカウンセリングは受け始めたけど。
これも、気休めなんだよ。とにかく何かやらないと、いけないような気がしてたまらないからだよ。
カウンセリングでどうなるか?なんて何もわからないんだよ。
今、中2だが、高校には行きたいらしい。中学は行く気はないが、高校は行きたいと。
で、心では思っていても、それが行動に結びつかない。
で、高校にも行けなければ、ますます挫折感と喪失感で自信を失うだけなのにな。
自分に自信を持てるようになれば、勉強もする気になるだろうし、今の負のスパイラルから抜け出ることができると思うともどかしいけど。
そのきっかけってどうしたら訪れるわけ?
親がどうにかできることなのか?
ただ、がんばれとか、勉強しろとか言ってもだめなことはわかってる。ほっといてくれと言われるだけだ。
かといって、腫れ物に触るように扱うってのも違うと思うんだよね。
で、今、具体的にどうしているかというと、朝は普通に起こす。
朝食後、父親が30分くらい勉強を見てやる。
昼間は一人でゲームとビデオ。学校、フリースクールの類には、今のところ、行く気はない。
とりあえず、この生活をしている限りは、親子げんかもなく、平穏ではある。
このままで、なんか突破口はあるのかね、ないのかね。
追記:
そうだね。今も、家事を頼むと喜んでやっているよ。役に立ってる感があるのはいいよね。もっとやってもらうことにするよ。
2について
・興味を示さない者
・ファンタジーで終わる者
小児性愛者、レイパー→・児童ポルノを見る前から小児性愛やレイプに目覚めている者
・児童ポルノやレイプものを見て目覚める者(つまり児童ポルノを見るまでは小児性愛者やレイパーの素質(?)があるもその欲求(感情)が「眠り」にあった者?)
話は別で、
そういう児童ポルノはともかく、
性体験の年齢が早まっているのは、なんらかの外部刺激によるものだと考えてしまう。
早期の性教育に反対する者や児童ポルノが性癖に影響すると考えている者=「眠り」の時間が長い方がいいと考える者?
心理学詳しくないんで教えてほしいんだけど、欲求が眠っている状態って心理学の用語ではなんていうの?
覚醒の反対語?
追記。
俺は規制派(といっても売る場所を厳格化するぐらいの)
ある大学の先生(体育系の担当らしい)がラジオでしゃべってた。
「今の子どもは弱いです」
「ウチの大学にも通信制の高校出身の、弱さを抱えた子どもたちがたくさん来ます」
「うちの自慢は、一人も辞めさせないってことなんです。それが私のコンセプトなんです」
「そのためには嫌だって言われても家まで行きますし、お茶一杯、おにぎり一個の大切さを教えて行きたい」
最後何言ってんのかわかんねえ。
なんてことも言ってた。それって、話がこじれてからか?
家までおしかけて話こじらせてしまって、それをどうにかできると思ってるのか?
それって親身になるのと話が違うってわかってないのかな。
お前のコンセプトはいいけどさ。
何その適性ガン無視な方針は。
辞めさせないってのは、失敗ややり直しを認めねえってことか。
どうやったって、届かないところがある。
やってみなきゃわからない、とも言うけどさ。
自分のことならまだしも、それを相手に求められるの?
届くところには限界があるし、限界に近づくことを強要することは、私にはできない。
「すべてを失っても構わない」なんて言葉があるけど、例外がある時点で大嘘だし、言葉にしてる暇があったら動け、って話だ。
分からない、分かる力が無いってのは、見ていて本当に哀しいんだぜ。
たぶんこの哀しさは、元カノに言われたように、
「自分の敷いたレールに乗せたいけど乗ってくれない、乗り続けてくれない」
って不満からくるものなんだろう。
否定はできないなー。
放っておけば良いように変わっていくもんだ、ってのはファンタジーにしか思えないなぁ。
大局的には充分納得できる。「世界のことは世界に任せておきな。なんとかなっていくものさ」ってうろ覚えだけど、好きな作家の一節にあった。
けど、個別の話にそれを転用するのはどうなんだろう、って思う。
いやまあ、私が実際にやってること自体は結局のところおせっかい以外の何者でもないしね。
まあいいか。それで救われる人もいるんだろう。
私は私の仕事をしよう。
洗濯ものを畳みながら見たりしてて、なんだかんだで、いままで放映された分は二回ずつくらい、繰返し観ている。
なんでこんなに面白いと思うのか?
備忘のために、まとめてみたい。
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筋だけを面白いと思うなら、アニメを繰り返しては、観ないと思う。
絵も動きも音も好きだから、時間を費やして、原作本を読むのではなく、アニメを観るのだと思う。
(※私は同内容ならば、映像を観るよりも、活字を読む方が速いので...。)
今のところ、このアニメで私が最も好きな場面は、第四話の樋口師匠がデルタ突端(川の砂州部分)に座って歌う場面。
実際、それは話の筋には必要ないイメージ映像(歌詞だってナンセンスだし)。
でも映像が作り込まれて、時間もだいぶ割かれていて、素晴らしい!
(録画をしたままで未見のひとがいたら、第四話の、10分を過ぎたあたりを観てみてほしい。
主人公が亀の子タワシを探し終わって、夕暮れのなか、妹弟子の明石さんと帰る途中で、歌う樋口師匠を橋の欄干から眺める場面がそれ。)
この作品を通じてのキーアイテムのひとつである「海底二万里」をモチーフにして、
樋口師匠が居る砂州が、魚のように、潜水艦のように盛り上がって、
半袖で過ごす京都の夕暮れ、川べり、半袖と髪を揺らす風。
むかし何度か遊びに行った京都の空気が克明に思い出されて、「あっ!」と言ってしまった。
デフォルメがはげしいキャラクターデザインを、実写ベースの背景に配置していることで、
観ていて楽しい。
そして、とても面白い本だと思った。
とくに「何度繰り返せたとしても、きっと自分は同じことをするだろう(してしまうんだろう)」
という主題を、とても気に入った。
それから、村上春樹の書くものの一連の通底にも、同じ主題が流れていることを思い出した。
私はこの主題・考え方について、とても大事な考え方だと思っている。
不器用・不健康な精神の持ち主が、できるだけ健康的に生きていくためには、とくに有用だと思っている。
この考え方が出来ない場合には、過去のことを悔み続けて現在を過ごし、未来をダメにしていく可能性が高くなる。
(村上春樹は、あんなにも同じモチーフを繰返し描いて、繰り返すたびに昇華していった稀有な良い例のように見える。
近年は、あのモチーフから脱したようにも思われるし。)
ところで、話が逸れるが、この考え方のまま、すべてを放棄してしまうと、それはそれで未来がダメになることも、念のため書いておく。
出来るだけ健康的に生きていきたいなら、この考え方を、立脚点として使うと、有用になる。
「今」しかない視点を捨てて、「過去」「いま」「未来」を見渡す視点の立脚点として使うと、有用になる。
「未来からみて悔いのない、過去を繰り返せたとしても同じことを繰り返してしまう、そんな選択や行動を今その都度していく」
みたいなそんなかんじ。ヴォネガットのトラファドール星人いわくの時間の概念のことも書き加えてみたいけど、脱線しすぎなので自重。
さて、ひるがえって四畳半のアニメは、原作に忠実に話をすすめていきながら、繰返しを、主題をとても楽しめるものにしているように思う。
アニメならではの情報量の多さ(絵とか音とか)が、楽しめるようにとても工夫されていると思う。
思いもよらないところで、絵や音を繰り返したり、
状況の繰返しにおいて、絵や音を繰り返さなかったり。
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長くなりすぎた。 続きを書くことができたら、また。
今更だが、「ファンタジーで一般的な設定」だと、魔法術式の効率化としては、まず魔力のアウトソーシングが行われる。
魔力を貯めることができる魔導具などがそうで、使用者の魔法適正を魔法術式から除外するわけだ。
さらに進むと、術式そのものを魔導具に組み込むことで、魔力と術式のセットになる。
これは所謂、弾と火薬を仕込んだ拳銃であり、仕組み(トリガーを引く)を知っていれば使用可能になる。
ここまで来れば後は単純で、その設定を許す世界かどうかを決めるだけだ。
魔法を貴重にしたければ、そうした設定を許さないし、魔法が日常であれば、魔導具が露天で売られる事になる。
全ては設定次第。
「魔力を蓄える物質」なんて幾らでも創作できるし、術式の在り様も創作可能だから。
(メラとヒャドを合わせて・・・みたいな感じ)
ちなみに、呪文そのものも、大抵は魔法の効率化として存在する。
魔法の構築(魔力の練成、効果の決定、対象の選定など諸々の要素)を、一つ一つ考えることなく詠唱と言う行為に仮託する。
(練習をつんだ技は、考えるより先に体が動く、とか当て嵌めるといいかもしれない)
和製ファンタジーは大抵そうだね。
と言うよりも、トールキンは本気で世界を作っていたので、あれを例に出してはいけない。w
大体のマスターやプレイヤーは、騎士がどう行動するべきかとか知らないだろうし、人民の教育レベル(思想のレベル)も知らないだろう。
近代民主主義のような思想が、そこに登場して良いのかどうかとか、宗教の本来の有り様はどうあるべきかとか。
皆、適当だろうし、私も知らない。
よほど中世かぶれでなければ、どうしても近代的な社会になってしまう。
さて、時代考証や世界設定は、どこまでリアルに見えるべきだろうか?
みたいな問いになっちゃうよね。
でも、そもそもドラクエの物語は明らかにD&DなどのTRPGから派生した系譜に位置づけできるわけで、
指輪物語のようなハイ・ファンタジー(魔法の仕組みや神話、歴史など全ての世界観)が作られる
↓
その世界を使って、複数の人間が短時間で遊べる、宝探しや魔物討伐を主眼に置いたTRPGが発達(D&D等)
↓
それをコンピュータで遊べるように数値化、簡略化したCRPG(ウルティマ、ドラクエ)
(コンピュータで処理できるようにそぎ落としや翻訳が行われた)
↓
CRPGが発達し、様々なJRPGなどが作られるようになった。
……というような明らかな系譜があるわけだよ。結局のところ2回にわたる翻訳が行われて、
世界観や歴史、神話の説明はそぎ落とされた。結局のところ、そぎ落とされたものは
「遊びやすい形にするため、「コンピューターゲーム」として再現するためにそぎ落とされたのであって、
経済学や歴史的知識に対して無知だったから、という理由ではないんだよね。
だからズルいといわれても、「指輪物語」を読めば?としか言えないんだ。
頭に浮かんだ話を漫画や小説にするのが楽しくて、続きや新作を期待するクラスメイトたちに囲まれ、満たされていた毎日。
しかし、中学校に入ると、次第に周りから人が減っていった。
ジャンプやサンデーやマガジンの連載漫画の話はしても、それ以上の領域はダサいオタク趣味として皆敬遠し始める。
他にも、部活やら定期考査やら、小学校とは大きく日常が変わったというのもあるのだろう。
わざわざアマチュアかそれ以下のものを作る人間を取り巻き、もてはやす必要も、暇もない。
思春期を迎え、他人の価値や能力を認めるのは自分の価値を下げることに繋がると、特に同年代に対して無意識のライバル心を強く持ち始めていたというのもあると思う。
結局、漫画や小説が書けるというのは、かけっこで一番早いとか、新幹線の停車駅を全部言えるとか、皆より少し秀でていたり、特殊な技能を持っていることが羨望の対象だっただけ。
小学校の頃はクラスないし、学年や学校や遊び場が僕らの「世界」の全てだったからこそ、ナンバーワン、もしくはオンリーワンでいられただけでしかなかった。
僕らにとっての「世界」が一気に社会というレベルにまで広がり、色々なものをその基準で相対的に見るようになると、一気にその価値は暴落した。
中学校でも、最初こそ、小学校時代からの縁で僕が何かを書いているのを見て集まる人がいることに鼻の穴を膨らませていた。
僕は常にみんなの中心にいて、同年代の中の絶対的な勝者、そこらの奴とは違う特別な人間だと優越感に浸っていた。
でも、いつしか周りにいるのが特定の数人だけになっていて、女子には遠巻きに見られ、自分が中心にいるグループと他のみんなとの間に物理的にも隙間があることに気付かされて、激しく動揺した。
ゼロではないとはいえ、自分の周りから人がいなくなったのは凄まじい衝撃だった。
僕の書くものは僕自身であり、その変化は「お前という人間の価値は実は大した事がない」と宣告されたようなもの。
以降、隠れて授業中に書く以外、文芸部でだけ活動するようになった僕は、先輩や顧問に褒められることを根拠に、「自分は人とは違う」「自分は優れている」と思うようになったのは、単なる現実逃避だったと今では思う。
分かる人は分かってくれる、分からない低脳なんて無視しろ、僕は才能があるんだと、ことあるごとに自分に言い聞かせていた。
天才と言われる人種はもっと早くからだろうけども、そうでなくとも中学くらいになると、その「才能」より秀でた結果を出す人間が現れる。
それは必ずしもスクールカーストの上位に位置するわけではないだろうけども、少なくとも「才能」によってある種のヒエラルキーの上位に認識される現実が、僕の絶対的な価値観になっていた。
だからこそ「才能」を裏付けるために、小学校の時のような「人気」ではなく「権威」を求めた。
その人たちに認められるのがすなわち自分の「才能」ゆえだという思いは、市が募集しているジュニア文学賞を取るに至ってピークに達した。
そして、三年生に進級して先輩がいなくなる頃、自分は先々文芸で社会的に認められるのが当然の人間だという意識しかなかった。
ネタを探したり、物語を書くために読んだ本のせいで色々と得た雑学のお陰であちこちで博識キャラで認識されたことに気をよくし、哲学書に手を出してみたり、感想や校正を求める後輩に偉そうに指摘して批評していたあの頃の思いあがった黒歴史は、今でも時間を遡って殴りつけてやりたいと思えるほど酷い。
そして同時に、オタク趣味も変わらず持っていたため、あとはよくあるワナビ街道まっしぐら。
ラノベの世界を知り、自分なら簡単にこの作者たちを追い抜ける、もっと素晴らしいものを書ける、と当然のように思っていた。
小学校からやっていた自分は一日の長どころではないものを持っているのだから、市の文学賞を取ったくらいなのだから、と。
設定を細かく決め、物語を練りに練った自称大作を、高二の頃に自信満々で応募。
「大賞受賞作」の帯とともに書店に並ぶ光景と、「高校生作家」の響きを頭に思い描いていたところに届いたのは、落選の知らせだった。
ふむ、何が拙かったのだろう、ライトノベルに自分の書くものはそぐわないのだろうか、もっと大衆向けを意識しなければならないのだろうか、ファンタジー王道のあの作品やSFのあの作品は、などと思いながら二つ目を書いて応募し、また落選。
受験をはさんで数年それを繰り返してことごとく撃沈し、完全に自信を失った。
それでも諦めきれなかったが、どうしようもなく煮詰まっていた僕が次に逃避したのはネットに投稿される二次創作小説だった。
その頃はまっていたアニメの二次創作を書いて投稿すると、知らない人から感想メールが来て、そこに並ぶ褒め言葉に感動。
次第にその数が増え、アクセスも増え、いつしか小学校の頃の自分に戻ったように感じていた。
僕が書くものを楽しみに待っている皆がいる。
僕の書くものを褒めてくれる、認めてくれる。
さらに、そのジャンルから本職の作家になった人もいるということが希望と自信になっていった。
まさかの縁で、本職作家さん(ラノベではない)とも知り合えたとき、もはや自分の中ではそのジャンル内での本職デビュー最有力候補の気になっていた。
やはり僕には人に認められるだけの才能があり、その縁で更に素晴らしい才能を持つ人とも知り合う事ができたとまた増長していた。
その頃、二次創作作者の中で中堅キャリアの良作作家という評価を得ていたことから、そろそろ頃合いだと思い、「僕がその実力を認める作家仲間」に声をかけて、また新人賞に応募。
そして見飽きた選評。
受賞した人の出版された作品を読んでみると、自分の応募作がそれらに比べてそこまで劣っているとは思わないし、自分のほうが上だと思うものも珍しくない。
何故落選なのか分からなかった。
知人の本職の先生にも度々話を聞かせてもらって参考にし、応募した仲間うちでも互いに批評と推敲を重ねたのに何故なのか。
それで何かがふっと切れた。
今年はどこにも応募していないし、そのつもりもない。
ワナビ熱が冷めてしまったということだろう。
今でも書くことは好きだ。
でも、素人文芸の枠でいきがってるのがせいぜいということなのだと思う。
「僕が認めた二次創作作家仲間」ではない人が、件の先生に声をかけられているらしいという噂を耳にした。
僕と同じように「中堅キャリアの良作作家」と言われていたその人は作家志望ではないはずだった。
そのアニメ好きが高じて趣味で二次創作文芸をしているだけで、創作を始めてまだ数年、オリジナルを書いた経験がなく、二次創作の発表作品数も僕より少ないというのは聞いている。
読書もあまりすることがないらしいのに何故なのか全く分からない。
マンツーマンで数時間色々な話をされ、数年中にデビューしろと言われたらしい。
僕はお願いして時間を取ってもらい、軽く話を聞かせてもらっただけである上、そんなことは言われもしなかった。
「才能の差でしょ」と妹に言われたけれど、多分そうなんだろう。
度々思い上がり、叩きのめされ、浮上してまた思い上がり、を繰り返しているだけだった自分には、「天性の才能」なんてただの夢物語だった。
それが本当に誰しもが夢見るだけのものだったならよかったのに。
「才能」という言葉、それが表すもの、僕も欲しかった。
同性愛は賛成だ。
が、しかし。
やおい的な二次生成物にも興味もない
なのに
なんで
豊国とか歌麿を彷彿させるような
いや彼らのポルノにも負けずとも劣らないというか
完全勝利を収められる程の、生まれた子供の背丈サイズの巨大な巨根を
お互い抱きしめながらうふふあははと無邪気に笑う男子二名に部屋を提供するという夢を見た。
本当、びっくりするくらいでかかった。
別にイケメンでもなかった。
その二人を見ながらコーヒーを入れてふつうに身支度して出勤するという通常。
これは何を意図してるんだろう。
何か病気なんだろうか。ちょっと心配になった。
ちなみに、自分の性別は、間違いが病院で認められていないからおそらく正しいと思うが、
女
だ。