人は他人に暴力を振るわずには生きていけないんだなーっていうことを、昨今の「推し」文化の中に強く感じる
ポリコレ的なムードで暴力がタブー視された結果、「倫理的」に生きる義務を負った現代人たちは、「推し」 - インスタントかつ誰も傷つけない(ように見せかけられた)他者消費 - でもってなんとか溜飲を下げてる。神を持たない多くの日本人にとってそれは特に顕著で、いや海外の状況とかは知らないけど、顔の幼いアイドルがエンタメ商業を席巻してるこの状況は明らかに奇特だと思う。秋元康はじめ日本の幼いアイドルなんかは、分かりやすく性的消費の様相を呈しているけど、ジャニーズなんかは消費の方向(女性→男性)も相まって、消費者に罪悪感を与えないようその暴力性が隠蔽されてきた。で、その皺寄せが内部に来てるんだろうなーと思う。
「推し」文化的な態度は、他者の多面性を否定し、都合のいい一面だけを抽出して消費する。誰も傷つけたくなくて、人と向き合うのは大変だから、用意された人形で事を済ます。グロテスクじゃない程度に笑ったり泣いたりしてほしい。それを遠くから眺めて、金銭によってうっすら繋がっていたい。生の実感、の商品化。(その商品価値がブーストして距離感にバグが生じた結果が、ホス狂い、地下ドル、みたいなことになるんだろうなーと思う)
お笑いのファンダムみたいなのも同じ感じに見える。M1の舞台裏映像とか、きつい。てかお笑いはまた別の方向で暴力装置が過ぎる。俺の目には、どこまでいってもすごく全体主義的に感じる。
まぁ、現代における消費者としてのそういう態度はすごく利口で社会的だなーとは思う。社会的であることって、結局、みんなで同じものを殴れるかってことなんじゃないですか?いま殴ってもいいものを、いま流行ってるやり方で。別にどうでもいいんだけど、俺は殴る相手は自分で決めたい 誰のことも殴れずに引きこもって怯えてる人と、ビクビクしながら殴り合いたい