上記の定義は多くの人が同意し、多くの人が追録しようとするだろう。
もはや同性愛が広く認識されている現在においてセックスは男女の営みに留まらない。
性別が何であろうが、相手が単数だろうが複数であろうが、セックスが他者との性的な交わりであることに変わりはない。
私はセックスの快楽とは他者の不在化による自意識の安定化だと考える。
愛撫などのコミュニケーションによる関係構築は他者を自己に組み込み、受動的な快感の享受は他者を機構的にし、能動的な快感の供給が全能感を与える。
交わることによる一体感が他者を不在にする。一人じゃないと確認することが一人にしてくれる。セックスしてる相手が実際どう思ってるかどうかなんて関係ない。だって自分が思い込むのがセックスだから。
なんてつまらないんだろう。
ではオナニーとは何なのか?
上記の定義に多くの人が同意するだろうが、私はそうは思わない。
刺激する部位は性器でもなくてもいいし、触覚ではなく聴覚などでも性的快感は得られる。そもそも性器をいじって得られる快感を性的だと表現ことはオナニーをセックスの類に含めているからではないか。
確かに性器に快感に与えるとこでセックスは促進されている。淘汰によって作り出された厳然たるシステムだ。しかしそれに従ってオナニーをセクシャルだとすることは、セックスとは子孫繁栄のために行われる男女の交わりとするのと同レベルの追認ではないか。
ではオナニーとは何なのか?
そのどれでもない。いや、そのどれでもいいのだ。
なにを縛られる必要があるのだろう。自由でいいじゃないか。オナニーはセックスとは別物なんだから。
確かに現時点ではオナニーは性的と見なされても仕方ないのかもしれない。しかし、この先もそうだとは限らない。
技術の進歩、文化の発展。私たちの未来の可能性があるように、オナニーには可能性があるのだ。(セックスにはない。)
無限の可能性があるものに定義も名前も必要ない。その志を込めて、今日から私はオナニーを「」と呼称することにする。
今日、私は「」をした。
セックスは暴力だよ