キモく、金がなく、成長性がなく、人に胸を張れるような能力もない人間に幸せになる権利はないのだろうか?
人に少しでも迷惑をかける人間は、幸せになってはいけないのだろうか?
ラーメンを食うというのは誰にもできることであり、電車を撮ったりアニメやゲームをするくらい誰にでもできることだ。
誰にでも出来ることに、偏執的に価値を見出すのは、キモく、金がなく、成長性がなく、能力がないからだ。
そういう人間は大抵の場合、社交性もない。端的に言ってコミュ障だ。
だから、人間の中でも最底辺であることが多い。当たり前のことだ。
だが、キモく、コミュ障な底辺から、キモく、コミュ障であることを奪う権利が、誰かにあるのだろうか?
俺はないと思う。
キモく、コミュ障で、能力がない人間が幸せになろうとする権利を奪う権利は誰にもないはずだ。
金だの、社会的な地位だの、そういうものを、コミュ力のある人間が独占するのはいい。
何故なら人類が享受しているインフラや資産のほとんどは、コミュ力によって生まれたものだからだ。
だから、価値あるものほぼ全てをコミュニケーション強者が独占するのは理に適っている。
一方で、普遍的価値のないものに輝きを見出して、底辺は幸せを得ようとする。それもまた理に適ったことではないだろうか?
ダイヤモンドは誰もが欲しがるだろう。金持ちが持っていればいい。底辺は路傍の石に、底辺同士で価値を見出す権利があるはずだ。
上で書いたように、ラーメンオタク達にキモくてコミュ障である人間が多いのは当たり前のことだ。
たかが一杯1000円前後の食べ物に偏執的にこだわるのはおかしいことだ。社会生物としておかしいと言って構わないだろう。
そんな人間達なのだから、関わればキモい思いをする確率は高いだろう。迷惑だと感じることも多いだろう。
俺は、あると思うのだ。
犯罪者を許せと言っているわけではない。好きに法律で裁けばいい。ただ、俺達には素晴らしい法律というシステムがあるのだから、法律を好きに使えばいいじゃないか、とも同時に思う。
法で裁けぬ不快さは、許容してやってもいいじゃないかと、おおらかになっても良いと思うのだ。
法に訴えるコストに見合わないというのなら、法で裁くほどのものでもないというのなら、きっとその程度のものなのだ。許せばいいじゃないか。
そもそも、今は情報インフラが整っているのだから、キモい底辺の生息地なんて、調べればわかるじゃないか。調べて、わかるのなら、近寄らなければいいじゃないか。痰壺の中に痰があることを騒いでどうするのだ。
そんな路傍の石を愛でる底辺コミュ障たちの集まりに、わざわざ出向いて行って、
誰かが、幸せになるんだろうか。俺は、ならないと思うのだ。
撮り鉄に「お前達はおかしい」と叫ぶことが、ドルヲタに「お前達はおかしい」と叫ぶことが、
アニヲタやゲーヲタに「お前達はおかしい」と叫ぶことが、何か意味のあることなのだろうか?
俺は、ないと思うのだ。
まずラーメンヲタの件ってなんだ